朝が来る
夜は長かった。
誰も深く眠れなかった。
少し目を閉じれば、すぐ夢が近づいてくる。
暖かな声、懐かしい景色、そして失った誰か。
扉の向こうで待っている。
そんな感覚が、ずっと消えない。
見張りは交代制になった。
最初はハルト。
次にガウル。
その次はベルネルだった。
夜半。
宿の廊下は静まり返っている。
ランプの火だけが、ぼんやり揺れていた。
ベルネルは椅子へ座り、剣を膝へ置いていた。
眠気はない。
いつも通り、夢を見ないからかもしれない。
ぎし。
小さな音。
ベルネルが顔を上げる。
廊下の奥に、誰かが立っていた。
白い服に長い髪。少女だった。
喪失の村で消えた、あの少女に似ていた。
ベルネルの呼吸が止まる。
少女は静かにこちらを見る。
泣きそうな顔。
「どうして」
小さな声。
「助けてくれなかったの」
ベルネルの指が強張る。
違う。
夢だ、分かっている。
でも、胸が痛い。
少女が一歩近づく。
「寂しかった」
ベルネルは立ち上がる。
剣を握る。
だが、抜けない。
相手は敵じゃない。
そう思ってしまう。
「ベルネル」
後ろから声。
振り返る。
ノイルだった。
眠そうな顔のまま、廊下へ立っている。
ノイルは少女を見ても、表情を変えなかった。
「夢だ」
ベルネルは息を吐く。
少女はまだそこにいた。
泣きそうな目で、こちらを見ている。
「……分かってる」
ベルネルが低く言う。
でも、剣が重い。
ノイルはゆっくり近づいた。
そして、ベルネルではなく、
少女の前へ立つ。
「あなたは、もうここにはいない」
優しい声だった。
追い払うような言い方じゃない。
別れを告げるみたいな。
少女の輪郭が揺れる。
「いや」
掠れた声。
「消えたくない」
ベルネルの胸が締め付けられる。
喪失の村に火を灯した後、大切な人を探し続ける人々。
戻らなかった人たち。
全部が蘇る。
「……俺は」
ベルネルが言葉を絞り出す。
「救えなかった」
少女は答えない。
ただ悲しそうに見ている。
それだけで十分痛かった。
ノイルは小さく火で照らした。
小さな炎。
夢の少女は、その火を見つめる。
「寒い」
小さな声。
火が揺れる。
暖かい。
でも、夢を終わらせる火だった。
少女の姿が、少しずつ薄れていく。
最後まで、悲しそうに笑っていた。
「……ありがとう」
その声だけが残る。
そして、廊下には、もう誰もいなかった。
ベルネルはしばらく動けなかった。
ノイルは隣へ立つ。
何も言わない。
ただ、一緒に火を見ていた。
小さな灯火を。
朝は遅れてやってきた。
この街では、夜が長い。
空は白み始めているのに、街はまだ眠っていた。
静かだった。
まるで、世界そのものが、起きるのを拒んでいるみたいに。
ベルネルたちは宿を出た。
空気が重い。
昨夜の出来事を、誰も軽く流せなかった。
ノイルは特に静かだった。
だが、目だけは昨日より強い。
苦しみながらも、何かを飲み込もうとしている顔だった。
広場へ出る。
昨日の眠る女は、まだそこにいた。
花屋の老人も。
少年を抱いていた父親も。
何も変わっていない。
時間だけが止まっている。
「……火を灯そう」
ベルネルが言う。
皆が彼を見る。
広場の中央。
古い石碑の前へ、小さな火台を置く。
薪を積む。
ベルネルは剣を抜いた。
銀の刃。
朝の薄光を反射する。
人々が集まり始めていた。
眠そうな顔、怯えた顔、敵意のある目。
夢守りたちも混ざっている。
「やめろ」
誰かが言う。
「起こすな」
別の声。
「夢を壊すな」
怒号は広がらない。
皆、本気で怒っているわけじゃない。
怖いのだ。
現実が。
ベルネルは火台の前へ立つ。
剣を構える。
前回と同じだった。
でも、今度は違う。
喪失を止めるためじゃない。
人を現実へ戻すための火。
それが本当に救いなのか、誰にも分からないまま、ベルネルは火へ剣を近づける。
刃が淡く光る。
そして、炎が灯った。
小さな火。
頼りない灯火。
なのに、広場の空気が変わる。
眠っていた人々が、微かに眉を動かした。
夢守りたちがざわめく。
「やめろ……!」
「消せ!」
一人が火台へ駆ける。
だが、ラウルが前へ出た。
静かな構え。
ガウルも斧を担ぐ。
ハルトは周囲を警戒していた。
皆、ベルネルを守る位置へ立つ。
自然に、当たり前みたいに。
ベルネルは火を見る。
小さな炎。
でも、確かに夜を押し返している。
広場の女が、ゆっくり目を開けた。
ぼんやりした視線。
周囲を見回す。
そして、隣に誰もいないことへ気づく。
顔が歪む。
涙が零れる。
「……ああ」
掠れた声。
絶望の声だった。
少年も目を覚ます。
父親が抱き締める。
少年は最初、何も分かっていなかった。
でも、「お母さんは?」と聞いた瞬間。
父親が泣き崩れた。
そこで全部伝わる。
少年の顔から、幸福が消える。
広場には、泣き声が広がっていく。
目覚めた人々が、現実を思い出していく。
失った人。
戻らない時間。
空白。
全部、もう一度。
ベルネルの呼吸が重くなる。
これが救いなのか。
本当に。
分からなくなる。
その時、ノイルが小さく呟いた。
「……それでも」
ベルネルが振り向く。
ノイルは火を見ていた。
悲しそうに、でも、逃げずに。
「朝は来る」
広場の泣き声は、いつまでも止まなかった。
目覚めた人々は、現実を思い出していく。
失ったもの、戻らないもの、埋まらない空白。
夢の中では、確かにそこにいたのに。
朝はそれを連れていってしまう。
ベルネルは火の前へ立っていた。
炎は静かに燃えている。
小さい。
頼りない。
なのに、確実に夢を終わらせていた。
少年が泣いていた。
父親に抱きつきながら。
「会いたい……!」
父親も泣いていた。
女も、老人も、皆、夢を失った顔をしている。
ベルネルはその光景を見つめる。
胸が重い。
でも、その中に、奇妙な感覚が混じっていた。
羨ましい。
ふと、そう思ってしまった。
ベルネルは目を伏せる。
皆、夢を見ていた。
失った人に会った。
抱き締めた。
話した。
笑った。
別れた。
短くても、もう一度確かに会えた。
でも、自分にはない。
最初から、夢がない。
眠っても、暗闇だけだった。
誰にも会えない。
救えなかった人も、失ったものも、もう二度と。
火が揺れる。
ベルネルは小さく息を吐いた。
「……ずるいな」
「皆、会えたんだろ」
広場の人々を見る。
泣いている。
苦しんでいる。
でも、その顔には、確かに“会えた記憶”が残っている。
ベルネルにはそれがない。
「俺だけ、何もない」
空を見る。
長かった夜が、ようやく終わる。
遠くの地平が、薄く白み始めていた。
この街にも、朝が来る。
誰かを救ったのか、傷つけただけなのか、最後まで分からないまま。
それでも、朝は来るのだ。




