炎のあとに残ったもの
訓練場に残ったシグランの炎は、石の上の黒い跡だけだった。
だが。
熱は、完全には消えていない。
人々の目の中に。
そして。
まだ誰も口にしていない言葉の中に残っていた。
◆
イザンは治療棟の石造りの寝台へ座っていた。
治療師が肋骨の包帯を巻き直している。
ラカンは扉のそばで腕を組んでいた。
治療師が言う。
「動きすぎないようにと言ったはずよ」
イザンが答える。
「大会だったから」
「私は昨日も、別の大会でできた傷を治療したのよ」
治療師が包帯を強く締める。
イザンは痛みに顔をこわばらせた。
だが声は出さなかった。
治療師が彼を見る。
「それで、あなたが平気だとは思わないわ」
ラカンが言う。
「無理だ。こいつは沈黙を治療法だと思っている」
イザンが顔を上げた。
「先生は、皮肉を治療法だと思ってるの?」
治療師の手が止まった。
ラカンは一瞬、イザンを見る。
それから言った。
「明確な進歩だな」
言い返したことが間違いだったのか、イザンには分からなかった。
だが、ラカンの口元がわずかに動いた。
治療師が言う。
「終わり。少なくとも二日間、激しい訓練は禁止」
ラカンが答える。
「一日だ」
治療師が厳しい目を向けた。
「二日」
「一日半」
「二日」
ラカンが言う。
「交渉というものを理解していないな」
「あなたは身体というものを理解していない」
扉を指す。
「出て」
ラカンは両手を上げ、降参するように部屋を出た。
イザンだけが寝台へ残る。
◆
部屋の外では、マヤが待っていた。
イザンが出ると、すぐに近づく。
「大丈夫?」
「うん」
新しく巻かれた包帯を見る。
「治療師は、そう思っていないみたい」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
ラカンの姿は近くにない。
マヤが言う。
「あなたが正しかった」
イザンは彼女を見る。
「何が?」
「旗は班そのものじゃないって言ったこと」
イザンは目を伏せた。
「うまく言えなかった」
「分かったから」
しばらく、黙って歩いた。
近くを通る生徒たちは、大会について話している。
シグランの攻撃を真似する者。
アルダの石壁について語る者。
班の順位について議論する者。
イザンは、そちらを見なかった。
マヤが言う。
「あなたがアナスやナダやアミールの動きを見つけなかったら、第一ラウンドで旗は落ちていた」
「止めたのはマヤだよ」
「どこを見ればいいか、あなたが教えたから」
イザンは少し足を止めた。
成功の一部を、自分の手へ置かれることに慣れていなかった。
「でも、負けた」
マヤは前を見る。
「うん」
事実を飾ろうとはしなかった。
そして続けた。
「でも、あなたが弱かったから負けたわけじゃない」
その言葉は。
イザンの内側の、痛みやすい場所へ届いた。
「負けたのは、シグランが――」
そこで止まる。
責任を彼へ押しつけているように聞こえたくなかった。
マヤが言う。
「最後に、私たちの声を聞かなかったから」
少し黙った。
「そして私は、あそこまで行く前に止める方法が分からなかった」
イザンは彼女を見る。
まるで全員の失敗を、自分の責任として抱えているようだった。
「マヤのせいじゃない」
「怒ってるのは分かってた」
「皆、分かってた」
「でも、私は一番近くにいた」
イザンが言う。
「近くにいるからって、一人で抱えられるとは限らない」
マヤが止まった。
イザンは彼女を見る。
言い方がきつかったのではないかと不安になった。
だが、彼女は怒らなかった。
「ラカン先生も、似たようなことを言ってた」
「じゃあ、たまには正しいんだ」
マヤの顔に薄い笑みが浮かぶ。
「本人には言わないで」
再び歩き始める。
廊下の先に、外の訓練場へ続く扉が見えた。
マヤはそれを見る。
「戻ってくると思う?」
シグランのことだと分かった。
去っていった時の姿を思い出す。
「うん」
「どうして分かるの?」
完全な答えはなかった。
「まだ、終わってないから」
マヤはイザンを見る。
そして、シグランが消えた廊下へ目を向けた。
安心できる言葉ではなかった。
だが。
嘘ではないように聞こえた。
◆
西側の訓練場。
ライドは、前夜に訓練していた石柱の前へ立っていた。
炎は出していない。
表面に残った黒い跡を、ただ見ている。
背後からアルダが近づいた。
「見続けても、石は答えないぞ」
ライドが言う。
