彼女の夢
夜は静かだった。
風もない。
虫の声もない。
暖炉の火だけが、小さく揺れていた。
その火の前で、椅子に座ったままリシェルは眠っていた。
珍しいことだった。
彼女はほとんど眠らない。
眠っても浅い。いつでも夜の気配へ反応できるように。
まるで、夜そのものを警戒しているみたいに。
白い横顔、長い睫毛、普段と変わらないように見えた。
けれど、微かに眉が寄っている。
苦しそうだった。
暖炉の火がぱちりと鳴る。
その瞬間だった。
リシェルの唇が、小さく動く。
「――行かないで」
普段の彼女からは想像もできないほど弱い声だった。
まるで何かを失う直前みたいな。
彼女の指先が、何かを探すように揺れる。
唇から静かに空気が漏れる。
彼女は夢を見た。
朝だった。
聞き慣れない機械音が、継続的して小さく聞こえる。
遠くで車が走る音と人が活動している気配。
リシェルはゆっくり目を開ける。
目を開けると、白い天井がある。
カーテンの隙間から、柔らかな光が差している。
狭い部屋に小さな台所。
床に積み上がった本。
脱ぎ捨てられた服。
窓辺の観葉植物。
そこには、静かな生活があった。
「……起きた?」
男の声。
振り向くと、そこにはベルネルがいた。
いや、今の彼とは少し違う。
清潔な黒い髪に、柔らかな材質の服装。
剣はない。
火傷の跡もない。
ただの青年。
片手にマグカップを持ちながら、眠そうに笑っている。
「またソファで寝てた」
「あなたが夜更かしするからでしょう」
自然に言葉が出る。何度も繰り返した会話みたいに。
青年は困ったように笑った。
「ごめんごめん」
コーヒーの香りが漂う。
テレビでは朝のニュースのキャスターの声。
洗濯機の回る音。
どこにでもある朝だった。
幸福は、こういう形をしていた。
劇的ではなく。
失いたくないと思う、穏やかな日常。
食卓を挟んで向かい合う。
青年がパンを齧る。
「今日、帰り遅くなるかも」
「また?」
「最近ちょっと忙しくて」
「無理しないで」
「してないよ」
嘘だった。リシェルは知っている。
彼は昔から、無理を隠すのが下手だった。
彼女は小さく息を吐く。
青年は笑うだけだった。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥が少し温かくなる。
それだけで良かった。
本当に。
それだけで。
テレビの音声が乱れた。
画面には砂嵐が走る。
青年が顔を上げる。
「ん?」
すぐに元に戻る。
ニュースキャスターは笑っている。
何事もない。
けれど、リシェルだけは違和感を覚えた。
カーテンを開けて窓の外を見る。
空が少し暗い。
朝のはずなのに。
雲が太陽を隠しているわけではない。
もっと深い何かがある。
「……リシェル?」
気づけば、青年が不思議そうにこちらを見ていた。
「どうした?」
彼女は答えられなかった。
胸の奥が、不安や焦りと似た嫌な音を立てている。
知っている。
これが何かを、忘れていただけで、ずっと知っている。
夜だ。
夜がまた来たのだ。
青年は窓の外を見た。
「雨でも降るのかな」
軽い調子で言う。
リシェルは答えられない。
視線だけが、ずっと空へ向いている。
黒かった。
これは雲ではない。
完全に夜だった。
昼を侵食する夜。
静かに、誰にも気づかれないように音もなく。
世界の色を奪いながら広がっている。
青年も、ようやく異変に気づいた。
「……なんだ、あれ」
テレビの音がまた乱れる。
ざ、ざざ――。
『――現在、各地で大規模な停電が――』
ノイズ。
『――原因は不明――』
ノイズ。
『避難を――』
ぶつりと音が切れて、部屋が静かになる。
洗濯機も止まっていた。
冷蔵庫の駆動音も消えている。
世界から、少しずつ音も失われていく。
青年が立ち上がる。
「停電か……?」
その言葉には、まだ現実感があった。
リシェルだけが違う。
身体が震えていた。
思い出している。
これは災害じゃない。
終わりだ。
世界の終わり。
外へ出ると、
街は騒然としていた。
車が止まっている。
信号が消えている。
人々が空を見上げていた。
黒い夜が、
空の半分を覆っている。
境界は曖昧だった。
まるでインクを水へ垂らしたみたいに、
じわじわと昼を侵している。
「映画みたいだな……」
青年が呟く。
ただの強がりだった。
彼も怖がっている。
リシェルはその手を掴む。
強く。
青年が少し驚いた顔をする。
「リシェル?」
「……離れないで」
その声は、自分でも驚くほどか弱かった。
青年は数秒だけ黙り、それから小さく笑った。
