第91話 兄と妹
蓮音はすぐに仲間を呼んだ。剣護が率いる宦官たちはもちろんのこと、親しくなった下級妃や宮女も多数協力をしてくれた。
最初こそ、「掃除なんて……」と文句を言っていた蘭仙公主や昇凪皇子も、作業をしてみると意外と楽しかったようで、せっせと働いていた。
大勢で掃除をして、壊れた調度を直し、庭を整備した。これだけでも、寂れていた宮殿は住み心地の良い場所へと生まれ変わった。
公主も皇子も、先帝の時代から、決していい暮らしをしてきてはいない。平民だった母親の実家が何の力も持っていなかった影響が大きい。
だが、彼らはそんなものだと思っていた。周りを羨むことはあったが、今の環境が変わるとは考えたことがなかった。
「うわー!」
「きれいになった!」
「お城みたい!」
初めて、宮殿らしい宮殿が自らの住まいとなった公主や皇子たちは、目を輝かせていた。
「公主殿下、皇子殿下、明日から、この鬼とお勉強をしませんか?」
蓮音は小さな子どもたちを勉強会に誘った。
「文字ならば、蘭仙姉上に教えてもらっている」
小さな昇凪皇子が誇らしげに答える。
「それは素晴らしいですね。蘭仙公主はとてもいいお姉様なのですね」
下級妃の子どもとはいえ、宮城にいるのであれば、普通は学問の師が付く。が、彼女たちにはそれがいない。
公主や皇子にとってある程度の学問を修めることは当然ではある。だが、皇子にとっては危険もはらんでいた。もしも「賢い」などという評判が立とうものならば、命が危なくなる。それが後宮なのだ。
母親が野心家であれば違ったのかもしれない。後宮に上がる前も後も生きることが第一目標で、自身も文字の読み書きができない彼女たちには、子どもに何かを学ばせるという発想そのものもなかった。
「あの、学問など勝手に学んでも大丈夫なのでしょうか……?」
先帝の妃嬪だった一人がぽろっと本音を漏らす。
「当然よ。むしろ、しっかりと学ぶことは皇族の務めよ。公主も皇子もいつまでも後宮にいられるわけではない。学問を修めることで、自らを助け、そしてあなた方の兄である皇帝陛下を助けることだってできるのですから」
「でも、お兄様は、とてもお強い方だから、きっと私たちの力なんて必要としていないわ……」
蘭仙公主は、遠くから見たことしかない兄のことを心底尊敬し、その兄に強い憧れを持っていた。兄の役に立ちたいと思う反面、向こうからは求められていないことも薄々感じてはいたのだ。
「そんなことはありませんよ、蘭仙公主。確かに、現皇帝陛下は武力にも知略にも優れた人かもしれませんが、きちんと弟たち、昇雲殿下や昇照将軍の力も認めていますよ。大切なのは、あなた方が昇昊陛下にとって信頼できる人間となって、その力を国の繁栄のために発揮することです」
「鬼姫は、お兄様のことが嫌いなんじゃないの?」
蓮音は少し驚いて目を丸くした。その後で、表情を緩めると、公主に微笑みかけた。
「そうですね。立場上、わたしたちは考えていることが真逆でぶつかることが多いのは事実です。が、嫌いなわけではありません。昇昊陛下には彼なりの正義があり、わたしにはわたしなりの正義があるというだけの話です。もちろん、蘭仙公主も、自分の正義を貫けばよいのです。助けるというのは、ただ盲目的に従うことだけではありません。公主の言葉に信義があると伝われば、きっと重宝してくれますよ」
「そう……かな? そうだといいな」
公主には今まで何の目標もなく、ただ、道具として誰かに嫁ぐことになるのであろう将来を漠然と思い浮かべていた。
(そうじゃないんだ……私も、学べば兄上のお役に立てるのだ……)
蘭仙公主の瞳には、希望の光が宿っていた。
「ぼ、僕のことも、兄上は必要としてくれるだろうか?」
「僕も!」
今度は、二人の皇子が尋ねてきた。
「もちろんですよ。ですから、そうなるためにも、しっかりと学びましょう」
「「はいっ」」
二人の皇子はお互いの顔を見て、ニコッと笑うと、大きな声で元気よく返事をしたのだった。
この日、蓮音はあえてこの宮殿で夕餉を取ることにした。昨夜、昇昊に「別のところで食事をする」と宣言した通りに。
昇昊は毎晩、妃嬪の元へ行く際に、蓮音の部屋に立ち寄っている。今日は、特に悪事を働いたわけではないが、もし、いつものように蓮音の監視に来るとすれば、ここに立ち寄ることになるだろう。ほとんど交流のない妹弟たちに多少なりとも目を向けさせることができる。
きっと、あの男のことだ。この妹や弟たちのことを脅威には感じていない代わりに、自分が保護すべき存在だとも考えていない。おそらく、興味がなくて何も知らないのだ。
兄弟とはいえ、母も異なり、年も随分と離れているし、立場や育った環境もまるで違う、ほとんど赤の他人のような存在である。
だが、それでいいわけがない。
