プロローグ
洞窟へ入った瞬間、温度が変わった。
冷たい。
冬の森よりなお冷たい空気が、
鎧の隙間からゆっくりと染み込んでくる。
ベルネルは思わず息を吐いた。
白くならない。
だが確かに寒かった。
湿った岩肌を、
松明の火が照らす。
壁面は濡れていた。
ぽたり
ぽたりと、天井から雫が落ちている。
だが水音は妙に鈍い。
泥へ落ちるような、粘ついた音だった。
ベルネルは眉をひそめる。
岩壁を伝う液体は、
ただの地下水には見えなかった。
黒い。
わずかに粘り気を帯び、光を鈍く反射している。
まるで洞窟そのものが、汗をかいているみたいだった。
「……なんだよ、これ」
後ろの隊員が吐き捨てる。
誰も答えない。
空気が重かった。
ただ湿っているだけではない。
肺の奥へ、ゆっくり泥を流し込まれるような圧迫感がある。
鎧が重い。
足音が妙に遠く聞こえる。
それに気づいた瞬間、ベルネルは立ち止まりそうになった。
音がおかしい。
隊員たちの足音が、半拍遅れて響いている。
まるで誰かが、少し後ろから真似して歩いているみたいに。
ベルネルは振り返る。
暗闇しかない。
だが、松明の火が揺れた瞬間。
通路の奥で、何か黒いものが動いた気がした。
「……っ」
剣へ手をかける。
だが次に見た時には、何もいない。
静寂
いや、違う。
奥から音が聞こえる。
ドクン
ドクン
低い鼓動。
洞窟全体が、呼吸しているようだった。
ベルネルは無意識に喉を鳴らす。
生き物の腹の中だ。
そんな考えが、頭へ浮かんだ。
ドクン
洞窟が脈打つ。
そんな錯覚と共に、足元の地面がわずかに震えた。
先頭を歩くヴァンデルが、片手を上げる。
隊列が止まった。
松明の火だけが揺れている。
誰も喋らない。
鎧の軋む音すら、この場所では妙に大きく聞こえた。
ベルネルは周囲へ視線を巡らせる。
通路は広い。
だが妙だった。
奥へ進むほど、岩壁の形が自然ではなくなっている。
削れたような跡。
いや、抉られた跡だ。
巨大な爪で、岩そのものを引き裂いたような傷。
それが壁にも、
床にも、
天井にも残っている。
「……隊長」
ベルネルが低く呼ぶ。
ヴァンデルは振り返らないまま答えた。
「分かってる」
短い返事。
だがその声は、普段よりわずかに硬い。
歴戦の騎士である彼ですら、この洞窟を警戒している。
その事実が、ベルネルの背筋を冷たくした。
再び進む。
奥へ。
さらに奥へ。
やがて通路が開けた。
巨大な空洞。
天井は高く、松明の光が届かない。
暗闇が頭上で蠢いているみたいだった。
そして、
臭いが変わる。
血
腐敗
獣臭
それらが混ざり合った、生暖かい臭気。
隊員の一人が口元を押さえる。
「う……」
ベルネルも顔をしかめた。
空気が濃い。
臭いだけではない。
何かがいる。
空洞の中央。
そこだけ闇が異様に深い。
松明の火が、そこを避けるように揺れていた。
ドクン
また鼓動。
今度は近い。
洞窟の奥ではない。
この空間そのものから響いている。
その瞬間だった。
ぱきり
乾いた音。
ベルネルの足元で、何かが砕けた。
視線を落とす。
骨だった。
人間のものではない。
鹿
狼
何か巨大な獣。
無数の白骨が、床一面へ散らばっている。
そのさらに奥。
積み重なった骨の山の上に、
“それ”はいた。
最初岩だと思った。
黒い塊。
だが違う。
ゆっくりと呼吸している。
長すぎる四肢。
闇へ溶け込む漆黒の毛並み。
頭部から伸びる、二本の巨大な黒角。
