夜の獣
刃が黒角の角へ叩き込まれる。
甲高い音が、洞窟へ響いた。
硬い。
岩を斬ったみたいな感触だった。
ベルネルの腕へ、凄まじい衝撃が返る。
だが
黒角の動きが止まった。
わずかに。ほんの一瞬。
それで十分だった。
「ベルネル!!」
ヴァンデルが踏み込む。
隊長の大剣が、黒角の首筋へ深く食い込んだ。
黒い液体が噴き出す。
獣が絶叫した。
洞窟全体が揺れる。
鼓膜が痺れるほどの咆哮。
隊員の一人が耳を押さえて膝をついた。
その瞬間、黒角の周囲で、闇が膨らんだ。
床を這う影が、生き物みたいに蠢く。
消えたはずの松明へ、青白い火がぼうっと灯った。
その光の中で、ベルネルは見た。
黒角の身体から、黒い霧みたいなものが溢れている。
違う。
霧じゃない。
夜だ。
理屈ではなく、そう理解した。
黒角は吠える。
苦しむように。
怒るように。
あるいは、何かを拒むように。
ヴァンデルが叫ぶ。
「押し切れ!!」
騎士たちが吶喊する。
盾がぶつかる。
槍が刺さる。
剣が振り下ろされる。
洞窟はもはや戦場だった。
泥と血と闇が混ざり合い、誰も止まらない。
ベルネルは息を荒げながら、再び黒角を見る。
赤い眼。その奥に、奇妙なものが見えた気がした。
恐怖
いや、哀れみだった。
一瞬だけ。
まるで、この獣自身も、夜に喰われているみたいな。
次の瞬間、黒角がベルネルへ突進した。
真正面。
避ける時間はない。
ベルネルは歯を食いしばる。
剣を握る。
逃げない。
騎士として、真正面から受ける。
「――来い!!」
黒角が飛び込む。
ベルネルは踏み込んだ。
世界がぶつかるみたいな衝撃。
爪が鎧を裂く。
熱い痛み。
それでもベルネルは止まらない。
叫びながら、全力で剣を振り抜く。
刃が、黒角の角へ叩き込まれた。
ひびが入る。
黒角の赤い眼が、大きく見開かれた。
そして
砕けた。
黒い角が、激しい音と共に折れ飛ぶ。
その瞬間、洞窟の奥から、何かが泣くような声が響いた。
黒角が絶叫する。
洞窟が揺れた。
天井から岩片が降り注ぐ。
隊員たちが咄嗟に身を伏せる。
だが黒角は止まらない。
折れた角から、黒い霧が噴き出している。
いや、噴き出しているのは、
闇そのものだった。
空気が冷える。
松明の青白い火が、激しく揺らいだ。
ベルネルは剣を握ったまま、黒角を見上げる。
獣が苦しんでいる。
怒りではない。
痛みだけでもない。
何かに引き裂かれているような、そんな叫びだった。
そして
洞窟の奥から、再びあの声が響く。
泣き声。
低く、遠く、耳ではなく骨へ響くような音。
隊員の一人が震えた声を漏らす。
「……まだ、 いるのか……?」
ベルネルも奥を見る。
暗闇
だがその奥で、何かが蠢いた気がした。
巨大な影。
洞窟よりなお深い闇。
一瞬だけ、赤い光が幾つも灯る。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
黒角だけじゃない。
この洞窟の奥には、もっと別の何かがいる。
ヴァンデルもそれを見たのだろう。
隊長の顔色が変わる。
「……終わらせるぞ!!」
怒号が響く。
黒角が再びベルネルを見る。
その赤い眼は、もう獣のものではなかった。
助けを求めているように見えた。
ベルネルは息を呑む。
その瞬間。黒角が飛び込んでくる。
速い
だが今度は見えた。
ベルネルは踏み込む。
低く。黒角の懐へ潜り込む。
すれ違いざま、剣を振り上げる。
狙うのは首。
鋼が肉を裂く。
深い感触。
黒い血が噴き出した。
黒角の巨体がよろめく。
