異変
翌日。
王国西方駐屯地は、朝から騒がしかった。
訓練場では木剣の打ち合う音が響き、鍛冶場からは鉄を打つ音が聞こえる。
怒鳴り声
笑い声
鎧の擦れる音。
昨日まで、夜みたいな洞窟にいたことが嘘のようだった。
「ベルネル!!」
食堂へ入った瞬間、大声が飛んでくる。
「やっと起きたか新人!!」
豪快に笑っていたのは、ガウルだった。
大鷲隊随一の怪力を誇る戦士。
山みたいな体格。
分厚い腕。
片手で酒樽を持ち上げる男として有名だった。
「お前、昨日の最後ちょっと格好つけてたなぁ!」
ガウルがベルネルの背中を叩く。
凄まじい衝撃。
ベルネルは咳き込んだ。
「がっ……! やめてくださいって!」
食堂が笑いに包まれる。
その奥では、副隊長ラウルが静かに本を読んでいた。
黒髪
細身
騒がしい大鷲隊の中では珍しく、常に落ち着いている男だ。
ラウルは視線だけ上げる。
「朝から騒ぎすぎだ」
低い声
それだけで、少し空気が静まる。
ガウルが肩をすくめた。
「かてぇなぁ副隊長は」
ラウルは相手にしない。
代わりにベルネルを見る。
「傷は」
「大丈夫です」
「そうか」
短いやり取り。
だがラウルは、ベルネルの脇腹へ視線を残していた。
ちゃんと気にしている。
ただ、それを大きく言葉にしないだけだった。
その時、訓練場の方から、
歓声が上がる。
「また勝ったぞ!!」
「三連続かよ!」
ベルネルが窓を見る。
中央で木剣を振っていたのは、スカーだった。
若い。
ベルネルと年も近い。
だが剣だけは、
隊の中でも飛び抜けていた。
細身の体
鋭い目
無駄のない動き。
今も訓練相手を軽くいなし、木剣を首元へ突きつけている。
「終わり」
相手が悔しそうに木剣を下ろす。
周囲から歓声。
スカーは興味なさそうに剣を肩へ担いだ。
その視線が、食堂のベルネルへ向く。
「起きてたんだ」
「今起きたんだよ」
「遅い」
それだけ言って、スカーは水を飲み始める。
愛想は薄い。
だが嫌味ではない。
純粋に剣へしか興味がない男だった。
ガウルが笑う。
「こいつ、昨日ベルネルが黒角斬ったの、まだ悔しがってんだぞ」
「うるさい」
珍しく、スカーが即座に返した。
食堂がまた笑う。
ベルネルもつられて笑ってしまう。
こういう空気が好きだった。
強くて、騒がしくて、少し馬鹿で。
でも、いざという時は命を預けられる。
大鷲隊は、そういう連中だった。
その時、ラウルが本を閉じる。
静かな音。
副隊長は窓の外を見た。
「……最近、夜が長いな」
食堂の空気が、ほんの少しだけ変わる。
ガウルが眉をひそめる。
「そういや、朝も暗かったな」
スカーは無言。
ベルネルだけが、リシェルの言葉を思い出していた。
『もう始まってる』
暖かな食堂。
仲間たちの笑い声。
それでも、胸の奥に小さな不安が残っていた。
昼過ぎ。
巡回任務を終えたベルネルたちは、駐屯地へ戻ってきていた。
西方は平和だ。
少なくとも、表向きは。
街道には旅人が行き交い、市場には人が溢れている。
子供たちは走り回り、露店からは焼いた肉の匂いが漂う。
どこにでもある王国の風景。
だからこそ、最近の噂は不気味だった。
「……また一人、いなくなったらしいぞ」
門番の騎士が、何気なく呟く。
ベルネルが振り返る。
「誰がです?」
「東区画の石工。最近見ねぇなと思ってたら、家にも戻ってねぇって」
「蒸発か?」
ガウルが腕を組む。
門番は曖昧に首を振った。
「いや、蒸発って感じじゃねぇんだよな」
「みんな、“最近見てなかった”って言うだけで」
ラウルが静かに目を細める。
「記録は」
「残ってますよ。家族もいる」
門番は苦い顔をした。
「だから余計気味悪いんだ」
ベルネルの脳裏に、リシェルの声が蘇る。
『最初は誰も気づかない』
『最近見てない、その程度』
嫌な汗が背中を流れた。
その時
「おーいベルネル!」
明るい声が飛ぶ。
