呪われた女の息子
アイン・アルワールでは、ナツメヤシが黒く染まるのは、慈悲を知らぬ影を吸った時だけだと言われていた。
大地の底からどれほど清らかな水が湧き出そうとも、追われる女がそこを通れば、呪いの痕までは洗い流せないとも。
だが、村人たちは真実のすべてを語ってはいなかった。
アイン・アルワールは大きな村ではない。
ビスカラ南部にある小さなオアシスで、遠くを砂に、近くをナツメヤシの木々に囲まれていた。
大きな隊商が行き交うビスカラの都市とも、アルマザの市場で名を知られる領主たちの豊かなオアシスとも違う。
そこは世界の果てに取り残されたような土地だった。
地図よりも、砂のほうがよく知っている場所。
村人たちはナツメヤシの実と井戸に支えられて暮らしていた。
何千年ものあいだ地中に埋められていた秘密のように、深い大地から湧き出す水に。
昼の村は穏やかだった。
子供たちは短い木陰のあいだを駆け回り、女たちは敷物の上でナツメヤシの実を乾かしていた。
男たちは小さな畑から戻り、衣服には砂がこびりついていた。
広場には古びた井戸が並び、誰も問おうとしない時代を見つめる眼のように、口を開けていた。
だが、最後のナツメヤシ並木を越えた先。
まるで太古の巨人に踏み砕かれたかのように、大地が突然落ち込む場所には、誰も近づこうとしない区域があった。
黒きナツメヤシの園。
それは、人々が知るような果樹園ではなかった。
広大な窪地。
生きたオアシスの中に横たわる、死んだオアシスだった。
ナツメヤシの幹は、煙一つ残さぬ炎に内側から焼かれたかのように黒い。
井戸は石で埋められ、地面は周囲の砂よりも冷たかった。
そこに落ちる影は、太陽の動きに合わせて動こうとしなかった。
何年も前、アイン・アルワールの男たちは集まり、その周囲に柵を築いた。
乾いたナツメヤシの幹。
重い石。
荒い縄。
黒い布を垂らし、その端には古い獣の骨を結びつけた。
いくつかの石には、描いた者にしか意味の分からない印が刻まれていた。
その柵は、人が中へ入るのを防ぐためだけのものではなかった。
中にいる何かが、外へ出るのを防ぐためだと噂されていた。
アイン・アルワールの子供たちは、幼い頃から一つの言葉を聞かされて育つ。
黒きナツメヤシの園へ入った者は、二度と以前と同じ姿では戻らない。
そして、もし戻ってきたとしても――
決して扉を開けてはならない。
イザンも、その言葉を知っていた。
まだ七歳を越えてはいなかった。
細い身体。
漆黒の髪。
大きな瞳には、その年齢には似合わない深い悲しみが宿っていた。
彼が知る世界は、アイン・アルワールと、マルワンの家だけだった。
そして、誰も答えてくれない一つの疑問。
どうして、みんなは僕を嫌うのだろう。
村人たちは、ほかの子供を呼ぶようには彼の名を呼ばなかった。
囁くのだ。
イザン。
あるいは、彼に聞こえていないと思った時には、好んでこう呼んだ。
呪われた女の息子。
彼が子供たちに近づけば、笑い声が小さくなった。
水瓶を抱えた女のそばを通れば、女は水瓶を胸に抱き寄せ、一歩遠ざかった。
ナツメヤシの木陰に座れば、先にいた者は立ち上がった。
まるで、その影まで汚れてしまったかのように。
イザンは、彼らを憎んではいなかった。
憎しみ方を知るには、まだ幼すぎた。
ただ一度でいいから。
恐れも嫌悪もなく、誰かに自分の名を呼んでほしかった。
それをしてくれるのは、マルワンだけだった。
マルワンは父親ではなかった。
だがイザンにとって、父というものの意味は、彼の手の温もりだけだった。
茶色い髪の端には白いものが混じり、太陽と疲労が顔に深い線を刻んでいる老人。
昔のような力はなく、歩みには隠しきれない年齢の重さがあった。
それでも、イザンのこととなれば、その瞳には炎が宿った。