「シグランを、限界まで追い込みました」
アルダは隣へ立った。
「ああ」
否定しなかった。
ライドが言う。
「誰かを傷つけたかもしれない」
「お前が殺されていたかもしれない」
ライドは彼を見る。
アルダが続ける。
「挑発は武器だ」
「武器を使う者は、自分の選択の結果を負う」
ライドは目を伏せた。
「退くと思っていました」
「違う」
アルダは言った。
「間違いを認めるところを見たかったんだ」
ライドは黙った。
教師の言う通りだった。
旗から遠ざけるだけでは満足しなかった。
その自尊心を折りたかった。
「最後の言葉を言う前に止めていれば――」
アルダが遮った。
「このことから学べ」
「だが、シグランが選んだすべてを、自分の背中へ載せるな」
ライドが目を上げる。
アルダが言う。
「揺るがないというのは、すべてが爆発するまで一人で立ち続けることではない」
石柱を見る。
「お前は力を抑える方法を知っている」
「次は、相手をそれ以上押さず、自分自身と向き合わせるべき時を学べ」
ライドが言う。
「俺は、あの戦いを制御していると思っていました」
「制御していたのは、距離だけだ」
アルダは真っすぐ彼を見る。
「目の前の人間までは、制御していなかった」
その言葉が二人の間に残る。
やがてアルダが言った。
「明日から、通常訓練へ戻る」
ライドが眉を上げる。
「大会の翌日でも?」
「勝利は休暇にはならない」
アルダが離れていく。
ライドが背後から呼ぶ。
「ワイルは?」
アルダが止まる。
「何だ?」
「恐怖を感じながらも、二度、旗の区域へ届きました」
「知っている」
「本人に言いますか?」
アルダは肩越しに振り返った。
「お前が言え」
そのまま歩き去った。
ライドは一人残された。
だが今回は。
すべてを一人で背負うよう求められているとは感じなかった。
◆
ライドは、宿舎の廊下でワイルを見つけた。
ワイルは掌の上にある、小さな氷の塊を見つめている。
氷は震えていた。
固定しようとするたびに、亀裂が入る。
ライドに気づくと、慌てて手を閉じた。
「廊下で訓練していたわけじゃない」
ライドが答える。
「聞いていない」
「なら、よかった」
ライドは横を通り過ぎた。
だが、足を止める。
「旗へ届いたな」
ワイルが見る。
「触れてない」
「だが、届いた」
「その後、アミールに倒された」
「雷を二度防いだ後にな」
ワイルは黙った。
皮肉のない言葉へ、どう答えればいいのか分からなかった。
ライドが続ける。
「第一ラウンドでは、アスマーに叫ばれたから動いた」
ワイルの手を指す。
「最終ラウンドでは、叫ばれる前に動いていた」
ワイルは掌を見る。
「どちらも、怖かった」
「怖がるなとは、誰も言っていない」
ライドは歩き出す。
ワイルが背後から尋ねる。
「それ、褒めてる?」
ライドは一瞬止まった。
「慣れるな」
そして去った。
ワイルはその場に残る。
ゆっくり手を開いた。
再び氷が現れる。
今度は。
少しだけ震えが小さかった。
◆
アミールはアドナン班の訓練場へ座り。
小石を壁へ投げては、跳ね返ったものを受け止めていた。
「俺たちが一位になるべきだった」
ナダは水瓶のそばで、手についた土を洗っている。
「一本も旗を落とせなかった」
「アナスがファドゥースの前で二度も止まったからだ」
アナスは壁の近くの影へ座っていた。
目を上げる。
アミールが言う。
「あいつを見ていないで攻撃していれば、終わっていた」
アナスが答える。
「お前が少し黙っていれば、ワイルは俺たちの旗へ届かなかった」
アミールの指に火花が走る。
「話を変えるな」
「変えていない」
ナダが口を挟む。
「大会は終わったのよ」
アミールが彼女を見る。
「お前はずいぶん簡単に言うな。ずっとマヤと戦っていたわけじゃないから」
「彼女を相手に選んだのは、あなたよ」
「道を開くためだ」
アナスが言う。
「第三班より強いと証明したかっただけだ」
アミールは顔を上げる。
「俺はファドゥースより強い」
アナスが答える。
「ああ」
アミールは止まった。
肯定されるとは思っていなかった。
アナスが続ける。
「だが、弱者として俺の前へ立ったわけではない」
訓練場が静まる。
アミールが尋ねる。
「どういう意味だ?」
アナスは、灰色の旗があった場所を見る。
「自分の弱さを知る弱者は、勝てない戦いから逃げる」
アミールが言う。
「なら、あいつは馬鹿だ」