振り向くと、酒場の看板娘ミナが手を振っていた。
両手いっぱいの荷物。
栗色の髪が揺れている。
「またサボってるの?」
「違うよ」
ベルネルが苦笑する。
ミナは近づきながら、
門番へパンを放った。
「はい、お昼」
「助かる」
どうやら顔馴染みらしい。
ミナはベルネルを見る。
「今日来る?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて来てよ。昨日の黒角討伐、みんな聞きたがってるんだから」
ガウルが豪快に笑った。
「おう!こいつ昨日、最後だけいいとこ持ってったんだぜ!」
「やめてくださいって!」
周囲が笑う。
スカーだけは壁にもたれたまま、
つまらなそうにしていた。
「運が良かっただけ」
「まだ言ってるのかよ」
ベルネルが呆れる。
スカーは鼻を鳴らした。
「次は俺が斬る」
それを聞いて、ガウルがさらに笑う。
「こいつ、ほんと剣のことしか頭にねぇな!」
騒がしい
平凡だ
いつも通りの日常
だけど
ふとベルネルは、通りの向こうを見る。
人々が歩いている。
笑っている。
買い物をしている。
その中に、なぜかぽっかり空いた場所がある気がした。
誰かがいたはずなのに。
誰だったかは分からない。
けれど、妙な空白だけが残っている。
ベルネルは眉をひそめる。
その時、
腰の剣が、微かに熱を帯びた。
黒角から生まれた剣。
赤い筋が、鞘の内側で小さく脈打っている。
まるで、“何か”へ反応しているみたいに。
ベルネルは足を止めた。
周囲はいつも通り騒がしい。
市場の呼び声。
荷車の軋む音。
笑い声。
なのに、剣だけが微かに熱を持っている。
「……ベルネル?」
ミナが不思議そうに顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
ベルネルは慌てて首を振った。
気のせいだ。
そう思おうとする。
だが剣の熱は消えない。
鞘の奥で、小さな鼓動みたいな感覚が続いている。
ラウルが静かに周囲を見る。
「何かあるのか」
副隊長の声で、ガウルたちも表情を引き締めた。
ベルネルは迷う。
説明できない。
けれど、この剣は黒角の洞窟からずっと、妙な反応を見せていた。
「……分かりません。でも」
ベルネルは通りの奥を見る。
人混みの向こう。
細い路地。
そこだけ、妙に暗く見えた。
昼間なのに。光が沈んでいるみたいな感覚。
スカーが壁から身体を起こす。
「行くのか」
ベルネルは頷く。
「少し見てきます」
ガウルが肩を回した。
「なら俺も行くか」
「騒ぎにするな」
ラウルが低く言う。
「まず確認だ」
四人は人混みを抜け、路地へ向かった。
ミナが不安そうに背中を見る。
「……なんか、嫌な感じするんだけど」
誰も返事をしない。
路地へ入った瞬間、空気が変わった。
冷たい。
市場の喧騒も、急に遠くなる。
ベルネルは無意識に剣へ触れた。
熱が強くなっている。
ドクン
小さく脈打つ。
まるで、何かを見つけたみたいに。
路地の奥には、小さな家があった。
扉が半開きになっている。
人気はない。
だが、生活の気配だけが残っていた。
干しかけの洗濯物。
冷めた鍋。
椅子。
誰かが、ほんの少し前までここにいた。
ガウルが眉をひそめる。
「……留守か?」
ラウルは床を見る。
埃は少ない。
争った跡もない。
「違うな」
副隊長は静かに言った。
「“いなくなった”」
その言葉に、ベルネルの背筋が冷える。
部屋の奥、壁際に小さなランタンが置かれていた。
火は消えている。
冷たい。
その瞬間。
ベルネルの剣が、
強く熱を帯びた。
同時に、家の奥から微かな声が聞こえた気がした。
――さむい
ベルネルは顔を上げる。
今のは子供の声だった。
「……聞こえたか」
ベルネルが低く言う。
ガウルが眉をひそめた。
「何がだ?」
ラウルとスカーも反応していない。
ベルネルだけだった。
