黒の帳
三番の三人は、一人ずつ広場を後にした。
最初に出ていったのはマヤだった。
何度も振り返り、イザンが一人で戻れることを確かめる。
続いてシグラン。
歩みは静かだった。
肩はまだ一部の動きを拒んでいたが、本人の顔だけはそれを頑なに認めようとしない。
そしてイザンは――
石道の出発点で立ち止まった。
走り切れなかった場所を見る。
小さな声で言った。
「明日……止まったところから、また始める」
ラカンは止めなかった。
ただ、イザンの姿が学園の建物の間へ消えていくまで見届けた。
やがて広場から人が消えた。
壁の向こうから聞こえていた生徒たちの声も遠ざかる。
残ったのは、
木々の葉擦れ。
石の上を渡る、わずかな風。
ラカンは一人立っていた。
だがもう、イザンが止まった場所を見てはいなかった。
見ていたのは――
まだ誰にも見えていないものだった。
侵入者たちは五番の身分を使って入った。
徽章を持っていた。
正式に見える通行札も。
本物の隊員たちの名前も知っていた。
呼び出し時刻を知り。
競技者が使わない通路を通った。
そして閉鎖された森の中で、三番へたどり着いた。
その後――
消えた。
死体はない。
捕虜もいない。
どこから出たのかも分からない。
最初にマヤが倒れた。
次にシグラン。
そしてイザンの記憶は――
一人だけ残された瞬間で途切れている。
三人の生徒。
三つの欠けた証言。
そして、その中心にある一つの空白。
背後から声がした。
「どれだけ見つめても、道は答えてくれないぞ」
ラカンは激しく振り向かなかった。
身体が一瞬だけ強張る。
それから、ゆっくり振り返った。
シャミルが近くの木陰に立っていた。
足音は聞こえなかった。
近づいてくる気配すらなかった。
まるで影は最初からそこに存在していて――
今になって人の形を選んだだけのようだった。
ラカンがわずかに頭を下げる。
「シャミル殿」
シャミルが言う。
「まだ肩書きを、質問との間に置くのか」
ラカンは顔を上げた。
「敬意なしに聞くべきではないこともあります」
シャミルは石道へ近づいた。
イザンが止まった場所を見る。
「具合は?」
誰のことか、尋ねる必要はなかった。
「最初の数日よりは良くなっています」
「だが、治ってはいない」
「はい」
ラカンは少し黙る。
「身体は薬を受け入れました。熱も下がった。歩けるようになり、短い距離なら走れます」
道を見る。
「ですが、少しでも無理をすれば胸の圧迫が戻る」
シャミルが言った。
「だから、経路を無理に開かせるなと言った」
「させていません」
シャミルの目がラカンへ向く。
ラカンが続ける。
「ただ――」
「ケメンがなくても、あいつは自分を傷つけられる」
少し間を置く。
「止まることを敗北だと決めつければ、それだけで十分です」
短い沈黙。
「違いは分かり始めたか?」
「今日、ようやく」
シャミルは静かにうなずいた。
その程度の小さな進歩でも、今は十分だと言うように。
だがラカンは、それだけでは終われなかった。
「器の試験は、あいつを理解できなかった」
シャミルの表情は変わらない。
「理解できない者は多い」
「医師は、あいつの身体に通常のケメン解放とは違う圧力を見つけた」
シャミルは黙る。
ラカンは続けた。
「そして森では、誰も覚えていない何かが起きた」
シャミルが目を上げる。
「何を聞きたい、ラカン」
ラカンは一歩近づいた。
「なぜ、イザンが関わる時にはいつもあなたが現れるんです?」
シャミルの目が静かに彼を捉える。
怒りはない。
露骨な威圧もない。
それでも二人の間の空気が重くなった。
「状態の深刻さを俺が理解する前に、あなたは薬を渡した」
「必要なものを知っていた」
「経路を無理に開けば死ぬ可能性があることも知っていた」
一度黙る。
「そして今、調査が三番に届いた直後に現れた」
