水が理解できなかったもの
イザンは眠りから目覚めたのではなかった。
死から目覚めた。
最初に感じたのは、匂いだった。
苦い薬草。
薄い煙。
古い木。
そして、雨上がりの土を思わせる冷たい匂い。
マルワンの家の匂いではなかった。
アイン・アルワールの匂いでもない。
ナツメヤシの実も。
泥も。
祖父が戸口の前で直していた古い縄の匂いもなかった。
ゆっくりと目を開ける。
天井は低く、組み合わされた木の幹と乾いた葉で作られていた。
小さな窓から淡い光が差し込み、床の上に細い線を描いている。
小屋の隅では小さな火が燃え、その上で黒い鍋が静かな音を立てて煮えていた。
イザンは身体を起こそうとした。
その瞬間、全身で痛みが弾けた。
息を呑み、再び粗い寝床へ倒れ込む。
「動くな」
声は影の中から聞こえた。
イザンは苦労しながら顔を向けた。
男がいた。
黒きナツメヤシの園で見た、あの男。
木の壁に背を預け、片膝を立て、その上に腕を置いて座っていた。
座っていても、長身であることが分かる。
長い白髪が肩へ流れ、暗い外套が夜の一片のように身体を包んでいた。
瞳は冷たく、静かだった。
迷いも。
目に見える憐れみもない。
イザンは無言で男を見つめた。
そして、記憶が戻り始める。
園。
怪物たち。
血。
そして、マルワン――
瞳が大きく見開かれた。
「じいちゃん……」
再び起き上がろうとする。
だが痛みに押し戻され、寝床へ倒れた。
震える両手で胸を押さえ、引き裂かれたような声を絞り出す。
「じいちゃんは、どこ?」
男はすぐには答えなかった。
その沈黙が、言葉より先に答えていた。
男は火のそばへ近づき、小さな木の器を取った。
寝床へ戻り、イザンの前に差し出す。
「飲め」
イザンは手を伸ばさなかった。
ただ男を見つめ続ける。
「じいちゃんは、どこ?」
男はしばらく動かなかった。
やがて、低い声で言った。
「死んだ」
声に残酷さはなかった。
だが、言葉は断ち切るように明確だった。
石のようにイザンの胸へ落ちた。
沈むための水さえ見つけられない、重い石。
イザンは男を見つめたままだった。
「違う……」
小さく、弱い声。
反論というより、自分より大きな扉を押し返そうとする子供の手だった。
「違う……じいちゃんは、あそこにいた。あなたも来た……怪物を倒したのに……」
言葉が喉につかえた。
男は瞬きもしなかった。
「間に合わなかった」
その瞬間、イザンの顔で何かが壊れた。
すぐには泣かなかった。
これほど大きな死をどう抱えればよいのか知るには、幼すぎた。
自分の両手を見つめる。
朝までは持っていたのに、永遠に落としてしまった何かを探すように。
祖父。
マルワン。
髪を撫でてくれた、ただ一つの手。
恐れもなく自分の名を呼んでくれた、ただ一つの声。
胸が激しく上下し始めた。
空気を吸おうとする。
だが喉が狭まり、息が通らない。
唇が震えた。
そして突然、泣き声が爆発した。
鋭く。
壊れたように。
自分がまだ子供の魂であることを、遅れて思い出したかのように。
男は近づいて抱きしめようとはしなかった。
泣くなとも言わなかった。
死者を戻せない美しい言葉を与えることもしなかった。
ただ、泣かせた。
その奇妙な沈黙の中で、イザンは理解できない何かを感じた。
男はマルワンのように優しくはなかった。
だが、村人たちのように冷酷でもなかった。
嵐の中に立つ岩のようだった。
雨を止めることはできない。
それでも、雨から逃げようとはしない。
長い時間が過ぎ、イザンの泣き声は弱くなった。
痛みが薄れたわけではない。
ただ、身体がそれを抱えることに疲れたのだ。
男は再び器を差し出した。
「飲め。傷はまだ塞がっていない」
イザンは今度こそ、震える両手で器を受け取った。
飲み物は苦く、熱く、舌を刺した。
それでも胸へ少しだけ温もりを広げていった。
掠れた声で尋ねる。
「あなたは誰?」
男は火を見つめた。
「シャーミル」
イザンは一瞬動きを止めた。
初めて聞くはずなのに、どこか懐かしい名前だった。
遠い夢の中で、一度聞いたことがあるような。
「じいちゃんを知っていたの?」
シャーミルはすぐにはイザンを見なかった。
