初めて姿を現したイザンの力
イザンは何も言わなかった。
ただ、立ち上がった。
黒い煙が、ゆっくりと肩から漏れ出している。
炎のように立ち昇るのではない。
長い間閉ざされていた場所から這い出してきた影のように、その身体へまとわりついていた。
両目からは、すべての色が消えていた。
沈黙する白。
空虚。
そこには怒りも、恐怖もない。
意識さえ残っていなかった。
キオはしばらく、イザンの前に立ち尽くしていた。
まだ恐怖を認めてはいない。
目の前で起きていることを、自分なら理解できる。
そう言い聞かせようとしていた。
だが、ハルには一つだけ分かっていた。
今、目の前に立っている少年から感じるものは、先ほどまで戦っていたシグランの力とはまるで違う。
ハルは低い声で言った。
「キオ……止まれ」
キオは振り返らなかった。
「今さらか?」
「止まれと言った」
キオは笑った。
だが、その笑みは、つい先ほどまでのものとは違っていた。
「動く前に壊してやる」
キオが踏み込む。
拳が、声よりも先に走った。
力を関節へ集中させ、身体を前へ沈める。
そして、イザンが立っていた場所へ拳を叩き込んだ。
だが、その拳が貫いたのは、冷たい空間だけだった。
キオには見えなかった。
一歩も。
身体を捻る動きも。
そもそも、イザンが動き始めた瞬間さえ見えなかった。
気づいた時には、イザンが目の前にいた。
近い。
もう片方の腕を上げることさえできないほどに。
イザンは叫ばなかった。
拳を握ることもなかった。
目の前に誰がいるのか理解している様子さえない。
それでも――
キオの身体が後方へ吹き飛んだ。
まるで、目に見えない壁へ正面から激突したかのように。
背中から木の幹へ叩きつけられる。
幹が大きくしなり、葉が激しく降り落ちた。
キオは足を踏ん張ろうとした。
だが、膝が滑る。
立ち上がろうとした。
それもできなかった。
そのまま横へ倒れ――
動かなくなった。
森が再び沈黙した。
ハルは飛び込まなかった。
一歩だけ後ろへ下がる。
自分の足が動いた後になって、ようやく後退していたことに気づいた。
視線が素早く動く。
イザンの足。
肩。
黒い煙。
そして、二人の間にあるわずかな空間。
道を探していた。
すべての動きには、必ず道筋がある。
どんな人間でも、身体を動かす前に意図を漏らす。
肩の傾き。
呼吸の変化。
足裏へ集まる力。
だが、イザンは何一つ見せなかった。
始まりがない。
合図もない。
読み取れる意図さえない。
ハルがかすかな声で言った。
「何だ……これは……?」
イザンが顔を上げた。
だが、ハルを見てはいなかった。
その向こう側を見ていた。
ハルは顎へ力を込めた。
そして動く。
角度を変える。
一度。
二度。
三度。
背後へ回る。
横へ逸れる。
そして、普通の目では捉えられない死角へ踏み込んだ。
だが、そこにはすでにイザンがいた。
ハルの動きが完成するより先に。
次の一歩を選ぶより先に。
ハルの手が空中で止まった。
両目が大きく見開かれる。
「あり得ない……」
攻撃は見えなかった。
ただ、足元から地面が消えたように感じた。
世界が目の前で反転する。
次の瞬間、ハルの身体はキオのそばへ落下していた。
焼けた草の上へ倒れ――
そのまま動かなくなった。
それは動きではなかった。
始まりのない結果だった。
イザンは立ち続けていた。
黒い煙が一瞬だけ強まる。
しかし、すぐに弱まり始めた。
顔が、木の根元へ倒れているマヤへ向く。
次に、目の前に倒れたシグランへ。
そして、自分の手へ。
二人を知っている様子はなかった。
内側にある何かが、次の危険を探していた。
だが、そこにあったのは倒れた者たちと――
重い沈黙だけだった。
イザンの肩が震えた。