そして、
暗闇よりなお暗い、二つの眼。
それが、松明の光の中で静かに開いた。
隊員の誰かが息を呑む。
黒角は動かない。
ただ見ている。
まるで、最初からここで待っていたかのように。
黒角の眼が松明の火を映す。
その瞬間、ベルネルは妙な感覚に襲われた。
目が合った。
そう思った途端。
胸の奥へ、冷たい泥を流し込まれたような感覚が走る。
呼吸が止まりかける。
視界が暗く揺れた。
――帰れ。
声が聞こえた気がした。
耳ではない。
頭の奥へ直接染み込んでくるような声。
――火を消せ。
ベルネルは歯を食いしばる。
違う。
声ではない。
これは
“夜”だ。
説明できない確信があった。
「ベルネル!」
ヴァンデルの怒声で意識が戻る。
気づけば、黒角が立ち上がっていた。
巨大だった。
骨の山が崩れ落ちる。
四肢が地面へ触れるたび、洞窟が震える。
黒い毛並みの隙間で、赤い筋のようなものが脈打っていた。
まるで体内に、熾火が埋まっているみたいだった。
隊員の一人が震えた声を漏らす。
「なんだよ……これ……」
黒角が低く唸る。
音というより圧力だった。
空気が揺れる。
松明の火が一斉に細くなる。
暗闇が広がる。
そして次の瞬間。
黒角が消えた。
「――ッ!!」
ベルネルは反射的に横へ飛ぶ。
轟音
さっきまで立っていた場所が、岩ごと抉り飛ばされる。
破片が鎧へ叩きつけられた。
速い。
巨体とは思えない。
「散開!!」
ヴァンデルが叫ぶ。
隊員たちが左右へ散る。
その直後、黒角の尾が横薙ぎに振るわれた。
鈍い音。
一人の騎士が、盾ごと吹き飛ばされる。
岩壁へ激突。
鎧が砕ける音が響いた。
「ガレス!!」
別の隊員が叫ぶ。
だが黒角は止まらない。
闇の中を滑るように動き、次の獲物へ迫る。
ベルネルは剣を抜いた。
王国支給の制式剣。
見慣れた鋼の感触。
だが今、その剣が妙に頼りなく見えた。
黒角の周囲だけ空気が違う。
火が届かない。
光が沈む。
まるで、世界そのものが歪んでいるみたいだった。
ヴァンデルが斬りかかる。
鋭い一撃。
黒角の肩へ深く食い込む。
だが、
「浅い……!」
傷口から黒い液体が溢れる。
血ではない。粘ついた闇みたいなもの。
それが地面へ落ちるたび、じゅう、と音を立てて岩を腐らせた。
黒角が咆哮する。
洞窟全体が震えた。
そして、
松明が、
一斉に消えた。
闇
完全な暗闇。
誰かが息を呑む音。
鎧の擦れる音。
そして、
すぐ近くで獣の呼吸が聞こえた。
熱い
腐臭混じりの吐息が、ベルネルの頬を撫でる。
剣を握る手へ汗が滲む。
見えない
だがいる
すぐ目の前に。
黒角の低い唸り声が、闇の中で響いた。
その瞬間、
赤い光が、暗闇の奥でゆっくり揺れた。
獣の眼だ。
ベルネルは反射的に剣を構える。
だが身体が動かない。
本能が理解していた。
この怪物は、今まで戦ってきた獣とは違う。
もっと別の何かだ。
闇が揺れる。
黒角が動く。
――来る。
ベルネルが息を止めた
その時
「下がれッ!!」
轟音と共に眩い火花が散った。
ヴァンデルの剣が、黒角の爪を弾き返す。
衝撃で空気が震える。
「走れベルネル!!」
隊長の怒声。
ベルネルは我に返った。
洞窟の奥で再び赤い眼が光る。
一つじゃない。
二つ
いや
もっと奥にも何かがいる。
ベルネルの背筋を、冷たいものが走った。
黒角だけじゃない。この洞窟そのものが、夜に侵されている。
咆哮
闇が揺れる。
そして――。