「マルワンを知っていた」
少し間を置き、付け加える。
「遠い昔から」
イザンは器を握る指に力を込めた。
「どうして、もっと早く来なかったの?」
シャーミルの顔は変わらなかった。
だが、瞳の奥だけがさらに冷えた。
「どこを捜せばいいのか、知らなかった」
「何を捜していたの?」
シャーミルがイザンを見る。
「お前だ」
イザンには理解できなかった。
頭の中は混乱していた。
園。
怪物。
マルワン。
「死んだ」という言葉。
そして今、白髪の男は、自分を捜していたと言う。
「僕を?」
「ああ」
「どうして?」
シャーミルは答えなかった。
立ち上がり、小さな木の机へ向かう。
その上には、血で汚れた布。
短い刃物。
すり潰された薬草。
静かな水を入れた器が置かれていた。
布を取り、水に濡らして寝床へ戻る。
「お前が、ラヒールの息子だからだ」
母の名を聞いた瞬間、イザンの手が器を強く握った。
「母さんを知っていたの?」
「ああ」
「母さんは……」
そこで止まった。
その言葉を口にすることができなかった。
だがシャーミルには分かっていた。
静かに答える。
「呪われてなどいなかった」
イザンは動かなくなった。
短い一言だった。
それでも、七年間閉ざされていた部屋に、誰かが窓を開けたように胸へ入ってきた。
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、どうしてみんなは、そう言ったの?」
シャーミルは肩に走る傷を拭き始めた。
痛みにイザンの身体が強張った。
だが声は上げなかった。
「真実を知らなかったからだ」
「真実って何?」
シャーミルの手が、一瞬止まった。
ラヒールが追われていたことを話すこともできた。
アルマザの男たちが彼女を追ってきたことを。
世界が理解しなかった真実のために、レイスが死んだことを。
少年の血に、知られれば幾つもの炎の扉が開く名が流れていることを。
だが疲れ切った子供の顔と瞳を見た。
そして、完全な真実がいつも慈悲になるとは限らないと知っていた。
「傷ついた子供には、真実は重すぎる」
イザンは顔を伏せた。
「みんな、僕に隠す」
シャーミルは答えなかった。
少年の言葉は正しかった。
しばらくして、イザンが尋ねた。
「じいちゃんは、あなたが怖かったの?」
シャーミルの表情に、一瞬だけ何かが浮かんだ。
笑みというより、遠い記憶に近いものだった。
「違う。マルワンが恐れていたのは、俺ではない」
少し間を置く。
「お前の身を案じていたんだ」
イザンは黙った。
そして突然、顔を上げた。
「父さんは?」
小屋の中の空気が変わった。
火の音さえ、先ほどより小さくなったように感じられた。
シャーミルは今度も、イザンを見なかった。
「何を知っている?」
「名前はレイス」
名前が消えてしまうことを恐れるように、イザンは急いで口にした。
「じいちゃんが一度だけ言った。でも、みんなは父さんのことを話さない……あなたも知っていたの?」
シャーミルの沈黙は長かった。
やがて言った。
「知っていた」
「悪い人だった?」
母を罵られ続けた子供の心から出た問いだった。
父までもが、自分の恥の理由なのではないかと恐れていた。
シャーミルはイザンを見た。
その冷たい瞳は、どんな説明よりも明確だった。
「違う」
マルワンがラヒールについて答えた時と同じだった。
短く。
重く。
迷いのない言葉。
そしてシャーミルは続けた。
「偉大な男だった」
「偉大な」という言葉を口にした時、男の声が少し揺れたようにイザンには感じられた。
本当は揺れていなかったのかもしれない。
温かいものを必要としていたイザンが、影のような男の声の中にまで、それを探しただけなのかもしれない。
「父さんは、僕を愛してた?」
その問いは、シャーミルの意表を突いた。
顔には出さなかった。
だが、答えるまでの沈黙は少し長すぎた。
「生きていれば、お前を独りにはしなかった」
イザンは顔を伏せた。
完全な答えではなかった。
だが、再び瞳に涙を浮かべるには十分だった。
◆
翌日。
シャーミルはイザンを外へ連れ出した。
小屋はアイン・アルワールから離れた場所にあった。
