浸食
夜になった。
長かった夕暮れが、ようやく沈む。
街はさらに静かになった。
まるで、皆が同じ夢を見る時間を、待っていたみたいに。
宿の食堂には、ベルネルたちしかいなかった。
ランプの火が小さく揺れている。
店主は椅子に座ったまま眠っていた。
起こしても、半分夢の中だ。
「不気味な街だな」
ハルトがパンを齧りながら呟く。
「静かすぎる」
ガウルが酒を飲む。
「俺は嫌いじゃねえ。酔っ払いが絡んでこねえからな」
少しだけ空気が緩む。
ノイルも、ようやく小さく笑った。
でも、その笑顔はまだ硬い。
夜、深い黒。
でも、どこか柔らかい。
この街の夜は、人を拒まない。
むしろ、優しく包み込む。
だから危険なのだ。
「この街、どうなると思う」
ヴァンデルは少し考えた。
「ゆっくり沈む」
静かな声。
「夢へ」
「止められないのか」
「止められるかもしれない」
曖昧な返答。
ベルネルが眉を寄せる。
「でも、止めたいと思う人が少ない」
そこが一番深刻だった。
その時、上の階から、足音が聞こえた。
ぎし、ぎし、と軋む音。
誰かが歩いている。
一行の視線が上へ向く。
宿に他の客はいないはずだった。
ラウルが静かに立ち上がる。
ガウルも斧へ手を伸ばす。
足音はゆっくり近づいてくる。
二階の廊下。
止まる。
沈黙。
そして。
こん、こん。
ベルネルたちの部屋の扉を、
誰かが叩いた。
ノイルが息を呑む。
ハルトは短剣を抜いていた。
もう一度。
こん、こん。
静かなノック。
まるで普通の来客みたいに。
「……誰だ」
ヴァンデルが問う。
返事はない。
代わりに、扉の向こうから、小さな声がした。
「おかあさん」
空気が凍る。
子供の声だった。
昼間の少年と、同じくらいの年齢。
「寒いよ」
弱々しい声。
「開けて」
ノイルの顔色が変わる。
「……子供?」
ハルトが首を振る。
「違う」
低い声。
「気配がおかしい」
直後。
扉の隙間から、細い黒が滲み込んだ。
煙みたいに、影みたいに、ゆっくり床を這う。
ランプの火が、小さく揺れた。
黒は床を這いながら、部屋の中へ滲み込んでくる。
煙にも見える。
影にも見える。
でも、生き物みたいだった。
ゆっくり、確実にこちらへ近づいてくる。
ノイルが後ずさる。
「な、なんだこれ……」
ガウルが舌打ちした。
「ようやく怪物らしいのが出てきやがったな」
黒は扉の下から、さらに広がっていく。
その中に、ぼんやり人影が見えた。
女と子供、老人。
輪郭は曖昧なのに、皆、こちらへ手を伸ばしている。
「開けて」
また子供の声。
「一人はいや」
ノイルの顔が強張る。
声が近い。
本当に扉の向こうへ、子供が立っているみたいに。
ベルネルは剣へ手をかける。
だが、黒へ触れた瞬間、頭の奥へ何かが流れ込んできた。
笑い声。
暖かな部屋。
夕食の匂い。
懐かしい感覚。
知らないはずなのに、胸が締め付けられる。
「……っ」
ベルネルが顔を歪める。
ヴァンデルが即座に腕を掴んだ。
「見るな!」
声が強い。
珍しく切迫していた。
ベルネルは我に返る。
黒がさらに近づいている。
「夢は、引き込もうとする。失ったものを見せて」
黒の中の人影たちが、笑い始める。
優しい顔や暖かな声。
だから怖い。
敵意がない。
ただ、「戻っておいで」と囁いてくる。
ノイルの身体がふらつく。
目の焦点が合っていない。
「母さん……?」
皆が振り向く。
ノイルの目には、もう部屋が映っていなかった。
夢を見ている。
立ったまま。
「ノイル!」
ハルトが肩を掴む。
だが、ノイルは微笑んでいた。
今まで見たこともないほど、安心した顔で。
「もう大丈夫なんだ……」
その声に、ガウルの表情が険しくなる。
「まずいな」
黒がノイルの足元へ絡みつく。
沈めるように、眠らせるように、
ハルトはランプを掴んだ。
小さな火。
頼りない炎。
ハルトはそれを黒へ向ける。
「ベルネル!」
ベルネルは即座に理解する。
剣を抜く、銀色の刃。
火を反射する。
その瞬間。
剣が初めて、この街で強く光った。
黒がざわめく。
怯えるみたいに。
部屋中の影が揺れる。
「――嫌だ」
四方から無数の声。
子供や女、老人、全部重なっていた。
「起きたくない」
ベルネルは剣を構える。
今までと違った。
怪物ではない。
人の願いそのものだ。
