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森の魔女の灯火  作者: lled
喪失の夜
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2/11

迷いの森

ベルネルたちは、王国西方、迷いの森の入口へ立っていた。


森は静かだった。


風は吹いている。


木々も揺れている。


それなのに、音だけが妙に遠い。


まるで森そのものが、外の世界を拒んでいるようだった。


大鷲隊の騎士たちは、森の入口を前に足を止めている。

誰も軽口を叩かない。

普段なら騒がしい隊員たちでさえ、今日は無言だった。


ベルネルは森を見上げる。


高い木々。


枝葉は空を覆い、昼だというのに奥は暗い。

白い霧が、地面を這うように漂っていた。


「……本当に、ここにいるんですか」


ベルネルが尋ねる。

前方で馬を降りていたヴァンデルは、

短く答えた。


「ああ」


「会ったことが?」


しばし沈黙。


ヴァンデルは森を見たまま低く言う。


「一度だけな」


それ以上は語らない。

だがその横顔は、ベルネルが見たことのないほど険しかった。


やがて隊長は剣帯を確かめ、森へ視線を向ける。


「ここから先は徒歩だ」


隊員たちが馬を繋ぎ始める。

鎧の音。

革紐の軋む音。

その全てが、森の前ではやけに小さく感じた。


ベルネルも馬を撫で、深く息を吐く。


その時だった。


ふいに、幼い頃の記憶が脳裏をよぎる。

暖炉の火。

柔らかな橙色。

母親の声。


『森の魔女は、凍えた子供へ火を分けてあげました』


『でも人々は、魔女を怖がったのです』


ベルネルは小さく目を伏せる。


子供の頃、あの話が好きだった。

皆は怖い話だと言っていたが、ベルネルにはそう思えなかった。

火を分ける魔女。

寒い夜に誰かを助ける存在。

それのどこが恐ろしいのか、幼い彼には分からなかった。


「ベルネル」


ヴァンデルの声で意識が戻る。

隊長は既に森の入口へ立っていた。


「行くぞ。はぐれるな」


ベルネルは頷く。


そして、迷いの森へ足を踏み入れた。


瞬間。


空気が変わる。

ひやりとした冷気が、肌へまとわりつく。

森の中は薄暗かった。

木々が密集し、空が見えない。

湿った土の匂い。

腐葉土、

古い水、

そして、どこか微かに甘い匂いが混ざっている。


ベルネルは眉をひそめた。


甘い。

花ではない。

もっと生温い何か。

嫌な匂いだった。


後方で、隊員の一人が呟く。


「……なんか、息苦しくねぇか」


誰も返事をしない。

森が静かすぎた。

鳥の声がない。

虫も鳴かない。

ただ、木々が軋む音だけが、遠くで時折響いている。

ベルネルは無意識に、剣の柄へ触れる。


その時、視界の端で白いものが動いた。

反射的に振り向く。

木々

誰もいない。

だが確かに

今、誰かが立っていた気がした。


ベルネルはしばらく、その場所を見つめていた。

白い霧が、木々の間をゆっくり流れていく。

誰もいない。

だが妙な感覚だけが残った。


視線。

森の奥から何かに見られている。


「どうした」


前を歩くヴァンデルが振り返る。


「……いえ」


ベルネルは首を振った。

気のせいだ。

そう思おうとした。


だが胸の奥に、小さな棘みたいな違和感が引っかかっている。

一行は再び歩き出した。

森に入って、どれくらい経ったのか分からない。

太陽が見えないせいで、時間の感覚が狂う。


霧は少しずつ濃くなっていた。

隊列の後方がぼやけ始める。

鎧の音だけが、白い靄の向こうから聞こえてくる。


その時


「……あれ?」


後ろで、誰かが立ち止まった。

若い隊員だった。

不安そうな顔で、周囲を見回している。


「どうした」


「いや……今、誰か通らなかったか?」


「誰も通ってねぇよ」


別の隊員が苛立ったように返す。


だが若い騎士は、納得していなかった。


「女だよ。白い服の……」


そこまで言って口を閉ざす。


森が静かだった。

あまりにも静かすぎて、その会話だけが妙に浮いて聞こえる。


ヴァンデルが低く言った。


「見るな」


全員が隊長を見る。


ヴァンデルは森の奥を睨んだまま、続けた。


「何が見えても、追うな」


その声は硬かった。

警告というより、命令に近い。

隊員たちの顔から、わずかに血の気が引く。


ベルネルは森を見る。

白い霧。

暗い木々。

静寂。

本当に何かいるのか。

そう思った瞬間だった。


ざわり


森が揺れた。


風ではない。

木々が、何かを避けるようにざわめいた。


そして、


鈴の音みたいな声が、霧の奥から響く。


「……ベルネル」


息が止まる。


確かに聞こえた。


自分の名前だ。


ベルネルは反射的に周囲を見る。

隊員たちも顔を上げている。

聞こえたのは、自分だけじゃない。


「今の……」


誰かが呟く。


その時、霧がゆっくり割れた。

森の奥へ続く道が、まるで最初からそこにあったみたいに、静かに現れる。

誰も動けなかった。


ただヴァンデルだけが、険しい顔でその道を見つめている。

そして小さく、舌打ちした。


「……選ばれたか」


「選ばれた……?」


ベルネルが聞き返す。


だがヴァンデルは答えない。


隊長はしばらく無言で道を睨み、やがて深く息を吐いた。


「ベルネル」


低い声。


「お前だけで行け」


空気が止まった。


「は?」


思わず声が漏れる。

後ろの隊員たちもざわついた。


「隊長、正気ですか」


「こんなの罠でしょうが」


ヴァンデルは振り返らない。

視線はずっと、霧の奥へ続く細道へ向けられている。


「森が通した」


短い言葉だった。

だがその声には、妙な確信があった。


「逆らえば、森に呑まれる」


誰も反論できない。


この森へ入ってから、全員が感じていた。

ここは普通じゃない。


道も


空気も


音も


全部が、人間の理屈から外れている。

ヴァンデルがベルネルを見る。


「行け」


ベルネルは迷う。


隊を離れるなど、本来ならあり得ない。

しかも相手は、正体不明の魔女。


だが、


霧の奥から、視線を感じる。

冷たいわけではない。

むしろ、静かに待たれている感覚だった。


ベルネルは無意識に、喉を鳴らす。


「……分かりました」


剣帯を確かめる。


隊員の一人が舌打ちした。


「おい、戻って来いよ」


「死ぬなよ新人」


無理に軽口を叩いている。


だがその顔は、誰も笑っていなかった。

ベルネルは頷き、霧の道へ足を踏み入れる。


その瞬間


後ろの気配が遠くなった。

鎧の音。

隊員たちの息遣い。

森のざわめき。

全部が、霧の向こうへ沈んでいく。


静かだった。


自分の足音だけが響く。

道は細い。

白い霧が足元を流れている。

木々はさらに高くなり、空が完全に見えない。

どれだけ歩いたのか分からない。

時間の感覚が曖昧になる。


やがて、霧の奥に小さな光が見えた。


橙色


火だ。


ベルネルは歩みを緩める。

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