低い岩と、まばらに生えた数本のナツメヤシに囲まれた、小さな谷の端。
村の一部ではなかった。
だが遠くにオアシスの輪郭と、土で作られた家々が見える程度には近かった。
身体はまだ痛んだ。
それでもシャーミルは、イザンを抱き上げなかった。
少年の隣をゆっくり歩く。
一歩ごとに、身体がどれほど耐えられるかを試しているかのように。
イザンが尋ねる。
「どこへ行くの?」
「マルワンのところだ」
イザンは足を止めた。
それから何も言わず、再び歩き出した。
小さな砂の丘の上。
傾いたナツメヤシの下。
新しい墓があった。
大きな墓標はない。
石が一列に並べられ、頭の位置にはマルワンの杖が砂へ突き立てられていた。
その隣には、もっと古い墓があった。
長い年月を経た砂が積もり、名前のない小さな石が頭の位置に置かれている。
シャーミルが言った。
「ラヒールの墓だ」
イザンは二つの墓の間に立った。
どちらを先に見ればいいのか分からなかった。
自分に命を与えながら死んだ母。
それとも、自分を追ってきたために死んだ祖父。
マルワンの墓の前に膝をついた。
砂へ刺された杖へ、小さな手を伸ばす。
最初は、何も言わなかった。
やがて囁く。
「ごめんなさい」
風がナツメヤシの葉の間を通り抜けた。
「僕が園に入らなければ……」
声が壊れた。
「家にいたら、じいちゃんは……」
シャーミルは後ろに立ち、沈黙していた。
マルワンなら千回でも、イザンを救うことを選んだだろうとは言わなかった。
本当の殺人者へ届かない罪悪感が、時に子供の心を探すことも。
この世界がこれから何度も、自分の犯していない過ちをイザンに背負わせようとすることも。
それらを語る時は、いつか来る。
だが今は――
子供には、泣く必要があった。
沈黙が長く続いた後、シャーミルが言った。
「マルワンは、お前が園に入ったから死んだのではない」
イザンが少しだけ顔を上げる。
「お前と死のあいだに立つことを、自分で選んだ」
その言葉が痛みを軽くしたのか、重くしたのか、イザンには分からなかった。
おそらく、その両方だった。
古い墓へ顔を向ける。
「母さんは?」
シャーミルは小さな石を見た。
「お前を生かすために死んだ」
イザンはラヒールの墓を見つめ続けた。
母は自分に呪いを残した。
そう聞かされて生きてきた。
だが今、初めて誰かが教えた。
母が残したのは、命だったのだと。
死が優しくなったわけではない。
ただ、別の意味を持つようになった。
◆
夕暮れが近づく頃。
シャーミルはイザンを小屋へ連れ戻した。
中へ入ると、透明なガラスの器を床へ置き、澄んだ水を満たした。
泣き疲れて目を赤くしたイザンが、その前に座る。
「何、それ?」
「簡単な試験だ」
「何を調べるの?」
「残響だ」
イザンには分からなかった。
シャーミルは器の前に座り、ゆっくりと指を伸ばして水面へ触れた。
その瞬間、水の色が変わった。
一度に真っ黒になったわけではない。
触れた場所から、重い墨のような闇が鏡の中へ流れ込んだ。
黒は静かに広がり、水全体を夜の欠片へ変えていく。
やがて中心に、小さく深い渦が生まれた。
光の届かない場所から見つめる眼に、器そのものが変わったようだった。
イザンの目が大きく開く。
「魔法?」
「違う」
シャーミルが指を離すと、水はゆっくりと透明へ戻った。
「カマンの残響だ」
「カマン?」
「身体を流れる力だ。だが、すべての人間に同じ形で応えるわけではない」
イザンの胸を指す。
「アルマザでは、血の中にそれを目覚めさせ、形を与える鍵を持って生まれる者がいる。その鍵が応えた時、持ち主の残響は、炎、水、風、大地、雷、氷、光――」
自分の指の下で黒く染まった水を見る。
「あるいは、闇として現れる」
イザンは器を見つめた。
「あなたは、その鍵を持って生まれたの?」
「ああ」
「この試験で、僕が何を持ってるか分かる?」
「初歩的な試験だ。すべてを見通せるわけではない。だが、鍵の最初の残響が表に出ているなら、それを拾うことはできる」
イザンは唾を飲み込んだ。
「水が動かなかったら?」
「鍵を持っていない可能性がある」
シャーミルは少し間を置いた。