その朝、イザンは小さな市場の端に立ち、藁と糸で作られた人形で遊ぶ子供たちを見ていた。
近づこうとはしなかった。
仲間に入れてほしいとも頼まなかった。
願うことは、拒絶されるよりも早く心を壊す。
そのことを、幼いながらに知っていたからだ。
兄を追いかけて走っていた少女の手から、小さな人形が落ちた。
イザンは足を止めた。
しばらく人形を見つめ、それから丁寧に拾い上げた。
藁と古びた布で作られただけの素朴な人形。
だが少女は、大切なものを失くしたように、不安げに辺りを見回していた。
イザンはゆっくり近づいた。
小さく微笑み、手を差し出す。
「落としたよ」
少女は顔を上げた。
一瞬ためらう。
そして手を伸ばしかけた、その時。
少女の指がイザンに触れるより早く、強い手が人形を奪った。
少女の母親だった。
見えない炎から救い出すかのように、娘を乱暴に後ろへ引き寄せる。
「近づいちゃ駄目」
鋭い声だった。
そしてイザンを睨みつけ、毒を含んだ囁きへと声を落とした。
「その子は、呪われた女の息子よ」
その言葉は、初めて聞いたものではなかった。
だがその時、これまでとは違う形で胸に突き刺さった。
呪われた女の息子。
女は、イザン自身が呪われているとは言わなかった。
その女の息子だと言った。
まるで呪いはイザンから始まったのではなく、彼に命を与え、そして死んだ女から受け継がれたものだと言うように。
母。
ラヒール。
イザンはその場に立ち尽くした。
差し出していた手だけが、宙に残されていた。
やがて、ゆっくりと腕を下ろす。
少女を見た。
少女が恐れていたのは、自分ではなかったのかもしれない。
母親に植えつけられた恐怖に、怯えていただけなのかもしれない。
次に、女の手に握られた人形を見た。
胸の奥で、小さな何かが音もなく壊れた。
何も言わなかった。
背を向け、市場を離れた。
その背後では、古傷に群がる蠅のように、囁きが次々と追いかけてきた。
アイン・アルワールの人々は、ラヒールの話を知っていた。
だが、真実は知らなかった。
いや、知ろうとしなかったのかもしれない。
彼らが語るには、ある夜、一人の見知らぬ女が村へやってきた。
身重で、疲れ果て、青ざめた顔。
まるで長い死の中から、たった今抜け出してきたような姿だった。
女にはマルワンが付き添っていた。
寡黙で、あまり言葉を発しない男。
だが彼は、世界に残された最後の大切なものを守る番人のように、女から片時も離れなかった。
ラヒールはアイン・アルワールの出身ではない。
村人たちはそう言った。
彼女の服は、村の女たちのものとは違っていた。
その瞳は、背後から迫る炎を見てきた女の目だった。
もはや誰かに説明する時間など残されていない者の目。
彼女が到着して数日後、死が村を訪れ始めた。
水路の端で一人の男が死んだ。
その次には、二人の子供が同じ夜に命を落とした。
さらに、一人の女が家の近くで倒れているのが見つかった。
その首には、村人たちが知るどの病とも違う、黒い痕が残っていた。
村人たちは知らなかった。
アルマザから来た男たちが、ラヒールを追っていたことを。
そのうちの一人が、マルワンとの戦いで傷を負い、憎悪と毒を血とともに流しながら、村の外れへ逃げ込んだことを。
彼らが使った小さな短剣には、毒が塗られていたことを。
死は、ラヒールとともに来たのではない。
彼女を追ってきたのだ。
だが、無知が恐怖を生むのに、証拠など必要なかった。
その後、古い泉に異変が起きた。
村の端へ水を運んでいた細い流れが枯れ、井戸の周囲の泥には亀裂が走った。
見知らぬ女を、大地そのものが拒んでいる。
そう言う者が現れた。
そして、本来なら明るいはずの時刻に、闇が太陽を覆う日が来た。
人々は怯え、家々から飛び出した。
