マヤの失踪
最初の数時間、道は不審なほど穏やかだった。
アルマザは少しずつ遠ざかり、やがて高い塔も地平線の上に浮かぶ細い影となった。
その先には、東へ続く街道が静かに伸びている。
広い大地。
まばらに立つ木々。
風に揺れる短い草。
時折すれ違う荷車の御者たちは、ラカンに軽く頭を下げ、そのまま先へ進んでいった。
すべてが自然に見えた。
だからこそ、ラカンの警戒は解けなかった。
彼は一定の歩調で先頭を進んでいた。封印された書状は胸元の鞄に収められ、街道図は懐に折り畳まれている。
地図を何度も開く必要はなかった。
道は、紙に引かれた線だけで読めるものではない。
その後ろでは、マヤが左側、シグランが右側を歩き、ヤザンは二人の間で半歩ほど遅れていた。
シグランは隊列を見回して言った。
「俺たちは任務中なのか? それとも子供の行列か?」
ラカンは振り向かずに答えた。
「任務中だ」
「なら、どうしてこんな並び方をする?」
「城壁の外へ出たからといって、無秩序が勇気に変わるわけじゃない」
シグランは小さく息を吐いたが、自分の位置を崩さなかった。
ラカンが続ける。
「マヤ、左側だ。特に木々の間の動きを見ろ。シグランは右。ヤザン、地面ばかり見るな。前も後ろも任務の一部だ」
ヤザンはすぐに顔を上げた。
「はい」
マヤの視線が、木々と街道の間を行き来する。
シグランは興味がなさそうに見えたが、近づいてくる荷車があれば、すれ違う前から必ず目を向けていた。
一行は歩き続けた。
ラカンは、物音がするたびに振り返るわけではない。
だが、どんな音も聞き流さず、頭の中で正しい位置へ置いていった。
風に擦れる草。
遠くで軋む車輪。
枝から枝へ移る鳥。
近づいてきた蹄の音が、分かれ道で別の方向へ消えていく。
荷車とすれ違うときには、御者の顔、手の位置、積み荷、そしてこちらを見る目まで確かめていた。
道は静かだった。
だが、何もないわけではなかった。
しばらく進んだところで、ラカンが言った。
「街道での第一の規則だ。互いに距離を取りすぎるな。だが、固まりすぎてもいけない。離れた者は一人の獲物になり、集まりすぎれば班全体が一つの標的になる」
「分かりました」
マヤが答え、ヤザンもうなずいた。
シグランが尋ねる。
「四日間ずっと、歩き方を習うのか?」
「道の歩き方を知らない者は、戦いに着く前に死ぬ」
シグランは一瞬ラカンを見た後、右側へ視線を戻した。
何も言い返さなかった。
だが、彼と仲間たちとの距離は、いつの間にか正確に保たれていた。
◇
正午が近づくにつれ、日差しが街道の上に重くのしかかり始めた。
焼けつくような暑さではない。
それでも距離は実際より長く感じられ、小さな丘を上るたびに、見た目以上に呼吸を奪われた。
マヤは呼吸を整えながら一定の歩調を保ち、ラカンに命じられたとおり木々を観察していた。
シグランは疲れなど感じていないように歩いていたが、肩の動きに少しずつ退屈が表れている。
ヤザンは、何も見せまいとしていた。
最初は、走るより歩くほうが楽だと思っていた。
ケメンは必要ない。
正体も分からない扉を開く必要もない。
誰かに何かを証明する必要もない。
だが数時間が過ぎると、肋骨の下に鈍い重さが溜まり始めた。
鋭い痛みではない。
坂を上るたび、静かな圧迫感が少しずつ強くなっていく。
ラカンに教えられたとおり呼吸を変えると、いくらか軽くなった。
だが、すぐに戻ってくる。
アナスの言葉が頭をよぎった。
『道端の石にまで、自分を証明しようとするな』
自分はそんなことをしていない。
ヤザンはそう言い聞かせた。
それでも、休みたいとは言わなかった。
最初の休憩が、自分のためになるのが嫌だった。
気づかないうちに、歩調が落ちていく。
シグランがそれに気づいた。
ヤザンを直接見ることなく、自分の歩調を落とし、隣へ並ぶ。
そして低い声で言った。
「ここで倒れたら、ラカンに責任についての説教を聞かされる。俺の一日をこれ以上悪くするな」
ヤザンは呼吸を整えながら答えた。
「大丈夫だよ」
「聞いてない」
ヤザンはシグランを見た。
その顔に分かりやすい心配はない。
だが、歩く速さは先ほどよりも明らかに落ちていた。