案の定、食事をしていると、皇帝の来訪を告げる宦官の声が響いた。
「皇帝陛下の御成りです」
その場にいた、この宮殿の住人たちは驚き、互いの顔を見やった。この宮殿に現皇帝が足を運んだことなど、一度もない。
そんな人物が初めてここにやってくるのだ。
先代皇帝の下級妃たちは、一斉に席を立つと、床に平伏した。それに倣うかのように、子どもたちも続いた。蓮音ただ一人だけが椅子に腰を下ろしたまま昇昊を待った。
「そんなにかしこまらなくてもいいのに、皇帝だってただの人なんだから」
「お前はもう少し、俺を敬え」
残念ながら、蓮音の言葉は宮殿の住人ではなく、皇帝に届いてしまい、彼が反応してきた。
「敬われたいのであれば、それに値する行動をとってください。ここにいるのは仮にもあなたと血を分けた妹や弟ですよ」
昇昊はそう言われて初めて、足元に平伏している子どもたちをチラッと見た。
「わたしがあなただったら、昇凪殿下なんて、高い高いしちゃうのに」
名前の挙がった昇凪は、思わず顔を上げた。初めて目の前で兄の姿をはっきりと見た。昇昊が真顔だったからか、昇凪はどうしたらいいのかわからず、すぐに目線を反らした。
「ちょっと、声ぐらいかけてあげたらどうなんです? あなた、それでも本当に子どもがほしい人なの?」
「……それとこれとは別だろう……」
「あなたがそんなだから、赤子もあなたの元には来たくないと思っているのでは?」
「ふっ、鬼ともあろうものが、そのような迷信を信じているのだな、滑稽だな」
「まったく……。それに、古来より、折り合いの悪い親子が殺し合うなんて話、いくらでも転がっているんですから。親だという事実をもって、子どもが無条件に慕ってくれるわけではないんです。ちゃんと子どもを慈しむことを覚えるべきですよ」
そうは言われても、昇昊はどうしたらいいのかわからなかった。相手は何年にもわたって自分が見て見ぬふりをしてきた、ほぼ初対面の兄弟というかなり気まずい関係なのだ。
それに、昇昊自身も、父親や母親に目に見える愛情を掛けてもらった記憶がない。高い高いが何なのかぐらいは知識として知っているが、やり方もよくわからないのだ。
戸惑いながらも、それを悟られないように黙っているしかなかった。
「……仕方ないですね。蘭仙公主殿下」
「は、はいっ」
「そこのお兄様は言葉を忘れてしまったようなので、まずはあなたから自己紹介をしてあげてください。さあ、立って、顔をよく見せてあげて」
「えっ、あ、はいっ!」
蓮音に促されて、その場にいた最年長の妹である蘭仙公主は立ち上がると、昇昊の顔を見た。
遠くから見て憧れていた兄がすぐそばにいると思うと、非常に照れ臭い。だが、こんな機会もうないかもしれない。
もともと、蓮音に対しても「お兄様を篭絡した悪女」などと強気な態度を取ってきた勝気な公主である。臆することなく、はきはきと話し始めた。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。第十二公主の蘭仙と申します。こうして皇帝陛下と直接お話をさせていただけるなんて、今まで生きてきてよかったです!」
彼女の言葉は、少なからず、昇昊の心を動かしたようだった。
「そうか……蘭仙はいくつになったのだ?」
「はい、十四になりました。皇帝陛下のご命令とあらば、いつでもどこにでも嫁ぎます。兄上様のお役に立つことが、私の幸せですので」
「そうか……」
年齢を尋ねたのは、何を話題にしたらいいのかわからなかったからで、政略結婚の道具にできるかどうかの確認ではなかった。これではまるで自分が非情な悪役になった気分になる。
「陛下。蘭仙公主は、ここにいる妹や弟たちに文字の読み書きを教えてやっているのです。幼い公主や皇子にとって、面倒見の良い姉の存在は欠かせません。もうしばらくはここにいて、彼女に幼い子らの先生を務めさせてはいかがでしょうか? もちろん、聡明で心優しき公主自身にもよき師をご手配願います」
「そうか……そうだな」
「陛下。こういうときは褒めて差し上げるべきです」
「そうだな……蘭仙、年長者として幼き者を導いたこと、実に感心である。そのまま励むがよい」
「は、はい! 兄上様、有難きお言葉をいただき、蘭仙は感動いたしております」
蘭仙公主は、嬉しさのあまり、目に涙すら浮かべていた。
昇昊は、今まで放置していた自分を恨むでもなく、怯えるでもなく、こびへつらうわけでもなく、兄というだけで無条件に自分を肯定するこの妹の存在が不可解でならなかった。だが、不愉快ではなかった。
「陛下、せっかくですので、少しお食事をなさっていきませんか?」
いつも自分を速攻で追い払うことしかしない鬼が、初めて席を勧めてきた。昇昊は大人しくそこに座った。
昇昊は自分でも気がつかないうちに厳しい表情を緩めていたのだった。