シャミルが言う。
「繋がっているか分からないものを、お前は一つに集めている」
ラカンが答える。
「ですが、全部あの少年へ向かっている」
シャミルは答えない。
「あなたは、言っている以上のことを知っている」
シャミルは迷わず答えた。
「いつもな」
ラカンの目が細くなる。
「安心できませんね」
「安心させに来たわけではない」
ラカンは分かっていた。
この男から、力ずくで真実を引き出すことなどできない。
それでも――
もう退く気はなかった。
「ダリウスがシグランを聴取しました」
「知っている」
「五番が偽物だったことも確認された」
ラカンはまっすぐ彼を見る。
「本物のティルマラ隊は縛られた状態で発見された。侵入者は彼らの身分を奪って試験へ入った」
シャミルは動かない。
「三番の札は要求しなかった」
「試験そのものにも興味を示さなかった」
「八番の者たちは、生かしたまま少年を連れていけという命令を聞いている」
シャミルの目に――
ごく小さな変化が走った。
ほとんど見えないほどの変化。
だが、ラカンは見逃さなかった。
「誰だったか知っているんですね」
シャミルは答えない。
ラカンがもう一歩近づく。
「シャミル殿」
枝の間を風が抜ける。
やがてシャミルが口を開いた。
「国境の報告で、名前だけは出ていた」
「確証のない名です」
「報告を書いた者たちは、まだ奴らの痕跡を知らなかったからだ」
ラカンが見つめる。
「あなたは知っている?」
シャミルが目を上げた。
「知っている」
一拍。
そして告げた。
「――黒の帳」
その名が空気に残った。
静かな名だった。
だが一瞬――
周囲の影そのものが耳を澄ませたように思えた。
ラカンが繰り返す。
「黒の帳……」
シャミルがうなずく。
「軍ではない」
木々の向こうへ目をやる。
「軍なら旗を残す」
そして続ける。
「盗賊でもない」
「盗賊は、目についたものを奪う」
視線をラカンへ戻す。
「奴らは――」
「欲しいものを知ってから入ってくる」
ラカンが言う。
「一つの隊から、名前ごと盗んだ」
シャミルが答える。
「名前を盗む」
「顔を盗む」
「道を盗む」
ラカンの声が低くなる。
「そして、学園の封印を抜けた」
シャミルが言う。
「扉を開けた者がいたからだ」
その言葉とともに――
ダリウスが調査の中心へ置いた問いが戻ってくる。
**誰が、彼らに道を開いた?**
ラカンが聞く。
「内部の人間ですか?」
「あるいは、内部を知りすぎている手だ」
「その手が誰か、知っていますか?」
「知らない」
シャミルは即答した。
そして付け加える。
「だが、入ってきた連中の種類なら分かる」
「ティゾラですか?」
「痕跡の一部は、あそこで使われる改造経路に似ている」
「なら、ティゾラの者?」
シャミルはわずかに首を振った。
「帳は、一種類の糸だけでは織れない」
ラカンは理解した。
この危険は、一つの国には属していない。
国境の間を動く。
名前の間を。
扉の間を。
「なぜシグランを?」
シャミルが少し黙る。
そして答えた。
「奴らは、ザランの力を追っている」
ラカンの顔が変わる。
「ザランの力?」
「血だ」
たった一語。
それだけで、その場の重さが変わった。
「シグランの血を欲しがっている?」
「奴らは、あの中にあると信じている力を欲しがっている」
「何のために?」
シャミルは木々の間へ溜まる闇を見た。
「ザランの血なら、自分たちが探している何かを開けられると信じている」
「何を?」
「理解していないものをだ」
ラカンの声が鋭くなる。
「それでも、そのためにアルマザへ侵入した?」
シャミルが振り向く。
「無知だからといって、人は危険を冒さなくなるわけじゃない」
一拍。
「むしろ――」
「無知だからこそ、より危険になることもある」
ラカンが拳を握る。