ヴァンデルが吼える。
「ベルネル!!」
呼応するように、隊長の大剣が振り下ろされる。
轟音
黒角の身体が、地面へ叩きつけられた。
骨の山が崩れる。
獣が痙攣する。
赤い眼が、ゆっくりベルネルを見る。
その瞳から、黒い光が消えていく。
最後に、本当に一瞬だけ。
黒角の眼が、穏やかになった気がした。
そして、巨体が崩れる。
洞窟へ、重い沈黙が落ちた。
誰も動かない。
荒い呼吸だけが響いている。
やがて
ぽたり
黒角の折れた角が、ベルネルの足元へ転がった。
漆黒の角。
なのにその内側では、
赤い光が、心臓みたいに静かに脈打っていた。
誰もすぐには動けなかった。
黒角の亡骸は、洞窟の中央で静かに横たわっている。
あれほど暴れていた巨体が、今はただの骸になっていた。
だが、空気はまだ重い。洞窟の奥から流れてくる冷気が、肌へまとわりついて離れない。
ベルネルは荒い息を整えながら、足元の角を見る。
漆黒
表面には、血管みたいな赤い筋が浮かんでいる。
生きているみたいだった。
ベルネルが手を伸ばす。
触れた瞬間。
ドクン
鼓動
角の内側で、何かが脈打った。
ベルネルは反射的に顔を上げる。
暗闇。
洞窟の奥。
そのさらに奥で。
何か巨大なものが、ゆっくり蠢いた気がした。
ぞわり、と寒気が走る。
見てはいけない。
本能が叫んでいた。
だが目を逸らせない。
暗闇の奥に、赤い光が浮かぶ。
一つ
二つ
三つ
いや、数え切れない。
ヴァンデルが低く呟く。
「……撤退だ」
その声には、今まで聞いたことのない緊張が混じっていた。
隊員たちも黙って頷く。
誰も異論を言わない。
戦えば勝てる、そんな相手じゃないと理解していた。
洞窟の奥から、再び泣き声みたいな音が響く。
低い
深い
夜そのものが、呼吸しているみたいだった。
ベルネルは視線を切る。
これ以上見れば、戻れなくなる。そんな感覚があった。
彼は黒角の角を拾い上げる。
熱い。
金属でも骨でもない。
まるで、生きた肉の塊を掴んでいるみたいだった。
「ベルネル!」
ヴァンデルの声。
ベルネルは我に返る。
「戻るぞ!!」
その瞬間。
洞窟の奥で、何かが動いた。
地鳴り。
暗闇そのものが、こちらへ迫ってくるような圧力。
「走れ!!」
騎士たちが一斉に駆け出す。
鎧が鳴る。
息が乱れる。
背後で、巨大な何かが岩壁を擦る音が響いていた。
ベルネルは振り返らない。
振り返れば終わる。
そう直感していた。
ただ、黒角の角だけを握り締め、
暗い洞窟を走る。
その角は、まるで心臓みたいに、静かに脈打ち続けていた。
洞窟を抜けた瞬間、冷たい夜風がベルネルの頬を打った。
全員が荒い息を吐く。
誰もすぐには喋れなかった。
背後には、ぽっかりと口を開けた洞窟。
中は真っ暗だった。
松明の光も、月明かりも、奥へは届かない。
まるで、世界に空いた穴みたいだった。
ヴァンデルがしばらく洞窟を睨み、やがて低く言う。
「……帰るぞ」
隊員たちは無言で頷く。
いつもの勝利後とは違う。
歓声も、軽口もない。
生きて戻れた。その事実だけで、全員の神経が張り詰めていた。
ベルネルは手の中の角を見る。
黒い。だが内側では、赤い光が静かに脈打っている。
まるで、まだ生きているみたいに。
一行は森を進む。
夜の森は静かだった。
空には月
白い霧
遠くで梟が鳴く。
けれどベルネルには、ずっと背後から見られている感覚が消えなかった。
手の中の角が、微かに脈打つたび、洞窟の暗闇が脳裏をよぎる。
赤い眼
泣き声
あの、底の見えない夜。