「離れないよ」
根拠なんてないだろう。でも彼は覚悟を決めたようにそう言った。
街の奥で悲鳴が上がった。
誰かが夜へ触れた。
その誰かが、夜の黒へ飲み込まれている。
音もなく。
抵抗もなく。
ただ、輪郭だけが溶けて、境界が無くなって消える。
それの有様を見て、人々が逃げ始める。
叫び声、泣き声、
押し合う。
けれど、夜は追いかけてこない。
ただそこに在って、静かに、確実に、世界を消していく。
青年はリシェルの手を引いた。
「走ろう」
どこへ向かうのかも分からないまま、二人は走る。
崩れていく街が通りすぎていく。
信号の消えた交差点を、誰もいなくなった駅前を。
空を見れば、もうほとんど夜だった。
星も月もない。
ただ黒だけが広がっている。
不思議と静かだった。
世界が終わる音は、こんなにも静かなのかとリシェルは思う。
途中、青年が足を止めた。
「……あれ」
遠くビルの隙間に、小さな火が見えた。
蝋燭みたいな、頼りない灯火。
でも、夜の中でそれだけが消えていなかった。
青年はじっとそれを見つめる。
なぜか目を離せない。
リシェルも同じだった。
胸の奥が熱い。
懐かしく悲しい。
あの火を、自分たちは知っている。
まだ名前もない頃の、小さな灯火を。
青年は火へ向かって歩き出した。
吸い寄せられるみたいに。
リシェルも後を追う。
街は静まり返っていた。
さっきまで聞こえていた悲鳴ももうない。
夜へ飲まれたのか、逃げ切れたのか分からない。
ただ、世界から人の気配だけが、少しずつ消えていた。
火は、古びた公園の中央にあった。
誰もいない。
風もない。
それなのに、小さな炎だけが静かに揺れている。
不思議な火だった。
薪もない。
油もない。
なのに燃えている。
まるで、何か見えない別のものを燃やしているみたいだった。
青年は、無意識に火へ手を伸ばした。
その瞬間、ぶわりと炎が揺れた。
リシェルの背筋に寒気が走った。
火が反応した。
彼に。
青年は小さく息を呑む。
「……なんだ」
炎の中に何かが見えた。
知らない景色。
暗い森や雪、剣、泣いている誰か。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ。
記憶でも夢でもないものが、脳裏をよぎる。
青年は頭を押さえた。
「っ……」
「ベル――」
リシェルはそこで言葉を止める。
まだ彼の名前じゃなかった。
でも、胸の奥では、もうその名が滲み始めている。
ベルネル。
夜が近づいていた。
公園の外側から、じわじわと黒が侵食してくる。
世界の輪郭が消えていく。
ベンチが消える。
街灯が消える。
木々が消える。
全てが、静かに存在を失っていく。
青年は火の前へ立った。
不思議と恐怖は薄れていた。
代わりに、心の中で強い決意が生まれた。
この火を消してはいけない。
理由は知らない。
でも、ここで消えたら、本当に全部終わる。
そんな確信だけがある。
「リシェル」
青年が振り返る。
初めてその名前を呼んだ。
リシェルの目が揺れる。
彼が知らない名前のはずだった。
まだ
「俺、これを知ってる気がする」
炎を見る。
小さな火。
なのに、夜の中で、それだけが確かにそこに在る。
「……ずっと前から」
リシェルは何も言えない。
言葉にした瞬間、全てが壊れてしまう気がした。
夜が公園へ届く。
黒が芝生を呑みこみ、空間そのものが削れていく。
もう時間はない。
青年は火を見つめたまま、静かに言った。
「これは、残さないと駄目なんだ」
「……どうして」
「分からない」
彼は苦く笑った。
「でも、たぶんこれだけは」
言葉が途切れる。
夜が、すぐそこまで迫って来ていた。
青年はリシェルの手をそっと握る。
彼の手が震えていた。怖いのだ。
それでもしっかりと握って離さない。
「……もしさ」
彼は小さく息を吐く。
「また会えたら」
夜が、二人の足元まで届く。
「今度は、ちゃんと君を見つける」
そして、世界は夜へ飲みこまれてしまった。
リシェルは目を覚ました。
暖炉の前だった。
静かに風が動き、小さく炎が揺れている。
夢は終わっていた。
けれど、胸の奥には、まだあの火の温度が残っている気がした。
握られていた手の感触がリアルに残っている。
最後の声、世界が消える瞬間の静けさ。
全部、あまりにも鮮明だった。
涙が伝っているのに気づいて、それを拭う。
夢の中のベルネルを想う。
今の彼とは別人だ。
違う世界、違う人生。
それでも同じ灯火を彼の中に感じた。
彼の感触を確かめるように、手のひらをいつまでも見つめていた。