剣の熱が強い。
鞘越しでも分かるほど、脈打っている。
――さむい
また聞こえた。
奥だ。
ベルネルは反射的に、家のさらに奥へ足を踏み入れる。
「おい、ベルネル」
ラウルの声。
だがベルネルは止まれなかった。
廊下は暗い。
窓があるのに、光が届いていない。
空気が冷たい。
嫌な静けさだった。
誰もいない家のはずなのに、何かの気配だけが残っている。
ベルネルは剣の柄を握る。
熱い。
まるで、こちらを導いているみたいだった。
廊下の突き当たり。
小さな部屋。
扉が半開きになっている。
そこから、微かな冷気が流れていた。
ベルネルはゆっくり扉へ手をかける。
きぃ、と木が鳴った。
中は子供部屋だった。
小さなベッド。
木彫りのおもちゃ。
壁へ描かれた落書き。
誰かが、ここで暮らしていた痕跡。
けれど、部屋の中央だけ妙に暗い。
影が溜まっている。
昼間なのに、そこだけ夜が沈殿しているみたいだった。
ベルネルの剣が熱を増す。
赤い筋が、鞘の内側で脈打っていた。
その時、影が揺れた。
ベルネルは息を呑む。
暗がりの中で、小さな人影が見えた気がした。
子供
膝を抱えて座っている。
顔は見えない。
ただ
「……さむい」
確かに声がした。
ベルネルは一歩踏み出す。
「君、そこにいるのか」
影がゆっくり顔を上げる。
暗くて見えない。
だが、その輪郭だけが、少しずつ崩れていた。
霧みたいに。
煙みたいに。
消えかけている。
ベルネルの背筋が冷える。
これが、“夜”なのか。
その瞬間。
腰の剣が、
強く脈打った。
ドクン
赤い光が、鞘の隙間から漏れる。
同時に。部屋の影がざわりと蠢いた。
影が広がる。
床を這い、
壁を登り、
部屋の光を喰っていく。
空気が冷たい。
吐く息が白くなった。
ベルネルは剣へ手をかける。
背後で、ラウルたちが部屋へ飛び込んできた。
「ベルネル!」
ガウルが叫ぶ。
だが次の瞬間、全員の動きが止まった。
部屋の中央。
小さな影が、ゆっくり立ち上がる。
子供の形をしていた。
けれど輪郭が曖昧だ。
黒い霧みたいに揺れている。
スカーが眉をひそめる。
「……なんだ、これ」
影は答えない。
ただ寒そうに、身体を抱いている。
「……くらい」
声だけが、静かに響いた。
ベルネルは一歩前へ出る。
怖くない、と言えば嘘になる。
だが、これは敵じゃない。
そんな気がした。
「大丈夫だ」
ベルネルは静かに言う。
「今、灯りをつける」
その瞬間、影がびくりと震えた。
部屋の闇が、一斉にベルネルへ伸びる。
黒い腕みたいに。
「ベルネル!!」
ラウルの声
ベルネルは反射的に剣を抜く。
赤い光。
漆黒の剣が、暗い部屋を照らした。
同時に、闇が悲鳴を上げた。
音ではない。
頭の奥を引っ掻くような不快な叫び。
ガウルが顔をしかめる。
「うおっ……!?」
スカーも目を細めた。
「……光ってる」
ベルネルの剣から、赤い筋に沿って火みたいな光が流れている。
影が後退する。
怯えている。
ベルネルは直感する。
火だ。
リシェルの言っていた、“灯火”。
この剣は、夜を遠ざける。
ベルネルは剣を構えたまま、影へ近づく。
「大丈夫だ」
「もう寒くない」
子供の影が揺れる。
崩れかけた顔が、わずかにベルネルを見る。
その時だった。
ぱちり
小さな音。
部屋の隅に置かれていたランタンへ、火が灯った。
誰も触れていない。
橙色の小さな火。
暖かな光が、暗い部屋を照らす。
すると、子供の影が少しだけ輪郭を取り戻した。
小さな男の子だった。
怯えた顔。
泣きそうな目。
ベルネルは息を呑む。
男の子は、ランタンの灯りを見つめる。
そして、ほっとしたみたいに、小さく笑った。
男の子の姿が、少しだけ鮮明になる。
霧みたいだった輪郭へ、ゆっくり色が戻っていく。
頬
髪
小さな手。
まだ半透明ではある。
けれど、さっきまでの“影”ではなかった。
ガウルが目を丸くする。