ヤザンは、言葉にされなかったものを理解した。
だから何も返さなかった。
マヤは視界の端で二人の様子を捉えた。
唇に小さな笑みが浮かんだが、すぐに木々へ視線を戻す。
数分後、ラカンが足を止めた。
まるで、初めからその場所で休むつもりだったかのように。
「短い休憩を取る」
ヤザンが顔を上げる。
「でも、まだ歩けます」
「歩けるかどうかは聞いていない」
ヤザンは黙った。
ラカンは、街道から少し離れた場所に立つ大きな木を示した。
「あそこだ。街道を見失わず、こちらも丸見えにならない」
一行は木陰へ移動した。
マヤは鞄を下ろし、腰に留めていた水筒を外してヤザンへ差し出す。
「飲んで」
ヤザンは自分の水筒を少し持ち上げた。
「僕も持ってるよ」
「知ってる。どちらでもいいから、ちゃんと飲んで」
ヤザンの顔に、気恥ずかしそうな笑みが浮かんだ。
自分の水筒を開き、数口飲む。
シグランは近くの岩に腰を下ろした。
偶然そこを選んだように見えたが、街道を見渡せる位置で、木々へ背を向けてもいなかった。
ラカンは膝の上で地図を開き、東へ伸びる線を指でなぞる。
マヤが尋ねた。
「東槍駐屯地まで、あとどれくらいですか?」
「この歩調を保てば、およそ四日だ。天候や道の状態次第では、少し延びる」
シグランが言う。
「もっと速く着けるはずだ」
ラカンは彼を見た。
「一番速い者だけなら、もっと早く着ける」
地図を折り畳む。
「だが俺が選んだのは、最も速い一人が着く道じゃない。班全員が着く道だ」
静かな声だった。
それでも、その言葉は全員に届いた。
ヤザンは手の中の水筒へ目を落とした。
ラカンが続ける。
「速さだけが必要なら、班を送る理由はない。任務は、担い手が報告書を書くより先に、その人間についての報告を書き上げる」
マヤが首を傾げた。
「どういう意味ですか?」
ラカンは三人を見た。
「どう歩くか。どう休むか。どう周囲を見るか。そして、何も起きていないときにどう振る舞うかだ」
ヤザンが聞き返す。
「何も起きていないとき?」
「多くの失敗は、何も起きないと安心した瞬間に生まれる」
軽い風が枝の間を抜けた。
ラカンの目が、遠くの枝で止まる。
小さな黒い鳥が一羽、そこにとまっていた。
それ自体は不自然ではない。
朝から何羽もの鳥が街道を横切っている。
だが、その鳥は地面にも餌にも目を向けず、じっとこちらを見ていた。
ラカンも黙って見返す。
やがて鳥は翼を広げ、丘の向こうへ飛び去った。
マヤが尋ねた。
「何かありましたか?」
ラカンは地図へ視線を戻した。
「証明できるものは、まだ何もない」
安心できる答えではなかった。
それでも、マヤは聞き返さなかった。
遠く離れた丘の上では、ひとりの男が草の間に身を伏せ、彼らを観察していた。
ラカンが休憩場所を選ぶ様子。
街道を視界に残したまま、こちらの姿を隠したこと。
他の者より早く黒い鳥に気づいたこと。
男は胸の内で呟いた。
『教官は、ただ一緒に歩いているわけじゃない』
そして、丘の陰へゆっくりと身を引く。
『周囲の道を、すべて閉じながら歩いている』
◇
日が西へ傾き始めると、ラカンは野営に適した場所を探した。
二か所を通り過ぎた後、ようやく足を止める。
乾いた地面。
一方向を守る低い岩。
視界を遮らない程度に間隔の空いた木々。
街道に近すぎず、それでいて荷車の音が聞こえなくなるほど遠くもない。
マヤは周囲を確認した。
「岩が一方向を塞いでいます。木々の間隔も広くて、近くに背の高い草もありません」
ラカンがうなずく。
「いい。他には?」
マヤは足元を見る。
「ここなら風が抜けます。煙が野営地に溜まりません」
「いい判断だ」
シグランは岩のそばに鞄を置いた。
「寝る場所を選ぶだけで、ここまで試されるとは思わなかった」
「だからお前には選ばせなかった」
シグランはラカンを見たが、何も言い返さなかった。
四人は野営の準備を始めた。
ヤザンは近くから小さな薪を集め、マヤは乾いた枝を運ぶ。
シグランは火を起こす場所から草と、熱で割れそうな石を取り除いた。
ラカンが一つひとつ指示する必要はなかった。
三人の動きを見守り、間違いに近づいたときだけ口を出した。
