宿屋
宿は静かだった。
古びた二階建て、客はほとんどいない。
いる者も皆、どこか眠そうだった。
店主でさえ、何度も舟を漕いでいる。
「夜は外へ出ない方がいい」
鍵を渡しながら、店主はぼんやり言った。
「夢守りが来る」
「役人は動かないのか」
ラウルが聞く。
店主は乾いた笑いを漏らした。
「役人も眠ってるさ」
その言葉に、誰も返せなかった。
部屋へ入ると、ノイルが椅子へ座り込んだ。
肩の傷は浅い。
ハルトが手際よく布を巻いていく。
「しみるぞ」
「……はい」
ノイルの声は暗かった。
視線が落ちている。
ずっと、さっきの男の顔が、頭から離れないのだろう。
「死んでねえ」
ガウルが壁にもたれながら言う。
「だからその顔やめろ」
ノイルは顔を上げない。
「でも……」
「戦場じゃ、もっと酷い」
低い声。
経験の重さがあった。
「躊躇ったら、仲間が死ぬ」
ノイルは拳を握る。
分かっている。
でも、納得できない。
ベルネルは窓の外を見ていた。
夕焼けが長い。
空が沈まない。
街も静かだ。
まるで世界全体が、眠る準備をしているみたいだった。
「ベルネル」
ラウルが呼ぶ。
「少し付き合え」
短い言葉。
ベルネルは頷いた。
宿の裏庭の乾いた井戸、積まれた薪。
夕暮れの赤が、壁を染めている。
ラウルは煙草代わりの草を噛みながら、空を見ていた。
「ノイルを気にしてるな」
ベルネルは少し黙る。
「……はい」
ラウルは笑わない。
「最初は誰でもああなる」
「副隊長でも?」
「ああ」
即答だった。
風が吹く。
草が揺れる。
ラウルは静かな声で続けた。
「初めて人を斬った時、三日眠れなかった」
意外だった。
ラウルは最初から、何でも割り切れる人間に見えた。
ベルネルは横顔を見る。
副隊長は、夕暮れを眺めたままだった。
「でも慣れる」
「……それでいいのですか?」
ラウルは少し考える。
「良くはない」
静かな返答。
「だが、慣れなきゃ死ぬ」
ベルネルは剣を見る。
自分の剣、夜を裂く特別な剣。
でも、人間へ向ければ、普通に人を殺す。
その現実が、妙に重かった。
「ベルネル」
ラウルが低く言う。
「お前は、優しすぎる」
ベルネルが眉を寄せる。
「褒めてねえぞ」
「分かってる」
「お前は、救えると思ってる」
ラウルはゆっくり振り向いた。
その目は真っ直ぐだった。
「でも戦場じゃ、全部は救えない」
夕暮れが、少しずつ暗くなっていく。
「選ばなきゃならん時が来る」
その言葉だけが、妙に胸へ残った。