空でさえラヒールを見ぬよう、その眼を閉じたのだと語った。
出産の日。
大地がかすかに揺れた。
枯れていた水路に水が戻った。
村人たちはマルワンの家から響くラヒールの叫びを聞いた。
外では風が吠え狂い、ナツメヤシの葉が激しく鳴った。
まるで、まだ始まってもいない葬儀に拍手を送っているかのように。
その夜。
イザンは生まれた。
そして、ラヒールは死んだ。
アイン・アルワールの人々が見たものは、逃亡と恐怖と傷を抱えた末に、出産で命を落とした一人の母親ではなかった。
彼らが見たのは、村へ来た直後から死を呼び、水を乱し、太陽を隠し、大地を揺らした異邦の女。
そして、その夜に死んだ女だった。
人々は言った。
呪いは死んだ。
そして、マルワンの腕の中で泣く赤子を見て、こう続けた。
だが、息子を残した。
その日から、イザンは自分が犯していない罪を背負わされた。
自分で選んでいない名を。
そして、この世界から最初に贈られたものは、母の死だった。
イザンは村外れにあるマルワンの家へ戻った。
ひび割れた土壁。
ナツメヤシの幹と古い葉で作られた屋根。
家の前には小さな水槽があり、その横では一本の傾いたナツメヤシが、記憶に身を預ける老人のように立っていた。
マルワンは戸口のそばに座り、古い縄を直していた。
イザンを見ると顔を上げた。
すぐには何も尋ねなかった。
少年の顔を見れば、それで分かった。
「おいで、イザン」
イザンは目を上げないまま、隣に座った。
マルワンはしばらく黙っていた。
やがて縄を脇へ置き、少年の頭に手を伸ばし、優しく髪を撫でる。
「今度は、何と言われた?」
イザンは唇を強く結んだ。
そして、壊れそうな声で答えた。
「呪われた女の息子だって」
マルワンの指が、少年の頭の上で一瞬止まった。
長い年月、胸の内に閉じ込めてきた怒りを押し殺すように。
イザンは尋ねた。
「母さんは……本当に、そうだったの?」
マルワンは思わず勢いよく振り向いた。
だが、すぐに表情を和らげる。
「違う」
短い言葉だった。
だがその一言には、七年分の沈黙が重く詰まっていた。
イザンは顔を上げた。
「じゃあ、どうしてみんな、そう言うの?」
マルワンは遠くの畑を見た。
ナツメヤシの木々を。
人の秘密を長くは残さないくせに、骨を埋めることだけは得意な砂を。
「人は、自分に理解できないものを恐れる」
イザンは少し黙った。
それから尋ねた。
「僕も?」
唾を飲み込む。
「みんなが僕を怖がるのは、僕のことが分からないから?」
マルワンはすぐには答えなかった。
長い答えがあった。
だが、それは子供に聞かせるには重すぎた。
口にしてはならない名前があった。
遠い国、アルマザ。
レイスという男。
ラヒールという女。
そして、その真実が知られれば、人々が囁くだけでは済まない血。
マルワンはようやく言った。
「お前は呪いなんかじゃない、イザン」
両肩を掴み、真正面から目を見る。
「よく聞け。誰に何を言われても、黒きナツメヤシの園へだけは近づくな。絶対に行くな」
イザンの顔が変わった。
「どうして?」
「子供が入れば、戻れない場所だからだ」
イザンは目を伏せた。
そして、止めるより早く問いが口からこぼれた。
「じゃあ……呪いなら、戻ってきたことがあるの?」
マルワンは沈黙した。
その沈黙の中で、イザンは小さく、そして痛いことを悟った。
自分を愛してくれるこの男でさえ、何かを恐れ、自分に話そうとしない。
少年はゆっくり立ち上がった。
「少し歩いてくる」
マルワンは言った。
「遠くへ行くな」
イザンは頷いた。
だが、本当には聞いていなかった。
家を出て、村人たちの声が遠ざかるまで路地を歩いた。
村の最後の井戸の横を通り過ぎる。
長く続くナツメヤシ並木を抜ける。
男たちが働く小さな畑を越える。
誰も止めなかった。