やがて野営地の中央に火が灯った。
橙色の光が、四人の顔の上で揺れる。
彼らは火を囲み、保存食を口にした。
シグランは手の中の一切れを眺める。
「これが見習い騎士への褒美なら、長生きできない者が多いのも納得だ」
マヤが言う。
「そこまで悪くないわ」
ヤザンも小さな一切れを口にした。
「アイン・アルワールでは、これより硬いものも食べてたよ」
短い沈黙が生まれた。
ヤザン自身は、以前より自然に故郷の名を口にしたことに気づいていない。
だが、マヤは気づいた。
ラカンも、横目で彼を見ていた。
シグランが言う。
「お前が何でも食べられる理由が分かった」
ヤザンは眉を上げる。
「何でもは食べないよ」
「地面に落ちたパンを救出していたのを見たぞ」
マヤが口を挟む。
「食べ物を粗末にしなかっただけよ」
シグランは二人を見比べた。
「お前たちは、パン一切れからでも道徳の授業を始められるんだな」
ヤザンが短く笑い、その直後に軽く咳き込んだ。
マヤの手が止まる。
ヤザンは彼女が何か言うより先に、片手を上げた。
「煙が喉に入っただけ」
ラカンは少しの間、彼を見ていた。
呼吸がすぐに落ち着くのを確認すると、何も言わなかった。
この小さな時間を、続くままにしておきたかった。
道が、いつもこうした時間を与えてくれるとは限らない。
食事の後、ラカンは小枝を手に取り、野営地の周囲の土へ円を描いた。
「次は夜番だ」
三人の表情が引き締まる。
ラカンは周囲の闇を示した。
「夜番は、ただ目を開けていることじゃない。何を見るべきか分からない者は、起きたまま死ぬ」
小枝の先を木々へ向ける。
「すべての音を追うな。まず、今聞こえている音を覚えろ。その後で、どの音が消えたかに気づけ。風は見ろ。だが、揺れる葉を一枚ずつ追う必要はない。風がないのに動いた葉を探せ」
マヤは真剣にうなずいた。
ラカンが続ける。
「すべての影を追うな。だが、同じ場所へ戻る影は見逃すな」
シグランが尋ねた。
「順番は?」
ラカンはマヤを見る。
「最初の夜番はマヤだ。真夜中まで。火もまだ強く、周囲も見やすい。一番楽な時間だから、まずお前がやれ」
「分かりました」
次にシグランへ目を向ける。
「次はシグラン。真夜中から夜明け前までだ」
「一番悪い時間を俺に選んだな」
「最も忍耐が必要な時間を選んだ」
答えに満足した様子はなかったが、シグランはうなずいた。
「最後の夜番は俺が引き受ける」
ヤザンは、自分の番を待った。
ラカンが続ける。
「ヤザンは、夜明け前に俺と半刻ほど夜番に立つ。訓練としてだ。一人では任せない」
ヤザンの顔に、小さな落胆が浮かんだ。
「もっと長くできます」
「身体が戻れば、そうさせる」
ヤザンは目を伏せた。
決定が気に入ったわけではない。
それでも今回は、逆らおうとはしなかった。
「分かりました」
ラカンは小枝で描いた円を示す。
「夜番の者は、ずっと火のそばにいるな。だが、野営地の境界からも出るな。時々場所を変え、闇に自分の位置を覚えさせるな」
マヤが立ち上がった。
「始めます」
火から数歩離れる。
背後にぬくもりを残しながらも、炎の明かりで闇が見えなくならない位置だった。
シグランは岩のそばに寝床を作った。野営地の円から遠くない場所だ。
ヤザンは小さな天幕へ入り、ラカンは木の幹に背を預けた。
夜番に立っているのはマヤひとりだった。
だが、自分だけが起きているとは感じなかった。
背後では火が呼吸している。
右手ではシグランが横になっていたが、まだ眠りには落ちていない。
天幕の中から聞こえるヤザンの呼吸は、しばらく不規則だったが、やがて静かになった。
ラカンは半分だけ目を閉じる。
完全な眠りではない。
夜へ背中を預けるほど、道を信用していない男の休息だった。
マヤの目が、岩と木々の間をゆっくりと動く。
虫の声。
草の揺れ。
薪の弾ける音。
枝を抜ける風。
ラカンに教えられたとおり、一つずつ音を覚えていった。
◇
野営地から離れた小さな斜面の陰で、監視者が草の中に身を低くしていた。
ラカンに気づかれるほど近くはない。
だが、見失うほど遠くもなかった。
シグランを見る。
あの名を背負う少年。
強く、鋭い。
