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森の魔女の灯火  作者: lled
眠りの街
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17/18

浸食

夜になった。

長かった夕暮れが、ようやく沈む。

街はさらに静かになった。

まるで、皆が同じ夢を見る時間を、待っていたみたいに。

宿の食堂には、ベルネルたちしかいなかった。

ランプの火が小さく揺れている。

店主は椅子に座ったまま眠っていた。

起こしても、半分夢の中だ。


「不気味な街だな」


ハルトがパンを齧りながら呟く。


「静かすぎる」


ガウルが酒を飲む。


「俺は嫌いじゃねえ。酔っ払いが絡んでこねえからな」


少しだけ空気が緩む。

ノイルも、ようやく小さく笑った。

でも、その笑顔はまだ硬い。


夜、深い黒。

でも、どこか柔らかい。

この街の夜は、人を拒まない。

むしろ、優しく包み込む。

だから危険なのだ。


「この街、どうなると思う」


ヴァンデルは少し考えた。


「ゆっくり沈む」


静かな声。


「夢へ」


「止められないのか」


「止められるかもしれない」


曖昧な返答。

ベルネルが眉を寄せる。


「でも、止めたいと思う人が少ない」


そこが一番深刻だった。

その時、上の階から、足音が聞こえた。

ぎし、ぎし、と軋む音。

誰かが歩いている。

一行の視線が上へ向く。

宿に他の客はいないはずだった。

ラウルが静かに立ち上がる。

ガウルも斧へ手を伸ばす。

足音はゆっくり近づいてくる。

二階の廊下。

止まる。

沈黙。

そして。

こん、こん。

ベルネルたちの部屋の扉を、

誰かが叩いた。

ノイルが息を呑む。

ハルトは短剣を抜いていた。

もう一度。

こん、こん。

静かなノック。

まるで普通の来客みたいに。


「……誰だ」


ヴァンデルが問う。

返事はない。

代わりに、扉の向こうから、小さな声がした。


「おかあさん」


空気が凍る。

子供の声だった。

昼間の少年と、同じくらいの年齢。


「寒いよ」


弱々しい声。


「開けて」


ノイルの顔色が変わる。


「……子供?」


ハルトが首を振る。


「違う」


低い声。


「気配がおかしい」


直後。

扉の隙間から、細い黒が滲み込んだ。

煙みたいに、影みたいに、ゆっくり床を這う。

ランプの火が、小さく揺れた。


黒は床を這いながら、部屋の中へ滲み込んでくる。

煙にも見える。

影にも見える。

でも、生き物みたいだった。

ゆっくり、確実にこちらへ近づいてくる。

ノイルが後ずさる。


「な、なんだこれ……」


ガウルが舌打ちした。


「ようやく怪物らしいのが出てきやがったな」


黒は扉の下から、さらに広がっていく。

その中に、ぼんやり人影が見えた。

女と子供、老人。

輪郭は曖昧なのに、皆、こちらへ手を伸ばしている。


「開けて」


また子供の声。


「一人はいや」


ノイルの顔が強張る。

声が近い。

本当に扉の向こうへ、子供が立っているみたいに。

ベルネルは剣へ手をかける。

だが、黒へ触れた瞬間、頭の奥へ何かが流れ込んできた。

笑い声。

暖かな部屋。

夕食の匂い。

懐かしい感覚。

知らないはずなのに、胸が締め付けられる。


「……っ」


ベルネルが顔を歪める。

ヴァンデルが即座に腕を掴んだ。


「見るな!」


声が強い。

珍しく切迫していた。

ベルネルは我に返る。

黒がさらに近づいている。


「夢は、引き込もうとする。失ったものを見せて」


黒の中の人影たちが、笑い始める。

優しい顔や暖かな声。

だから怖い。

敵意がない。

ただ、「戻っておいで」と囁いてくる。


ノイルの身体がふらつく。

目の焦点が合っていない。


「母さん……?」


皆が振り向く。

ノイルの目には、もう部屋が映っていなかった。

夢を見ている。

立ったまま。


「ノイル!」


ハルトが肩を掴む。

だが、ノイルは微笑んでいた。

今まで見たこともないほど、安心した顔で。


「もう大丈夫なんだ……」


その声に、ガウルの表情が険しくなる。


「まずいな」


黒がノイルの足元へ絡みつく。

沈めるように、眠らせるように、

ハルトはランプを掴んだ。

小さな火。

頼りない炎。

ハルトはそれを黒へ向ける。


「ベルネル!」


ベルネルは即座に理解する。

剣を抜く、銀色の刃。

火を反射する。

その瞬間。

剣が初めて、この街で強く光った。


黒がざわめく。

怯えるみたいに。

部屋中の影が揺れる。


「――嫌だ」


四方から無数の声。

子供や女、老人、全部重なっていた。


「起きたくない」