瞳を染めていた白が薄れていく。
一瞬だけ、本来の色が戻った。
そして、崩れた。
イザンは膝をついた。
身体が前へ傾き、そのまま土の上へ倒れる。
それきり、動かなかった。
◇
ライは脇腹を押さえながら戻ってきた。
シグランの一撃は、予想以上に遠くまで彼を吹き飛ばしていた。
身体は壊されていない。
だが、計算は完全に狂わされていた。
腕には炎の熱が残っている。
背中には、砕けた木へ衝突した痛みが走っていた。
木々の間を慎重に進む。
そして、足を止めた。
キオが倒れている。
その隣にはハル。
木の根元には、動かないマヤ。
土の上にはイザンが倒れていた。
シグランもまた、その少し前方で静かに倒れている。
炎が、身体に残っていたものをすべて燃やし尽くしたかのように。
戦場は歪んでいた。
焼けた木々。
抉られた土。
理解できない衝撃によって曲がった幹。
そして、普通の戦いの終わりとは思えない沈黙。
ライの目が細くなる。
「あり得ない……」
視線をシグランへ向けた。
吹き飛ばされる前、最後に見た光景。
赤と青の炎の中心に立つ少年。
自分を打ち飛ばしたのは、あの少年だった。
ハルとキオの前で最後まで立っていたのも、きっと彼だ。
ライの視線が二人へ移る。
そして、再びシグランへ戻った。
「一人でやったのか……?」
誰かへ向けた問いではなかった。
ライは近づく。
一歩。
さらに一歩。
もはや、生きたまま連れ帰るべき標的には見えなかった。
自分たちを送り込んだ者さえ呑み込む危険に見えた。
ライは低く言った。
「生きたまま欲しいかどうかなど、もう関係ない」
手を上げる。
「こいつが生き残れば、ここでは止まらない」
最後の一歩を踏み出そうとした、その時。
背後から声がした。
「もう一歩進めば……」
ライの身体が凍りついた。
「この世から消える」
ライは、脅し程度で退く男ではない。
だが、今聞いたものは脅しではなかった。
判決だった。
完全には振り返らない。
意識が拒むより先に、身体そのものが動くことを拒んでいた。
背後には、陽の光が触れられない何かが立っていた。
長く伸びる影。
枝が揺れているにもかかわらず、微動だにしない黒い外套の端。
許可なしでは呼吸すらできないほど、重くなった空気。
ライの指がわずかに動く。
しかし、すぐに止まった。
声が問う。
「何者だ?」
ライは沈黙した。
反抗しているだけではない。
立ち続けるための沈黙だった。
再び声がする。
先ほどよりも近い。
だが、足音は一つも聞こえなかった。
「誰に命じられた?」
冷たい圧力が首へ巻きつく。
手ではない。
それでも、手よりも強かった。
ライは低い声で答えた。
「黒の帳だ」
影は動かない。
「目的は?」
ライはためらった。
嘘をつくことはできる。
そうしたかった。
だが、周囲の空気が狭まり、嘘は喉へ刺さる短剣よりも重く感じられた。
「血だ……」
一度、言葉を切る。
そして続けた。
「ザランの血」
シャミルの視線が、最初にシグランへ向いた。
次にイザンへ。
その視線は、必要以上に長く彼の上へ留まった。
砕けた土。
ライには読み取れなかった痕跡。
黒い煙が消えた後にも残る、奇妙な静けさ。
シャミルは、あの力が目覚め始めた瞬間を見ていた。
その後に起きたことは、目の前の大地が語っていた。
表情は変わらない。
だが、周囲の闇がさらに重くなる。
シャミルはライへ視線を戻した。
「消えろ」
二度目の命令は必要なかった。
ライは一歩下がる。
さらに一歩。
空気に許されたと感じるまで、完全に背中を向けることはできなかった。
逃げているように見えないよう、木々の間を進んでいく。
だが、荒い呼吸がすべてを暴いていた。
シャミルはその場に残った。
もう一度、イザンを見る。