「なら、奴らは愚か者だと?」
「追っているものへの理解という意味ではな」
シャミルの目が彼を捉える。
「だが――」
少し間を置く。
「そこへ到達する方法に関しては、違う」
一歩近づく。
「理解を誤っているから弱いなどと思うな」
そして低く言う。
「刃物を持った愚か者でも、人は殺せる」
ラカンは黙った。
やがて聞く。
「奴らは、シグランが欲しい力を持っていると思っている」
「そうだ」
「実際に、持っているんですか?」
長い沈黙。
木の葉が二人の頭上で揺れた。
だが、シャミルは答えない。
「シャミル殿」
ようやくシャミルが言った。
「シグランは――」
一拍。
「奴らに見えている標的だ」
ラカンの目が細くなる。
「見えている標的?」
シャミルは答えない。
ラカンがさらに聞く。
「では、奴らに見えていないものは?」
沈黙。
ラカンは一歩近づいた。
「ザランの血を追っていることまで知っているなら、あなたは俺に話していない何かを知っている」
シャミルが答える。
「奴らが追っているのは、目の前に見えている名前だ」
「答えになっていません」
「今夜、すべての質問に答える必要はない」
ラカンの声が強くなる。
「俺の生徒たちは、正式な試験の中で誘拐されかけた」
まっすぐ見据える。
「マヤは倒れた」
「シグランは連れていかれかけた」
少し止まる。
「そしてイザンは、毎朝、自分の身体に裏切られたと思いながら目を覚ましている」
初めて、本物の怒りがラカンの声に混じった。
「あいつは半周走れるかどうかで苦しんでいる」
「一歩ごとに、自分の価値を裁かれているように受け止めている」
さらに一歩近づく。
「何が起きているか知っているなら、俺に半分の真実だけ持たせて、あいつの前へ立たせないでください」
シャミルは黙って彼を見た。
やがて言う。
「背負えない真実は――」
一度、言葉を切る。
「身体より先に、心を裏切ることがある」
ラカンは黙った。
シャミルが続ける。
「イザンには、これ以上の目を集める必要はない」
「理解する必要はあります」
「その時は来る」
「いつです?」
シャミルは長く彼を見る。
「答えが――」
「まだ立っているものまで壊さなくなる時だ」
ラカンは納得しなかった。
だが――
一つだけ理解した。
シャミルの沈黙は、イザンを軽視しているからではない。
何かを恐れている。
もっと大きな何かを。
「もっと知りたい」
シャミルは石道へ顔を向けた。
沈黙が長く続く。
そして呟いた。
「どちらにせよ――」
少し止まる。
「少年たちへの危険は残る」
ラカンの表情が変わった。
「少年たち?」
シャミルは動かない。
ラカンが言う。
「シグランの話をしていたはずです」
沈黙。
ほんの少しだけ――
長すぎる沈黙。
そして。
シャミルの目が動いた。
先ほどまでイザンが立っていた場所へ。
その視線は一瞬だった。
だがラカンは見た。
一歩近づく。
「もう一人は誰です?」
シャミルはラカンを見る。
「三番全員に注意しろ」
「そういう意味で聞いたんじゃない」
シャミルが影へ向かって歩き始める。
「シャミル殿」
止まった。
ラカンの声が、一段だけ強くなる。
「イザンが立っていた場所を見ました」
シャミルは動かない。
「イザンのことを言ったんですか?」
返事はなかった。
やがてシャミルが、ゆっくり戻ってくる。
ラカンの目の前まで。
そして――
肩へ手を置いた。
珍しい動きだった。
上官が部下へ置く手ではない。
師が弟子へ置く手でもない。
求められている真実が――
目の前の男が生徒を見る目を、永遠に変えてしまうことを知る者の手だった。
「今は、それ以上聞くな。ラカン」
まっすぐ目を見る。
「いつか――」
「すべてを知る日が来る」
ラカンが聞く。
「それまで、俺は何を?」
シャミルの手に、わずかに力が入る。