「そうかもしれない」
アナスは続ける。
「だが、俺に勝とうとはしていなかった」
アミールを見る。
「マヤが到着するまで、俺を遅らせればいいと分かっていた」
アミールは黙った。
「自分の役目を見つけ、やり遂げた」
アミールは、その言葉が気に入らなかった。
「それでも、力はない」
アナスが答える。
「違うとは言っていない」
再び影へ身体を戻す。
ナダは、旗の前に立っていたイザンを思い出していた。
あの日。
弱い少年として見たわけではない。
ただ。
班が必要とした場所へ立っていた者として見ていた。
◆
シグランは訓練棟の裏にある、古い訓練場にいた。
そこにいると知っていたのは、ラカンだけだった。
石壁の前へ立つ。
手は血で汚れている。
カマンを使わず、何度も殴っていた。
拳の皮膚が裂けている。
だが壁には何も起きていない。
背後からラカンが言った。
「新しい力の証明方法か?」
シグランは振り返らない。
「出ていけ」
「学院の訓練場だ」
「なら、ここで一人にしろ」
ラカンが近づく。
「一人にしておく時間は終わった」
シグランは拳を上げ。
もう一度、壁へ振り下ろす。
衝突する前に、ラカンが手首をつかんだ。
シグランが激しく振り向く。
「離せ」
「断る」
「それが癖なのか?」
「生徒が頭の代わりに自分の手を壊そうとする時はな」
シグランは腕を引く。
血を見る。
それから言った。
「俺は制御を失っていない」
ラカンは即座に答える。
「失った」
「攻撃の強さは分かっていた」
「どこまで届くかは分かっていなかった」
「壁が止めた」
「壁が出たのは、アルダが介入した後だ」
シグランの目が鋭くなる。
ラカンが続ける。
「マヤは攻撃の線上にいた」
「イザンはその後ろ」
「ライドは正面」
「ほかの生徒たちは両側にいた」
「当てるつもりはなかった」
「俺が手をつかんだからだ」
シグランの指の周囲に、炎が一瞬現れた。
だがラカンは姿勢を変えない。
「消せ」
「命令するな」
「俺はお前の教師だ」
「もう俺の教師じゃない」
ラカンは一瞬、黙った。
「決めるのは学院長だ。お前ではない」
シグランは侮蔑するように見る。
「罰を与えるのか?」
「ああ」
「自分では制御できないほど、俺が強かったからか?」
ラカンは笑わなかった。
皮肉も、すべて消えていた。
「訓練を、本物の危険へ変えたからだ」
一歩近づく。
「お前は、もうライドと戦っていなかった」
「自分が思っているほど強くないと見られる恐怖と戦っていた」
シグランの顔が変わる。
「俺の何が分かる」
「十分見た」
「見たのは、俺が止められたところだけだ」
「旗のすぐ近くまで行きながら、一言で自尊心を傷つけられ、旗を捨てたところを見た」
炎が手へ集まる。
ラカンが言う。
「今も同じだ」
シグランは自分の炎を見る。
しばらく残った。
そして。
消した。
ラカンが言う。
「よし」
シグランは顔を上げる。
「褒めるな」
「褒めていない」
「訓練場で失敗したことを、今回はできたと言っただけだ」
シグランは背を向ける。
「出ていけ」
ラカンが言った。
「明日、訓練へ来い」
「行かない」
「来る」
「なぜ?」
ラカンが答える。
「班から離れることはできる」
「だが、班が負けた原因からは逃げられない」
シグランが止まる。
「負けたのは規則のせいだ」
「お前が、自分を班より上へ置いたからだ」
シグランが振り返る。
目の中の炎は。
点けなかった炎より危険だった。
ラカンが言う。
「それを学ぶことになる」
「気に入るかどうかは関係ない」
そして訓練場を出た。
シグランは一人残る。
血のついた手。
目の前の壁。
再び拳を上げた。
だが。
殴らなかった。
◆
ラカンは自室へは戻らなかった。
そのまま学院長室へ向かう。
学院の上へ夜が下り始めていた。
だが、扉の向こうにはまだ明かりがある。
一度だけ叩き。
そのまま入った。
ナーデル・ジャルガルン学院長は、机の後ろで大会の報告書を読んでいた。
顔を上げる。
「来ると思っていた」
ラカンが答える。
「なら、話を早くしよう」
扉を閉める。
「俺の班を、騎士試験から外してほしい」
学院長は動かなかった。
「却下する」
「理由を聞いていない」
「分かっているからだ」
ラカンは大会の報告書を机の上へ押した。
「一言に耐えられず、訓練場の半分を焼きかけた者がいる」
「止めただろう」
「制御を失った後にな」
ナーデルが言う。