すぐには近づかない。
起こそうともしない。
名前も呼ばなかった。
ただ、沈黙の中に立っていた。
望んでいなかった時に、古い確信が戻ってきたかのように。
やがて、足元の影が動いた。
ハルとキオへ伸びていく。
二人の身体を呑み込み――
音もなく、その場から消した。
シャミル・ガスカンは、地面に倒れた三人へ最後の視線を向けた。
足元の影が再び動く。
根の間へ広がり、周囲の木々を巡っていく。
目には何も映らないまま、三人へ続く道を閉ざしていった。
壁は立たない。
円も現れない。
森は何一つ変わっていないように見えた。
だが、その場所の内側だけ、空気が変わった。
そこへ続く道は、見る者の目には別の方向へ曲がって見える。
近づいた獣は、到達する直前で足を止める。
そして、理由も分からないまま進路を変える。
近くを通った隊でさえ、絡み合う木々と、どこにも続かない道しか見ることができない。
シャミルは、影が安定するまで見届けた。
そして、誰にも聞こえない声で呟く。
「これで、朝までは危険を遠ざけられる」
枝の間から消えていく光を見上げた。
「その頃には、障壁も消える」
最後にイザンを見た。
さらに低い声で続ける。
「目を覚ました後は……自分で道を進め」
シャミルの姿が影の中へ消えた。
目に見えない障壁だけが、その場所の沈黙を守り続けた。
◇
ライは戦場から離れていった。
そして突然、足を止める。
ハルとキオが、目の前に倒れていた。
ライの身体が固まった。
先ほどまで、二人は自分の後ろにいた。
音は聞こえなかった。
影が横切る姿も見ていない。
森の中を何かが移動する気配もなかった。
ただ、そこにいた。
ライが呟く。
「いつ……?」
二本の木の間で、空気が曲がった。
霧ではない。
扉でもない。
森の一部が折り畳まれたように見えた。
一人の男が、静かな足取りで現れる。
そこまで歩いてきたようには見えなかった。
距離そのものを短くしたかのようだった。
男はライを見る。
次に、倒れた二人を見る。
そして冷たく言った。
「その様子では……」
キオの火傷と、笑みを失ったハルの顔へ目を向ける。
「見事なまでに失敗したようだな」
ライは答えなかった。
まだ、ハルとキオを見つめていた。
スカイが一歩近づく。
「三人で、一人の少年を連れ帰る任務だった」
片方の眉を上げる。
「それで、この有様か?」
ライが掠れた声で答えた。
「一人ではなかった」
スカイが、楽しさのない笑みを浮かべる。
「言い訳は、いつもそこから始まる」
ライは目を上げた。
「別の男がいた」
笑みがわずかに消える。
「見たのか?」
「いや」
「なら、何を恐れている?」
ライはすぐには答えなかった。
隠そうとしても、胸が速く上下している。
やがて口を開く。
「俺の背後にいた男だ……」
言葉を切る。
感覚を思い出しただけで、再び首へ圧力が戻ったかのようだった。
「顔は完全には見ていない」
指に力が入る。
「だが、あの気配……あれほどのものは、首領の前でも感じたことがない」
スカイは嘲笑しなかった。
わずかに顔を上げる。
空気に残された何かへ耳を澄ませるように。
遠い戦場の方向を見る。
そして、声を低くした。
「確かに……」
短い沈黙。
「あちらの空気は普通ではない」
キオのそばへ屈み、呼吸を確かめる。
次にハルを見る。
「二人とも生きている」
ライが答えた。
「かろうじてな」
「十分だ」
スカイが手を開く。
背後の空気が再び曲がり、森の奥行きでは説明できない空間が現れた。
歪みが、ハルとキオの身体を地面から持ち上げる。
スカイは、なおも三番――アルマザがいた方向を見ながら言った。
「アルマザには、不完全な痕跡でも探させておけ」
ライは何も言わず、歪みへ向かって進んだ。