気づかなかったのかもしれない。
あるいは、村人たちは彼を一人にしておくことに慣れていたのかもしれない。
村から離れるほど、空気は静かになっていった。
背後には、囁きに満ちたアイン・アルワール。
正面には、古びた柵。
イザンはその前で立ち止まった。
想像していたよりも高かった。
乾いたナツメヤシの幹が重ねられ、その間に大きな石が砂へ埋め込まれている。
古びた縄が木々を締めつけ、巨大な何かが内側から押し破ろうとするのを必死で止めているようだった。
風もないのに黒い布が揺れていた。
古い入口のそばに吊るされた小さな骨がぶつかり合い、かすかな音を立てる。
柵の向こうでは、大地が低く落ち込んでいた。
その底で、黒きナツメヤシの園が待っていた。
マルワンの警告を思い出した。
次に、市場の女を。
少女を。
人形を。
そして心に貼りついた言葉を。
呪われた女の息子。
柵の下に、ナツメヤシの幹と石の隙間があった。
広くはない。
だが、イザンの細い身体なら通れる。
時が作った隙間かもしれない。
あるいは、何かが外へ出ようとして作ったのかもしれない。
イザンはそこを這って進んだ。
柵の内側へ入った瞬間。
村の音が消えた。
完全に。
子供たちの声も。
女たちの話し声も。
水音も。
ナツメヤシの葉が擦れる音さえ聞こえない。
自分の呼吸と、足の下で鳴る砂の音だけだった。
ゆっくりと窪地へ下りていく。
ナツメヤシの幹は黒かった。
火もないのに焼け焦げ、乾いた葉は頭上で絡み合い、長い指のように伸びている。
木々の間の砂は外よりも冷たい。
腐ったナツメヤシの実。
古い泥。
そして、濡れた獣の毛に似た臭いが漂っていた。
木々の間を進み、園の中心にある小さな空地へたどり着いた。
壊れた井戸の近くで、何かが動いた。
イザンは足を止めた。
生まれたばかりの犬ほどの大きさしかない、小さな生き物だった。
砂色の毛に覆われ、背中には小さな突起が並んでいる。
大きく見開かれた目には、恐怖が浮かんでいた。
死んだナツメヤシの根に脚を挟まれ、抜け出せずにもがいている。
イザンは慎重に近づいた。
「怖がらないで」
小さな生き物は少し後ずさりし、弱々しい声を漏らした。
イザンはポケットから、朝マルワンにもらった硬いパンとナツメヤシの実を取り出した。
実を半分に割り、その片方を差し出す。
「ほら。僕も……あまり好かれてないんだ」
生き物は実の匂いを嗅ぎ、すぐに貪り食った。
イザンは微笑んだ。
ほんの短い間だけ。
村のことを忘れた。
市場を。
あの言葉を。
根の間から生き物の脚を外そうと、手を伸ばした。
その時。
背後の砂が震えた。
すべてが止まった。
小さな生き物は突然顔を上げ、身体を縮めて震え始めた。
低く、深い音が聞こえた。
地の底で石同士が擦れ合うような音。
イザンはゆっくりと振り返った。
黒いナツメヤシの間から、怪物が現れた。
巨大だった。
砂漠の獅子に似た身体。
だがその皮膚は、乾ききった大地のようにひび割れていた。
亀裂の下では、闇そのものが流れているように黒い線が光っている。
長く黄ばんだ牙。
砂に沈みながらも音一つ立てない爪。
その目は病んだ太陽の色をしていた。
逃げることのできない小さな獲物を見る飢えの目で、イザンを見つめていた。
イザンは一歩下がった。
さらに一歩。
足を取られ、砂の上へ倒れた。
怪物が動いた。
咆哮は上げなかった。
その沈黙は、どんな咆哮よりも恐ろしかった。
◆
アイン・アルワールの外れにある土の家で、マルワンは突然顔を上げた。
縄はまだ手の中にあった。
だが、直す手が止まっていた。
太陽を見る。
道を見る。
そして、少し前にイザンが出ていった小さな戸口を見た。
遅い。
一瞬、少年の顔が脳裏によみがえった。
呪いなら、戻ってきたことがあるの?
