魔法
木々の奥に、小さな橙色の光が見えた。
湖
小屋
暖炉の灯り
森の中で、そこだけが静かに夜を押し返している。
ベルネルは無意識に、少しだけ息を吐いた。
帰ってきた。そんな感覚が、胸の奥に生まれていた。
湖は静かだった。
水面には月が映り、風が吹くたび、銀色の光が揺れる。
森は暗い。
けれど小屋の周囲だけは、暖炉の灯りが柔らかな色を落としていた。
ベルネルは歩みを緩める。
戦いの熱が抜け始めた途端、全身の痛みが一気に押し寄せてきた。
腕が重い。
鎧の内側が熱い。
黒角の爪が掠めた脇腹も、鈍く疼いている。
それでも、小屋の灯りを見ると、妙に肩の力が抜けた。
後ろで隊員の一人が小さく呟く。
「……本当にあったんだな」
誰も返事をしない。
森の魔女。
童話みたいな存在。
だが今、その灯りだけが現実だった。
ヴァンデルが前へ出る。
小屋の扉へ近づいた瞬間。
ひとりでに扉が開いた。
暖かな空気が流れてくる。
薬草の香り。
木の燃える匂い。
そして、リシェルが立っていた。
相変わらず静かな表情。
感情は読めない。
だが彼女の視線は、真っ先にベルネルへ向いた。
ほんの一瞬だけ。
その瞳が、微かに揺れる。
けれど次の瞬間には、もういつもの静けさへ戻っていた。
「……生きてた」
小さな声。
安堵にも聞こえる。
確認しているだけにも聞こえる。
ベルネルは苦笑した。
「なんとか」
リシェルの視線が、ベルネルの鎧へ落ちる。
裂けた脇腹
黒い血
泥
そして、ベルネルが抱えている、
漆黒の角。
暖炉の火が、
ぱちりと揺れた。
リシェルはしばらく角を見つめる。
その横顔からは、何も読み取れない。
やがて静かに言った。
「……入って」
隊員たちは顔を見合わせる。
だがヴァンデルが無言で頷き、先に小屋へ入った。
ベルネルも続く。
暖かい。
洞窟の冷気に晒されていた身体へ、暖炉の熱がじわりと染み込む。
扉が閉まる。
外の夜が遠ざかった。
リシェルはベルネルの前へ歩み寄る。
近い。
森の匂いがする。
彼女は何も言わず、そっと黒角の角へ触れた。
その瞬間。角の赤い筋が、ぼうっと光る。
まるで、彼女へ反応しているみたいに。
隊員たちが息を呑む。
リシェルは静かに目を細めた。
「……やっぱり」
誰へ向けた言葉でもなく、小さく呟く。
ベルネルが聞き返そうとした時だった。
リシェルの指先から、淡い火が灯る。
暖かな橙色。
その火は、黒角の角をゆっくり包み込んでいった。
炎は静かだった。
燃えているのに、熱くない。
橙色の光が、黒角の角を包み込んでいる。
隊員たちは息を呑んだまま、その光景を見つめていた。
誰も喋れない。
世界で唯一の魔法。
王国の人間にとって、それは伝承の中にしか存在しないものだった。
リシェルは目を閉じ、角へ触れたまま動かない。
暖炉の火が揺れる。
吊るされたランタンが、かすかに鳴った。
やがて、黒角の角が、低く脈動し始める。
ドクン
ドクン
心臓みたいな音。
それに呼応するように、暖炉の炎が大きくなる。
隊員の一人が、思わず後ずさった。
「お、おい……」
角が変形していく。
黒い表面が、ゆっくり溶けるように崩れ始めた。
だが床へ落ちない。
液体みたいになりながら、空中で形を変えていく。
長く
細く
鋭く
ベルネルは目を見開く。
剣だ。
漆黒の塊が、一本の剣へ変わっていく。
柄
鍔
細身の刀身。
そして中心には、赤い筋が一本、静かに通っている。
まるで、刃の中に火が流れているみたいだった。
最後に。ぱちり、と小さく火花が散る。
浮かんでいた剣が、ゆっくりベルネルの前へ落ちた。
重い音
静寂
誰も動かない。
リシェルだけが、その剣を見つめていた。
「……完成」
小さな声。
ベルネルは恐る恐る、剣へ手を伸ばす。
触れた瞬間。熱が走った。
だが痛みじゃない。
冷え切った身体へ、火が灯るような感覚。
脈打っていた。
剣の内側で、何かが生きている。
ベルネルはゆっくり剣を持ち上げる。
軽い。信じられないほど手に馴染む。
まるで、最初から自分のために作られていたみたいに。
その時、リシェルが静かに口を開く。
「その剣なら、夜に触れられる」
部屋が静まる。
ヴァンデルが眉をひそめた。
「……夜、だと」
リシェルは暖炉の火を見る。
橙色の炎が、彼女の横顔を照らしている。
「最近、魔物が増えてる理由」
「人が消える理由」
「火が弱くなってる理由」
彼女は静かに続けた。
「夜が、近づいてる」
隊員たちが息を呑む。
ベルネルは剣を握る。
刀身の赤い筋が、微かに脈打っていた。
リシェルはそんな剣を見つめながら、小さく呟く。
「……来ると思ってた」
誰にも聞こえないほど、
静かな声だった。