キオの身体が持ち上がった時。
金属の札が、折れた木の根へ引っかかった。
留め具が切れる。
そして、土の上へ落ちた。
五番。
誰も気づかなかった。
歪みへ入る直前、ライはもう一度だけ振り返った。
黒い影は見えない。
自分を止めた男も見えない。
何も見えなかった。
それが、何よりも恐ろしかった。
スカイとライ。
そして、二つの身体が消えた。
森には、再び沈黙だけが残った。
◇
それほど遠くない場所で、クララが足を止めた。
木の幹へ掌を置く。
そして、ゆっくりと離した。
ルーカスが尋ねる。
「どうした?」
「痕跡が途切れた」
ルーカスは前方を見た。
「三人分の痕跡が、突然消えるものなのか?」
エヴリンが答える。
「もう森の中にいないのならね」
ルーカスは黙った。
木々の間で変化していく光を見る。
日が暮れようとしていた。
「塔への道へ戻るか?」
エヴリンは、痕跡が消えた方向を見つめた。
しばらく動かない。
やがて答える。
「ええ」
クララが続けた。
「ここにいた者たちは消えた」
ルーカスが言う。
「なら、もう何も見つからない」
エヴリンは塔への道へ歩き出した。
「私たちが遅れたということよ」
誰も、それ以上は言わなかった。
ハガリス隊は本来の道へ戻った。
イザンを見ていない。
シャミルも見ていない。
すべてが消えた後、土に残されたものさえ見ていなかった。
◇
別の道では、アナスが突然足を止めていた。
追っていた感覚が途切れた。
少しずつ弱まったのではない。
遠ざかったのでもない。
ただ、消えた。
アミールが尋ねる。
「何が起きた?」
アナスは、枝分かれする道へ視線を巡らせた。
「もう、ここにはいない」
ナダが、木々の間から消えていく光を見る。
「場所を離れたのかもしれない」
アミールはしばらく黙っていた。
先へ進みたかった。
だが、目の前の道は幾つにも分かれ、明確な痕跡は一つも残っていない。
七番の札を握る手へ力を込める。
そして言った。
「塔へ戻る」
アナスが彼を見る。
アミールは続けた。
「三番――アルマザは、そこで探す」
三人は本来の道へ戻った。
◇
さらに遠く。
ユーバは、土の上に残された最後の跡の前で立ち止まった。
セイラが膝をつき、地面へ触れる。
マシンが尋ねる。
「見つけたか?」
セイラは、しばらく指先を土へ置いていた。
やがて手を離す。
「いいえ」
ユーバは前方へ続く道を見た。
跡は、その場で終わったわけではない。
別の道へ逸れたわけでもない。
その持ち主が、森の中心から消えたかのように途切れていた。
マシンが言う。
「転移か?」
「おそらく」
ユーバは、光を失い始めた空を見る。
彼らは、すでに自分たちの札を失っている。
この場所から消えた相手を追い続けても、得られるものはない。
「戻るぞ」
セイラが立ち上がる。
「塔へ?」
「ああ」
途切れた跡へ最後の視線を向ける。
「確かめたかったものは、もうここにはない」
ティゾラ隊は、残された時間を夜に呑まれる前に本来の道へ戻った。
◇
三番――アルマザの三人が気づかないまま、夜が彼らの上を通り過ぎた。
地面が冷えていく。
枝の間に見える空の色が変わる。
シャミルの障壁は、姿を見せないまま残っていた。
小さな獣が、周囲の木々へ近づく。
足を止めた。
知らない匂いを嗅いだように頭を上げる。
そして、別の方向へ歩き去った。
遠くの影が幹の間を通り過ぎた。
だが、三人へ続く道を見つけることはできなかった。
やがて、朝の最初の光が枝の間へ差し込み始めた。
周囲へ絡みついていた影が弱まっていく。
根の間へ戻り――
音もなく消えた。
森が元の姿へ戻った。
小さな虫が、焼けた土の上を這っている。
枯れ葉が一枚、イザンの肩へ落ちた。