「奴らの中に、俺の秘密を探すな」
声が少し柔らかくなった。
「お前の生徒として守れ」
「誰が狙われているか分からずに、どう守れと?」
「全員だ」
一度止まる。
「今夜は、名前など必要ない」
ラカンは納得しない。
だが、これ以上シャミルが話さないことも理解した。
シャミルは手を離す。
「道を開いた者は、ダリウスに探させろ」
足元の影が動き始める。
そして続けた。
「お前は――」
ラカンを見る。
「鍵として使われるかもしれない者を守れ」
その言葉だけが、二人の間に残った。
**鍵。**
複数。
「シャミル殿」
シャミルの身体は、すでに半分ほど影の中へ入っていた。
「また狙ってくると思いますか?」
シャミルが答える。
「壁だけが彼らを守っていると思うなら――」
一拍。
「また届くかもしれない」
「どういう意味です?」
「学園の外の道には、ここの封印はない」
ラカンの表情が変わる。
「黒の帳が、近いうちに動くと?」
「予想はしない」
シャミルは木々の奥を見る。
「他の者が見ようとしない可能性を――」
「捨てないだけだ」
そしてラカンへ目を戻す。
「誰にでも開かれているからといって、道を信用するな」
「シャミル殿――」
だが、影が彼を呑み込んでいく。
足音はない。
衣擦れの音もない。
最後に、声だけが残った。
「奴らを恐れるあまり――」
「守るべき者たちを恐れるな」
そして消えた。
◇
ラカンは一人残った。
広場に静けさが戻る。
だが――
さっきまでと同じ静けさではなかった。
石道を見る。
昼間は、
走り切れなかったわずかな距離からイザンを守ろうとしていた。
だが今は――
壁の外に続く一本の道すべてが怖かった。
シグラン・ザラン。
黒の帳が見ている標的。
マヤ・タライン。
危険を見れば、自分より先に仲間との間へ立とうとする少女。
そして――
イザン・ファドゥス。
ザランの名を持たない少年。
シャミルが、
**少年たち**
と言った時――
その立っていた場所を見た少年。
ラカンは外套の内側へ手を入れた。
朝に届いていた封書を取り出す。
まだ開いていなかった。
封を切った。
そこに書かれていた言葉は明快だった。
**初回野外任務。**
**三番――アルマザ。**
**出発予定:医療検査終了後。**
そしてその下に――
三つの名前。
**シグラン・ザラン。**
**マヤ・タライン。**
**イザン・ファドゥス。**
ラカンの視線が、三つ目の名で止まった。
思っていたより長く。
イザン・ファドゥス。
ザランの名を持たない少年。
そして――
問いがそこへ近づいた瞬間、シャミルが黙った少年。
ラカンは紙を閉じた。
道へ出ることを止めはしない。
守ることを、檻にはしない。
だが――
自分が同行する。
三人の誰一人として、視界の外へは出さない。
顔を上げ、木々を見る。
夜が枝の間へ集まり始めていた。
だが、その黒はもう――
ただ光がないだけのものではなかった。
名があった。
**黒の帳。**
決まった旗を持たない帳。
一つの国を持たない帳。
盗んだ名前でアルマザへ入り。
その扉を抜け。
三番へたどり着いた。
そして去った。
まだ閉じていない問いだけを残して。
**誰が、彼らに道を開いた?**
騎士試験は終わった。
だが――
その試験と共に入ってきた危険は、
終わっていなかった。
◇
学園の灯りから遠く離れた場所。
アルマザの壁に守られていない道を――
いくつかの影が動いていた。
旗はない。
名も呼ばれない。
だが――
黒の帳は、再び動き始めていた。
彼らが探しているのは、
**ザランの力。**
そして彼らは――
その持ち主を見つけたと、
確信していた。
だが。
彼らは、まだ知らない。
**ザランという名だけが――**
**すべての真実ではないことを。**