マルワンの血が凍った。
縄を投げ捨てる。
年齢には似合わない速さで立ち上がった。
木の杖を掴み、戸口の近くに掛けていた古い短剣へ手を伸ばす。
その手は震えていた。
老いだけが理由ではない。
七年間、埋めてきた真実。
それがまだ死んでいないことを知っていたからだ。
家を飛び出し、柵へ向かって走った。
◆
怪物が飛びかかった。
イザンは両腕で顔を覆った。
細い腕二本で、死を防げるはずもない。
だが別の身体が横からぶつかり、イザンを突き飛ばした。
少年は砂の上へ倒れ、遠くまで転がった。
鈍い衝撃音。
そして、聞き覚えのある呻き。
顔を上げる。
マルワンが、怪物とイザンの間に立っていた。
どうやってここまで来たのか、分からなかった。
あれほどの距離を、老人がこれほど短い時間でどう走り切ったのかも。
少年が見たのは、少し前まで縄を直していた老人が、今は慈悲を知らぬ怪物の前に立っている姿だった。
手には木の杖。
そして、羊一匹を仕留めるにも心許ない、小さな短剣。
振り返らずに言った。
「逃げろ、イザン」
少年は動かなかった。
マルワンが叫ぶ。
「逃げろ!」
イザンの脚は震えた。
だが、その場から離れなかった。
怪物が再び襲いかかる。
マルワンは最初の一撃を辛うじて避け、短剣を脇腹へ突き立てた。
怪物はほとんど怯まない。
爪がマルワンを薙いだ。
肩が裂け、老人は膝をついた。
イザンが叫ぶ。
「じいちゃん!」
マルワンは少年を振り返った。
腕から血が流れていた。
それでも、痛みの中で笑った。
その笑みには、これまで口にできなかったすべてがあった。
隠してきた真実。
抱え続けた恐怖。
そして、残酷な世界の中で家になろうとした愛。
掠れた声で言った。
「後ろを……見るな」
イザンには意味が分からなかった。
そして、周囲の影が動くのを見た。
怪物は一頭ではなかった。
黒いナツメヤシの間から、さらに三頭の怪物が姿を現した。
最初の一頭よりは小さい。
だが、瞳に宿る飢えは同じだった。
イザンは動けなかった。
心のすべてが叫んでいるのに、身体が従わない。
マルワンは立ち上がろうとした。
もう一度だけ、孫と死のあいだに立とうとした。
だが、最初の怪物のほうが速かった。
襲いかかる。
イザンには、最初の瞬間、何が起きたのか理解できなかった。
マルワンの身体が揺れた。
杖が落ちた。
血が砂の上へ赤い線を描いた。
そして、マルワンは倒れた。
すぐには死ななかった。
胸が苦しげに上下していた。
一度息をするたびに、血と痛みの間へ道を切り開かなければならないようだった。
イザンへ手を伸ばそうとする。
だが腕はわずかに持ち上がっただけで、再び砂へ落ちた。
イザンは叫ばなかった。
まだ七歳だった。
それでもその瞬間、瞳の奥だけが突然老いた。
目は限界まで見開かれ、黒よりも白い部分のほうが大きく見えた。
力ではない。
エネルギーでもない。
血の中に眠る秘密が目覚めたわけでもない。
ただ純粋な恐怖だった。
世界が最後に差し伸べてくれた手を。
目の前で折られた子供の恐怖。
マルワンは彼を呼ぼうとした。
だが口から出たのは、壊れた空気だけだった。
怪物たちが少年へ近づく。
マルワンには見えていた。
それでも立てなかった。
逃げろと叫ぶこともできない。
何も説明できない。
レイス……
その名が、舌へ届くより早く胸を通り過ぎた。
約束したのに。
頬の下の砂は冷たい。
その上を流れる血は温かい。
怪物たちはイザンを囲んでいる。
少年は魂を失ったように立ち尽くし、黒き園の中で小さな殻だけになっていた。
その時。
空気が変わった。
ナツメヤシの間を、冷たい何かが通り過ぎる。
風ではない。
存在そのものだった。
重く。
静かで。