最初の呼吸がそれを動かすまで、そこに残り続けた。
イザンはゆっくりと目を開いた。
自分がどこにいるのか分からない。
やがて、灰の匂いが届く。
すべてが一気に戻ってきた。
起き上がろうとする。
だが、身体が拒んだ。
肘から崩れ、それでも顔を上げる。
マヤは木の根元へ倒れていた。
シグランは横向きになり、胸へ手を当てながら苦しげに呼吸している。
ほかには誰もいない。
ライも。
ハルも。
キオも。
その身体さえなかった。
ただ、自分には終わりを思い出せない戦いの跡だけが残っていた。
イザンは頭へ掌を当てた。
記憶に残っている最後の光景。
自分の前へ倒れたシグラン。
そして、彼の声。
身体が……勝手に動いた。
その後は――
何もない。
マヤが動いた。
苦しげに目を開く。
枝の間に見える空へ顔を上げ、しばらく見つめた。
そして、掠れた声で言う。
「最終日よ」
イザンが彼女を見る。
「何?」
「光を見て」
マヤは身体を起こそうとした。
「もう最終日になっている」
シグランが動いた。
立ち上がろうとして、咳き込みながら身体を折る。
疲れた声で言った。
「最高だな……」
周囲を見る。
「死の試験の最中に、三人そろって眠っていたわけか」
その表情が固まった。
「奴らはどこだ?」
誰も答えなかった。
マヤは脇腹へ手を置き、苦労して身体を起こした。
「最後に覚えているのは……」
言葉を切る。
「ハルが私の前にいたこと」
シグランは壊れた地面を見る。
焦げ跡。
曲がった幹。
そして、自分の両手。
低い声で言った。
「俺は……」
思い出そうとする。
「キオの攻撃を受けた」
イザンへ目を向ける。
「その後は何もない」
イザンが答えた。
「僕も、君が倒れたところまでしか覚えていない」
沈黙が落ちる。
シグランは、破壊された周囲を見つめた。
「俺が、これをやったのか?」
マヤは答えなかった。
イザンにも答えはない。
「分からない」
三人の記憶は、それぞれ違う場所で終わっていた。
シグランが倒れた後にあるものは――
誰の記憶にも残っていない空白だった。
折れた木の根の近くで、何かが光った。
イザンがそれに気づく。
ゆっくりと這い寄った。
手を伸ばし、金属の札を拾い上げる。
マヤが見つめた。
「五番……」
イザンも札を見る。
「ティルマラの札だ」
そして言った。
「ビスカラ隊が必要としている」
シグランは立ち上がろうとした。
だが、失敗する。
脇腹を押さえながら言った。
「俺たちは、立つことさえできないんだぞ……」
札へ視線を向ける。
「それでも、ほかの隊の心配をするのか?」
イザンは答えなかった。
札を強く握る。
そして、立ち上がろうとした。
どうにか腰を上げることには成功した。
だが、すぐによろめいた。
シグランも、一人で立とうとしていた。
イザンは彼へ手を伸ばす。
シグランがその手を見る。
しばらく動かなかった。
倒れる直前、自分が口にした言葉を思い出していた。
身体が勝手に動いた。
イザンを見る。
次に、黙って二人を見守るマヤへ視線を向ける。
やがて、シグランは手を伸ばした。
イザンの手を掴む。
イザンはシグランを立たせようとした。
だが、自分まで倒れそうになった。
それでも、イザンは笑った。
シグランはすぐに視線を逸らす。
「余計なことを考えるな」
足元をどうにか安定させる。
「あれは隊のためだ」
イザンは疲れた声で答えた。
「うん」
そして、さらに笑みを深める。
「僕たちは、よくやった」
シグランは彼を睨んだ。
「その言い方はやめろ」
イザンの笑みが少し大きくなる。
突然、足がもつれた。
倒れる前に、シグランがその腕を強く引いた。
「馬鹿。気をつけろ」
イザンは何も言わなかった。
それでも笑みは残った。
マヤも、小さな笑みを隠した。