ベルネルは剣を構える。

今までと違った。

怪物ではない。

人の願いそのものだ。

だから、斬るのが怖かった。


黒は揺れていた。

剣の光を恐れるように。

部屋の隅へ逃げようとしながら、それでも消えない。


「起きたくない」


声が重なる。

泣くように、縋るように。


「ここにいたい」


ノイルの身体が、ゆっくり黒へ沈み始める。

足元から、眠るみたいに。


「ノイル!」


ハルトが引っ張る。

だが重い。

まるで床そのものが、ノイルを飲み込もうとしている。

ノイルは抵抗しない。

目を閉じたまま、小さく笑っている。


「……母さん」


その顔が、あまりにも幸福そうだった。

ベルネルは剣を握る。

光は強い、黒を裂ける。

本能で分かる。

でも、ためらう。

これは魔物じゃない。

人の夢だ。

願いだ。

喪失だ。


「ベルネル!」


ラウルの声が飛ぶ。

真っ直ぐ彼を見ている。


「選べ!」


黒が広がる。

部屋の床を覆う。

壁を這う。

ランプの光が、少しずつ呑まれていく。


「起きれば、また失う」


声が響く。

今度は、ベルネルの頭の中で。


「救えなかった」


失った少女。

泣いていた母親。

消えた人々。

黒の中に、彼らの影が見える。

ベルネルの呼吸が止まりそうになる。


「でも」


「それでも、生きるしかない」


ベルネルは目を見開く。

小さな炎。

世界を変えるには、

あまりにも弱い火。

それでも、消えていない。

ベルネルは剣を振るった。

光が走る。

黒を切り裂く。

そして悲鳴。

無数の声。


「嫌だ!」


「やめて!」


「帰りたい!」


全部を断ち切るように、剣閃が部屋を横切った。

黒が崩れる。

煙みたいに散っていく。

ノイルの身体が倒れた。

ハルトが受け止める。

床を覆っていた影は、少しずつ消えていった。

最後まで、泣く声だけが残る。

まるで、夢そのものが、終わるのを嫌がっているみたいに。


静寂。

ランプの火だけが揺れている。

ベルネルは剣を下ろした。

息が荒い。

心臓が重い。

勝った感覚はなかった。

ただ、無理やり誰かを、現実へ引き戻したみたいだった。

ノイルがゆっくり目を開ける。

数秒。

ぼんやり天井を見る。

それから、


「あ……」


声が震える。

何かを思い出した。

そして、目から涙が零れる。


「……もう、会えないんだ」


誰も言葉を返せなかった。

その事実だけが、部屋へ静かに残った。


ノイルはしばらく泣いていた。

声を押し殺しながら。

子供みたいに。

誰も止めなかった。

止められなかった。

ガウルが無言で酒瓶を置く。

ノイルは受け取らない。

ただ膝を抱えていた。

ハルトは窓の外を警戒している。

ラウルは壁にもたれたまま、静かに目を閉じていた。

皆、何かを考えている。

でも、誰も答えを持っていない。

ベルネルは剣を見る。

刃には何も残っていない。

血も、黒も、夢の残滓さえ。

ただ、握った感触だけが、まだ手に残っていた。


「……あれは、なんだったんだ」


ベルネルが低く呟く。


「夢へ沈んだ人たちの想い」


「失いたくなかった時間」


ベルネルは目を伏せる。

剣で斬った感覚が、頭から離れない。

怪物じゃなかった。

敵意すら、ほとんどなかった。

ただ、「ここにいたい」と願っていただけだ。


「夢は優しい」


「だから人は沈む」


ランプの火が揺れる。

小さな炎。

でも、その光だけが、部屋の現実を繋ぎ止めていた。


「……じゃあ、火はなんなんだ」


「温かいだけじゃない」


火は燃やす。

失わせる。

夢を終わらせる。

それでも、人を朝へ連れていく。


ノイルが顔を上げる。

目は赤い。


「俺、戻りたくなかったです」


誰も遮らない。

ノイルは震える声で続ける。


「母さんがいて……笑ってて……」


拳が震えている。


「なのに、戻ってきたら、やっぱりいなくて……」


部屋が静まり返る。

その痛みは、あまりにも本物だった。


「……でも」


ノイルは唇を噛む。

涙を拭う。


「それでも、戻らなきゃ駄目なんですよね」


誰へ聞いたのか分からない。

ヴァンデルは答えない。

ラウルも答えない。

ガウルも、ベルネルも、誰も。

簡単に肯定できなかった。


しばらくして、ラウルが静かに立ち上がる。


「見張りを増やす」


現実的な声だった。


「今夜はもう、夢が来る」


その言葉で、全員が夜を見た。

窓の外の黒い空。

静かな街。

この街そのものが、巨大な夢みたいだった。


ベルネルは火を見る。

小さな、頼りない炎。

なのに、それだけが、確かに現実だった。

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