だが、判断より先に怒りが動く。
次にマヤへ視線を移す。
彼女が弱いから、班の弱点になるのではない。
あの少女という糸を引けば、他の者たちが動くからだ。
男の目が、ヤザンの天幕へ移る。
三人目の生徒。
負傷し、歩みは遅く、必要以上に守られている。
ラカンが彼を守るのは、足手まといだからか。
それとも、試験で起きたことが、教官にも答えのない問いを残したからか。
だが、ヤザンは標的ではない。
標的はシグランだ。
本当の問題は、木の幹に背を預けている男だった。
ラカンは目を閉じても、身体を街道へ向けたままだ。
野営地を慎重に選び、間隔を整え、標的を自分の守りの外へ出していない。
監視者は胸の内で呟いた。
『教官は、閉ざされた扉だ』
腰の小袋へ手を伸ばし、薄い黒色の欠片を取り出す。
燃えた紙に似ていた。
だが、灰にはなっていない。
今度は、袋へ戻さなかった。
二本の指で挟み、細いケメンを流し込む。
欠片が震えた。
次の瞬間、自ら折り畳まれるように縮み、空中に開いた小さな穴に呑み込まれたかのように消えた。
男は囁く。
「教官が問題なら……まずは、引き離す」
野営地の東側。
少し離れた場所で、乱れたケメンの気配が一度だけ脈打った。
マヤが顔を上げる。
重なった枝の間で、影が動いた。
そして消える。
マヤは待った。
しばらくすると、同じ影がほとんど同じ場所へ戻ってきた。
彼女はゆっくりと手を上げる。
夜気の湿り気が集まり、小さな水滴が指先に浮かんだ。
落ちない。
ただ、震えている。
次の瞬間、虫の声が消えた。
マヤが囁く。
「先生……」
ラカンは同時に目を開いた。
何があったとは聞かなかった。
彼もまた、その気配を感じていた。
シグランが目を覚まし、東へ顔を向ける。
指の間に、赤い炎が細く灯った。
天幕の中では、ヤザンが浅い眠りの中で身じろぎする。
ラカンは音もなく立ち上がった。
「円の中にいろ」
シグランが言う。
「俺も行く」
「駄目だ」
鋭く、迷いのない声だった。
ラカンはマヤとシグランを見る。
「何を聞いても、ここから出るな」
乱れた気配のある東へ、足音を立てずに進んでいく。
走りはしない。
遠くまで離れもしなかった。
だが、やがて木々が彼の身体を半分隠した。
ケメンの気配が弱まる。
そして、さらに遠くで現れた。
ラカンは足を止めた。
目が細くなる。
気配は逃げているのではない。
自分を導いている。
すぐに振り返った。
その瞬間、マヤの背後で空間がずれた。
音はなかった。
木々の間から、何かが飛び出したわけでもない。
ただ、彼女を取り巻く空間そのものが、野営地から切り離された。距離も、音も、光さえも、あるべき場所から外れていた。
マヤは後ろへ下がろうとする。
だが、足は予想していた地面へ届かなかった。
背後の石は、本来よりも近い。
一度まばたきをしただけなのに、炎は先ほどより遠く見える。
マヤは素早く振り向いた。
手の周囲に水が立ち上がり、透明な刃のような形を作る。
先ほどまで誰もいなかった場所に、男が立っていた。
静かに。
微動だにせず。
闇に身を隠していたのではない。
闇が彼のために小さな扉を開き、背後で閉じたかのようだった。
マヤが口を開く。
「シグ――」
声の行く手で、空気が折れ曲がった。
言葉は誰にも届かないまま消えた。
マヤは前へ手を突き出す。
水の槍が男の胸へ向かって放たれた。
だが、二人を結ぶ距離が横へ傾く。
槍は軌道を外れ、本来なら通り道にないはずの岩へ激突した。
マヤの目が見開かれる。
男は静かに言った。
「速いな」
マヤはもう一方の手を上げる。
その手首の周囲に、細い黒い線が現れた。
皮膚を締めつけているのではない。
動きそのものを縛っている。
マヤは抗った。
両足を地面へ押しつけ、どうにか一本の指だけを動かす。
細い水の糸が土の上を這い、野営地の火へ向かって伸びていった。
男はそれを見た。
だが、止めなかった。
「痕跡は残しておけ。その糸があれば、餌はもっと本物らしくなる」
闇が二人の周囲で折り畳まれた。
マヤの腰から水筒が落ち、火のそばの石へぶつかった。
そして、動かなくなった。
次の息を吸うよりも早く――
マヤは、そこから消えていた。