そして、獣の力と人の力を見分けられるほど長く生きた男には、覚えのある気配だった。
マルワンの指が砂の上で震えた。
分かった。
姿を見る必要はなかった。
声を聞く必要もなかった。
冷たい影。
死を恐れぬ者が現れる直前の、あの静けさ。
遠い昔から知っている。
シャーミル。
マルワンは笑おうとした。
だが唇から、笑みより先に血がこぼれた。
目には映らない。
それでも、男が園へ入ってくるのを感じた。
怪物たちだけではなくなったことを。
イザンが、もう死へ置き去りにされてはいないことを。
マルワンの顔から、少しだけ痛みが消えた。
少年へではなく。
何年も姿を消していた一人の男へ向けるように。
小さく囁いた。
「許してくれ……レイス」
そして、その瞳から光が消えた。
怪物たちがイザンへ迫る。
少年は動かない。
牙も。
砂も。
マルワンさえも。
もう見えてはいなかった。
すべてが崩れ落ちた瞬間の中に、閉じ込められていた。
最初の怪物が近づき、少年の上で顎を開く。
牙が触れる直前――
その音が消えた。
悲鳴はなかった。
よろめきもしない。
抵抗もしなかった。
ただ、何かに影を掴まれたかのように動きを止めた。
次の瞬間、首が胴から離れ、砂の上へ落ちた。
二頭目の怪物が後ずさる。
だが、その身体より先に、地面へ落ちた影が裂けた。
直後、怪物の身体も二つに分かれ、抵抗一つできず倒れた。
三頭目が黒いナツメヤシの間へ逃げようとする。
だが園の闇よりも深い黒が、その足元へ伸びた。
沈黙が、怪物を呑み込んだ。
四頭目が牙を剥く。
咆哮を上げることはできなかった。
細い糸のように鋭い黒が、空を走った。
それは、下された最終判決のようだった。
怪物は横倒しになった。
目を見開いたまま。
自分がいつ死んだのかさえ、理解できなかったように。
イザンには、何が起きているのか分からなかった。
自分へ向かって走ってきた死が、自分より先に死に始めた。
ただ、それだけが見えた。
そして、男が現れた。
黒いナツメヤシの幹の間から、ゆっくりと歩いてくる。
誰かを救うために急いできたようには見えない。
まるで、この場所のほうが最初から彼を待っていたかのようだった。
長身。
肩へ流れる長い白髪。
生きた影のように揺れる暗い外套。
冷たい瞳。
露骨な残酷さも。
慈悲もない。
ただ、生と死の境目に立つことに慣れた者だけが持つ静けさ。
怪物たちの死骸の前で足を止める。
そして、イザンを見た。
少年は動かなかった。
顔は青ざめ、目は見開かれ、呼吸は途切れ途切れだった。
魂が身体へ戻るのに遅れているかのように。
イザンはマルワンへ手を伸ばそうとした。
言おうとした。
じいちゃん。
男へ尋ねようとした。
あなたは誰?
だが、身体はもう耐えられなかった。
砂の上へ崩れ落ちた。
その時になって初めて、シャーミルはマルワンへ近づいた。
長いあいだ、彼の身体の上に立った。
砂と血に汚れた顔を見る。
白髪に侵された髪を。
死してなお、少年へ向けて伸ばされた手を。
シャーミルの表情は、ほとんど変わらなかった。
だが瞳だけが、さらに冷たくなった。
まだ聞こえている男へ語りかけるように、低い声で言った。
「老いたな、マルワン」
少し黙る。
それから砂の上に倒れたイザンを見て、続けた。
「だが、約束は違えなかった」
身を屈め、イザンを両腕へ抱き上げる。
そして最後にもう一度、マルワンを振り返った。
別れの言葉は口にしなかった。
影の中で生きてきた男たちは、言葉で別れを告げない。
シャーミルは少年を抱き、静かに空地を去っていった。
黒きナツメヤシの園だけが、いつもと同じ姿で残された。
満たされることを知らぬ、広大な窪地。
叫びを呑み込み。
砂の上に横たわる四体の死骸よりも、さらに多くのものを、その奥深くへ隠しながら。