だから、斬るのが怖かった。
黒は揺れていた。
剣の光を恐れるように。
部屋の隅へ逃げようとしながら、それでも消えない。
「起きたくない」
声が重なる。
泣くように、縋るように。
「ここにいたい」
ノイルの身体が、ゆっくり黒へ沈み始める。
足元から、眠るみたいに。
「ノイル!」
ハルトが引っ張る。
だが重い。
まるで床そのものが、ノイルを飲み込もうとしている。
ノイルは抵抗しない。
目を閉じたまま、小さく笑っている。
「……母さん」
その顔が、あまりにも幸福そうだった。
ベルネルは剣を握る。
光は強い、黒を裂ける。
本能で分かる。
でも、ためらう。
これは魔物じゃない。
人の夢だ。
願いだ。
喪失だ。
「ベルネル!」
ラウルの声が飛ぶ。
真っ直ぐ彼を見ている。
「選べ!」
黒が広がる。
部屋の床を覆う。
壁を這う。
ランプの光が、少しずつ呑まれていく。
「起きれば、また失う」
声が響く。
今度は、ベルネルの頭の中で。
「救えなかった」
失った少女。
泣いていた母親。
消えた人々。
黒の中に、彼らの影が見える。
ベルネルの呼吸が止まりそうになる。
「でも」
「それでも、生きるしかない」
ベルネルは目を見開く。
小さな炎。
世界を変えるには、
あまりにも弱い火。
それでも、消えていない。
ベルネルは剣を振るった。
光が走る。
黒を切り裂く。
そして悲鳴。
無数の声。
「嫌だ!」
「やめて!」
「帰りたい!」
全部を断ち切るように、剣閃が部屋を横切った。
黒が崩れる。
煙みたいに散っていく。
ノイルの身体が倒れた。
ハルトが受け止める。
床を覆っていた影は、少しずつ消えていった。
最後まで、泣く声だけが残る。
まるで、夢そのものが、終わるのを嫌がっているみたいに。
静寂。
ランプの火だけが揺れている。
ベルネルは剣を下ろした。
息が荒い。
心臓が重い。
勝った感覚はなかった。
ただ、無理やり誰かを、現実へ引き戻したみたいだった。
ノイルがゆっくり目を開ける。
数秒。
ぼんやり天井を見る。
それから、
「あ……」
声が震える。
何かを思い出した。
そして、目から涙が零れる。
「……もう、会えないんだ」
誰も言葉を返せなかった。
その事実だけが、部屋へ静かに残った。
ノイルはしばらく泣いていた。
声を押し殺しながら。
子供みたいに。
誰も止めなかった。
止められなかった。
ガウルが無言で酒瓶を置く。
ノイルは受け取らない。
ただ膝を抱えていた。
ハルトは窓の外を警戒している。
ラウルは壁にもたれたまま、静かに目を閉じていた。
皆、何かを考えている。
でも、誰も答えを持っていない。
ベルネルは剣を見る。
刃には何も残っていない。
血も、黒も、夢の残滓さえ。
ただ、握った感触だけが、まだ手に残っていた。
「……あれは、なんだったんだ」
ベルネルが低く呟く。
「夢へ沈んだ人たちの想い」
「失いたくなかった時間」
ベルネルは目を伏せる。
剣で斬った感覚が、頭から離れない。
怪物じゃなかった。
敵意すら、ほとんどなかった。
ただ、「ここにいたい」と願っていただけだ。
「夢は優しい」
「だから人は沈む」
ランプの火が揺れる。
小さな炎。
でも、その光だけが、部屋の現実を繋ぎ止めていた。
「……じゃあ、火はなんなんだ」
「温かいだけじゃない」
火は燃やす。
失わせる。
夢を終わらせる。
それでも、人を朝へ連れていく。
ノイルが顔を上げる。
目は赤い。
「俺、戻りたくなかったです」
誰も遮らない。
ノイルは震える声で続ける。
「母さんがいて……笑ってて……」
拳が震えている。
「なのに、戻ってきたら、やっぱりいなくて……」
部屋が静まり返る。
その痛みは、あまりにも本物だった。
「……でも」
ノイルは唇を噛む。
涙を拭う。
「それでも、戻らなきゃ駄目なんですよね」
誰へ聞いたのか分からない。
ヴァンデルは答えない。
ラウルも答えない。
ガウルも、ベルネルも、誰も。
簡単に肯定できなかった。
しばらくして、ラウルが静かに立ち上がる。
「見張りを増やす」
現実的な声だった。
「今夜はもう、夢が来る」
その言葉で、全員が夜を見た。
窓の外の黒い空。
静かな街。
この街そのものが、巨大な夢みたいだった。
ベルネルは火を見る。
小さな、頼りない炎。
なのに、それだけが、確かに現実だった。