「あるいは、器では理解できないほど深い場所にあるか」
最後の言葉の意味を、イザンは完全には理解できなかった。
それでも胸の中に残った。
シャーミルが水を示す。
「試せ」
イザンはためらった。
小さな器が、必要以上に大きく見えた。
指を伸ばす。
だが水面へ触れる直前で止めた。
「どうなるの?」
「何も起きないかもしれない」
「何も起きなかったら?」
「その時に分かる」
少しも安心できる答えではなかった。
それでもイザンは、水へ触れた。
水面は静かなままだった。
黒も現れない。
光もない。
波も生まれず、水の温度さえ変わらない。
何も起こらなかった。
イザンは待った。
一瞬。
さらに、もう一瞬。
ゆっくりと指を引く。
声が出るより早く、顔がすべてを語っていた。
「僕は……何も持ってないの?」
シャーミルは答えなかった。
器を見つめ続ける。
静かな水。
あまりにも静かすぎる、その水面を。
シャーミルは、この試験における空白がどのようなものか知っていた。
普通の人間が水に触れた時、水は死んだように平らなままだ。
反応も。
深みもない。
だが、この静けさは死んではいなかった。
水が、自らの映り込みを呑み込んだかのようだった。
少年を拒んだのではない。
読み取ることができなかったのだ。
シャーミルはイザンへ目を上げた。
少年は傷つき、指を組み合わせるように押しつけ、三度目の涙を堪えていた。
その顔には、ラヒールの面影があった。
そして、その瞳には――
レイスがいた。
園で見た時から疑っていた。
マルワンが、ただの子供をあれほど守るはずがない。
ラヒールが、理由もなくアイン・アルワールへたどり着くはずもない。
少年の幼い顔には、シャーミルがまだ白髪ではなかった時代に知っていた男の痕跡があった。
だが、この器が疑いを終わらせた。
普通の子供なら、水は死んだように動かない。
知られた鍵の残響を持つなら、何らかの反応が現れる。
だが、この沈黙は――
空白ではない。
水さえ名を知らぬ深さだった。
シャーミルは心の中で言った。
レイス……確かに、お前は息子を残した。
イザンが囁く。
「失敗した」
シャーミルは冷たい沈黙へ戻り、言った。
「違う」
イザンが顔を上げる。
「でも、水は動かなかった」
「器がすべてを知っているわけではない」
「あなたの中にあるものは、分かった」
「俺の中にあるものは、器も知っているからだ」
イザンは水面を見た。
「じゃあ、僕の中にあるものは……知らないの?」
シャーミルは少し黙った。
「その可能性はある」
慰めではなかった。
だが、少年の心が完全に壊れるのを止めた。
シャーミルは器を取り、脇へ置いた。
「これより深い試験がある」
「何?」
「魂の鏡だ」
イザンの目が向けられた。
「鏡?」
「顔を映す鏡ではない。内側に抱えているものを映す」
シャーミルは火のそばへ座り、イザンの胸を指した。
「器は最初の残響を読む。だが魂の鏡は、内なる世界への道を開く。人がその前に立った時、見るのは自分の属性だけではない」
少し間を置く。
「魂に似た場所を見る」
「みんなは、何を見るの?」
シャーミルが答える。
「炎を見る者は、火への傾きを持つ。川を見る者は、水の残響を持つ。嵐を見る者は風へ傾き、山を見る者は大地を宿す。雷、氷、光にも、それぞれの世界と姿がある」
少し止まる。
「そして、影を見る者は――」
イザンが彼を見る。
「闇の残響を持ってる?」
「ああ」
イザンが尋ねる。
「あなたは、何を見たの?」
シャーミルはすぐには答えなかった。
器の中に現れた黒い渦が、まだイザンの記憶に残っていた。
やがて言う。
「光の入らない場所だ」
「怖かった?」
シャーミルは火を見た。
「最初はな」
少し黙り、続ける。
「その後、そこが家になった」
恐ろしい場所が家になるという意味を、イザンは理解できなかった。
だが、アイン・アルワールを思い出した。
そして、家がいつも温かい場所とは限らないことを理解した。
時には、ほかに行く場所がないというだけで、そこが家になる。
「僕も、魂の鏡の前に立つ?」
「今ではない」
「いつ?」
「自分の前に立っても、逃げなくなった時だ」