苦労して立ち上がり、二人の前へ進む。
「二人とも、全然大丈夫じゃない」
シグランが言う。
「お前は大丈夫なのか?」
マヤは振り向かなかった。
「少なくとも、私は道が見える」
シグランを指す。
「あなたは、立っているだけで精いっぱい」
次に、イザンを指した。
「彼は、自分たちのものでもない札を、自分の骨より大事そうに持っている」
イザンが答える。
「少し言い方が厳しくない?」
「いいから歩いて」
三人は動き始めた。
最終日の森は、昨日までとは違っていた。
すべての音が遅れて届く。
すべての影が深く見える。
一歩進むたびに、昨夜を完全な身体で抜け出せなかったことを思い知らされた。
シグランが倒れた後のことを、誰も口にしなかった。
三人は、それぞれ違う場所で記憶を失っている。
真実は、誰の記憶も届かない場所に残されていた。
◇
塔へ続く道が近づいた。
マヤが突然足を止める。
手を上げた。
イザンとシグランも、後ろで足を止めた。
シグランは炎を呼び出そうとした。
小さな火花が生まれる。
だが、すぐに消えた。
イザンは五番の札を強く握った。
三人の生徒が木々の間から現れる。
サーレム。
ヌーリヤ。
ジャラル。
九番――ビスカラが、道の向こう側で足を止めた。
攻撃はしない。
だが、警戒も解いていない。
彼らの視線が、三番――アルマザの青ざめた顔、焼けた衣服、そしてイザンの手にある札の間を行き来する。
シグランが前へ出た。
疲れていても。
身体が立つことを拒みかけていても。
必要なら戦うつもりであることは明らかだった。
イザンも半歩前へ進む。
そして、よろめいた。
マヤがすぐに尋ねる。
「私たちが標的?」
サーレムは黙っていた。
沈黙が武器よりも重くなるまで続いた。
やがて答える。
「違う」
誰も動かない。
サーレムは続けた。
「俺たちの標的は五番……ティルマラだった」
マヤがイザンの手にある札を見る。
シグランは拳を握る。
そして、さらに一歩前へ出た。
最悪の状況に備えるように。
イザンが、その肩へ手を置いた。
「大丈夫」
その横を通り過ぎる。
身体は揺れている。
それでも倒れなかった。
札をわずかに持ち上げる。
「これは……」
息を整えるため、言葉を切る。
「君たちが必要としている札だ」
ジャラルの目が見開かれた。
ヌーリヤも黙ったままだったが、驚きを隠せない。
サーレムは長い間、札を見つめた。
「本当にいいのか?」
イザンは言葉では答えなかった。
ゆっくりと屈む。
二つの隊の間へ札を置いた。
苦労して身体を起こす。
一歩下がる。
さらに一歩。
サーレムが尋ねる。
「なぜだ?」
イザンが彼を見る。
その顔は、問いそのものが遠く感じられるほど疲れていた。
「僕たちのものじゃないから」
マヤとシグランのほうへ振り向く。
「行こう」
サーレムはすぐには札を拾わなかった。
地面に置かれた札を見つめる。
次に、塔へ向かって歩き始めた三人を見る。
ジャラルが低い声で言った。
「本当に……俺たちへ渡したのか?」
ヌーリヤはすぐには答えなかった。
よろめきながら進むイザンの背中。
痛みを隠すシグラン。
そして、二人の前を歩き、道そのものを肩へ背負っているかのようなマヤ。
やがて、ヌーリヤが言った。
「もう一度戦える状態ではなかった」
サーレムは地面の札を見る。
そして屈み、拾い上げた。
「それでも、自分たちのものにはしなかった」
それ以上、誰も何も言わなかった。
前方では、三番――アルマザの三人が歩き続けていた。
マヤが道を導く。
シグランは、イザンの隣を歩いていた。
彼がよろめけば支えられるほど近く。
そのことを否定できる程度には遠く。
塔は、まだ遠い。
最終日は、誰も待ってはくれなかった。