「戻った……?」
ラウルは静かにランタンを見る。
橙色の火。
小さい。
だが確かに、部屋の闇を押し返していた。
スカーが低く呟く。
「火を怖がってるのか」
ベルネルは男の子へ近づく。
「君、名前は?」
男の子はぼんやり瞬きをする。
まるで、長い夢から起きたばかりみたいだった。
「……トーマ」
掠れた声。
ベルネルは胸を撫で下ろす。
生きている。
ちゃんと存在している。
だが、トーマの身体は、まだ時折揺らいでいた。
灯りが弱くなるたび、輪郭が薄くなる。
ラウルが周囲を見回す。
「家族は」
その時、外から悲鳴が聞こえた。
「トーマ!?」
女性の声。
次の瞬間、ひとりの女が部屋へ駆け込んできた。
痩せた顔。
疲れた目。
けれど男の子を見た瞬間、その表情が崩れる。
「トーマ……!」
女は男の子を抱きしめた。
泣き声。
トーマも小さく母親へしがみつく。
ガウルが小さく息を吐いた。
スカーは無言で壁へもたれる。
ラウルだけが、静かに母親へ尋ねる。
「いつからです」
女は涙を拭いながら答えた。
「……最近、姿が薄くなって」
「最初は疲れてるだけだと思って……」
「でも、だんだん声も小さくなって……」
彼女は震えていた。
「今日、急に見えなくなったんです」
ベルネルは拳を握る。
リシェルの言葉通りだった。
夜は、少しずつ人を消していく。
誰にも気づかれないまま。
ラウルがランタンを見る。
「この火で戻ったのか」
ベルネルは頷く。
「たぶん……」
その時、腰の剣が静かに熱を失っていく。
役目を終えたみたいに。
ベルネルは剣を見る。
赤い筋は、もう穏やかだった。
窓の外では、夕暮れが始まっている。
街が少しずつ暗くなる。
その光景を見た瞬間。
ベルネルの脳裏へ、リシェルの声が蘇った。
『火を絶やさないで』
彼はゆっくり、小さなランタンを見る。
この程度の灯りですら、夜を退けられる。
なら、もし、街全体を照らせる火があれば――。
トーマを救った翌日。
ベルネルたちは、街の各所へ灯りを置き始める。
ランタン
焚き火
見張り塔の篝火。
夜を遠ざけるために。
だが、効果は弱かった。
数日は持つ。
けれど、夜はまた戻ってくる。
人々の姿は再び薄くなる。
ベルネルは剣を抜き、火を灯そうとする。
黒い刀身
赤い筋
あの時みたいに、光れば――。
だが、何も起きない。
剣は沈黙したままだ。
「……なんでだ」
ベルネルが呟く。
ラウルが静かに言う。
「条件があるのかもしれん」
スカーは腕を組む。
「気まぐれな剣だな」
ガウルは焚き火へ薪を投げ込む。
だが火は弱い。
夜が近づくほど、炎が小さくなる。
街の空気が、少しずつ暗くなっていく。
そしてベルネルは、再び森へ向かう。
湖
小屋
暖炉の火
リシェルは、最初から来ることを分かっていたみたいに、静かにそこにいる。
ベルネルは言う。
「人が消えてる」
「火だけじゃ足りない」
「この剣も、思ったようには使えない」
リシェルは静かにベルネルを見る。
責めない。
慰めない。
ただ事実を確認するように。
そして小さく言う。
「当たり前」
ベルネルが眉をひそめる。
リシェルは暖炉の火を見る。
「その剣は、火を生むものじゃない」
「夜を斬るためのもの」
ぱちり、と薪が爆ぜる。
「灯火は、人が灯す」
静かな声だった。
ベルネルは何も言えない。
リシェルは続ける。
「昔、夜が今より濃かった頃。人は、“古い火”を守ってた」
「特別な火?」
ベルネルが問う。
リシェルは頷く。
「消えない火」
「夜へ喰われない火」
暖炉の炎が、彼女の瞳へ映る。
「でも、もうほとんど残ってない」
「探して」
ベルネルは聞く。
「どこにあるんです」
リシェルは少し黙る。
まるで、遠い記憶を辿るみたいに。
やがて、
「北の廃教会」
「まだ火が残ってるなら、たぶんそこ」
ベルネルは頷く。
リシェルはそこで言葉を切る。