七歳の少年には、大きすぎる言葉だった。
それでも、恐ろしくはなかった。
イザンは既に多くのものを恐れてきた。
村人たちの囁き。
市場。
園。
怪物。
マルワンの死。
だが、自分自身を――
恐れるほどには、まだ知らなかった。
◆
夜になった。
イザンは火のそばで眠りに落ちた。
だが、穏やかな眠りではなかった。
時折身体が跳ね、唇がマルワンの名を形作る。
声は出なかった。
シャーミルは眠らなかった。
ガラスの器を挟んで座っている。
水は透明だった。
静かだった。
器を取ろうと手を伸ばす。
だが途中で止まった。
ガラスに小さなひびが現れた。
音はしなかった。
細い線が器の縁から中央へ伸びていく。
水面へ触れる寸前まで。
シャーミルの目が細くなった。
少しして、水の一部が消えた。
火の熱で蒸発したのではない。
凍ったのでもない。
ただ、消えた。
何かが、器の底よりも深い場所へ引き込んだかのように。
シャーミルは近づき、ひびのそばへ指を置いた。
水は動かなかった。
だがガラスは、内側から震えていた。
不在の誰かへ語りかけるように、低く言う。
「水は、あいつを拒んだのではない」
眠るイザンを見る。
「理解できなかっただけだ」
壁のそばの場所へ戻る。
外では、アイン・アルワールが重い眠りに沈んでいた。
子供を拒んだ村は知らなかった。
その日、村の中で一つのものが終わり――
別の何かが始まったことを。
◆
翌朝。
イザンは、シャーミルが革の鞄を閉じる音で目を覚ました。
痛みに耐えながら身体を起こす。
「何してるの?」
シャーミルは振り返らずに答える。
「旅立つ準備だ」
イザンは動かなくなった。
「行くの?」
「ああ」
なぜ胸に恐怖が入り込んだのか、自分でも分からなかった。
シャーミルはマルワンではない。
温かくもない。
笑わない。
説明したいことしか説明しない。
それでも、最後に残った人だった。
「どこへ行くの?」
「アルマザへ」
その名は、深い井戸へ落ちる石のように小屋の中へ響いた。
アルマザ。
マルワンの言葉に一度現れ、すぐに消えた国。
ラヒールを追った男たちが来た場所。
遠く、それでいて近く感じられる場所。
イザンはためらいながら言った。
「僕も、一緒に行ける?」
シャーミルの手が、鞄を縛る途中で止まった。
だが振り返らない。
「道に慈悲はない」
「ここには残りたくない」
「旅立ったからといって、家が手に入るわけではない」
イザンは目を伏せた。
「もう、僕には家がない」
シャーミルが振り返った。
少年は粗い寝床の上に座っていた。
顔は青ざめ、傷はまだ塞がっていない。
瞳には昨日泣いた痕が残っている。
だが、食べ物や安全を求める子供の目でシャーミルを見てはいなかった。
一つの扉の前に立ち、それを閉ざされたら戻る場所のない者の目だった。
イザンは言った。
「自分が何者なのか、知りたい」
長い沈黙が流れた。
シャーミルは再びレイスの顔を見た。
砂の上に倒れたマルワンを。
最後に見たラヒールを。
小さな命を抱え、大きな死から逃げ続けていた女を。
「俺について来れば、以前のお前には戻れない」
イザンは迷わず答えた。
「前の僕には、戻りたくない」
シャーミルは笑わなかった。
だが、清潔な布を投げ渡した。
「なら、立て」
イザンは布を受け取った。
「最初に、どこへ行くの?」
シャーミルが扉を開く。
朝の光が鋭く、冷たく、小屋の中へ流れ込んだ。
「道だ」
そう言って外へ出た。
イザンはしばらく、火のそばにあるひび割れた器を見つめた。
なぜか、器のほうもまだ自分を見つめているように感じた。
ゆっくりと立ち上がり、影から現れた男の後を追って外へ出る。
アイン・アルワールは、背後へ残された。
井戸。
囁き。
ラヒールとマルワンの墓。
そして、最初の秘密しか明かしていない黒きナツメヤシの園。
前方には、アルマザへ続く道が伸びていた。
生まれて初めて、イザンはマルワンから与えられた名から逃げるために歩いているのではなかった。
自分が生きてきた名は知っている。
イザン・ファドゥース。
だが、自らの血に、もう一つの名が流れていることは、まだ知らなかった。
開いた傷よりも危険な名。
ザラン。