「その欠点を、実地へ出る前に直すための学院だ」
「国際騎士試験は学院の訓練場ではない」
「分かっている」
「シグランは準備できていない」
学院長が尋ねる。
「マヤは?」
「全員を一人で支えようとする」
「イザンは?」
ラカンは止まった。
それから言う。
「目に見えるカマンを持たない」
「身体も、本物の戦闘へ耐えられる段階ではない」
「それでも、何度も旗が落ちるのを防いだ」
「頭を使ってだ。力ではない」
「知性は試験へ持ち込めないのか?」
ラカンが言う。
「使うまで生き残れる身体があるならな」
ナーデルは立ち上がった。
「班の編成は決まっている」
「変えろ」
「俺だけで決められることではない」
「学院長だろう」
「試験は評議会と最高司令部の管轄だ」
ラカンの表情が変わった。
「最高司令部?」
「今朝、命令が届いた」
引き出しを開く。
封印された文書を取り出した。
机の上へ置く。
アルマザの公式印が押されている。
「今期の合格班は、すべて試験の準備段階へ参加する」
「恒久的な負傷、または最高司令官の命令がない限り、個別の免除は認められない」
ラカンは印を見る。
「ハーマンか」
ナーデルが答える。
「ああ」
ラカンは顎へ力を込めた。
「班の詳細を知っているのか?」
「最高司令官が、生徒の名前を一人ずつ確認しているとは思えない」
ラカンが言う。
「だが、シグランの名は知っている」
ナーデルは答えなかった。
必要もなかった。
「なら、準備ができているから参加するわけではない」
「そうは言っていない」
「ザランの息子を、試験へ出さなければならないからだ」
学院長が厳しく言う。
「言葉に気をつけろ」
ラカンは机へ近づく。
「俺は、送り出す者へ気をつけろと言っている」
ナーデルが言う。
「お前に免除する権限はない」
「なら、戦争へ行くつもりで鍛える」
「それが、お前の役目だ」
二人の視線がぶつかる。
ラカンは文書を手に取った。
最後の行を読む。
各国代表の集合日。
選別段階。
開始後の外部介入は禁止。
文書を机へ戻す。
「何か起きたら――」
ナーデルが遮る。
「すべての教師が、その恐怖を抱えている」
ラカンが答える。
「違う」
「恐れる理由があると知っている者だけだ」
背を向け、部屋を出た。
学院長は立ったまま。
シグランの報告書を見る。
次に、イザン・ファドゥースの名。
彼も安心してはいなかった。
だが。
ラカンの前に開けられる扉は持っていなかった。
◆
アルマザから遠く離れた場所。
密集した木々に囲まれた、廃墟の建物。
三人の男が、低い机を囲んでいた。
机の上には。
地図。
移動経路。
各国代表の名簿。
中央にはライが座っている。
落ち着いた様子で。
急ぐことなく、書類へ目を走らせていた。
ハルは窓の近くへ立つ。
キョウは金属製の徽章を指の間で回していた。
ハルが尋ねる。
「招待状が届いたことは確認できたか?」
ライが答える。
「ああ」
参加国の一つを指す。
「この徽章を持つ班は、アルマザへ到着しない」
キョウが笑う。
「誰も違いに気づかないのか?」
「名前と詳細を間違えなければな」
二人の前へ、三枚の紙を押し出す。
外国人学生の身分証明だった。
ハルが尋ねる。
「教師は?」
「試験段階へ入るのは、生徒だけだ」
キョウが言う。
「目標は?」
ライが目を上げた。
「シグラン・ザラン」
キョウの口元に薄い笑みが浮かぶ。
「生きたまま?」
「生きたままだ」
ハルが尋ねる。
「同じ班の者は?」
「どうでもいい」
ライは一度、言葉を止めた。
「だが、目標へ着く前に騒ぎを起こすな」
キョウが言う。
「道を塞ぐ者がいたら?」
ライは声を変えずに答える。
「消せ」
ハルは地図を見る。
「アルマザの班は強いと聞く」
ライが言う。
「奴らの試験に勝つために入るわけではない」
シグランの名へ指を置く。
「中から、欲しいものを取り出すためだ」
キョウは徽章を光へかざした。
そこには。
自分たちが属していない国の紋章が刻まれていた。
「なら、一日だけ騎士になるわけだ」
ライが答える。
「違う」
地図を閉じる。
「到着できなかった死者の顔になる」
沈黙が落ちた。
外では、木々の間を風が通っていた。
だが。
学院の誰も知らなかった。
試験の始まりを待たずに、すでに動き出した者たちがいることを。
小さな旗は、ただの訓練にすぎなかった。
本当の危険は。
すでに、自分が狙う名を選び始めていた。




