第90話 皇帝の弟妹
後宮に住まうのは、皇帝の妃嬪や女官や宦官に宮女だけではない。
先帝の子らがまだ何人か住んでいた。子のいない先帝の妃嬪の多くは、昇昊の即位に伴い家臣、特に武官たちに下げ渡された。そして皇太后派の妃嬪たちは、子と共に離宮に移った。
だが、未成年の皇子と公主も数名が、まだ後宮に残っていた。
先帝には数えきれないぐらいの子がいたが、特に、先帝が即位した後にこの後宮で生まれた皇子の多くは成人前に命を落としていた。
一方の公主は、政治的に利用価値が高いからか、幼少期に命を落とすものが少なかった。その後、成人すると積極的に属国へと送られた。その国の王子たちの妻となり、支配を固めるためにである。
この事実一つを取ってしても、後宮は恐ろしい。世継ぎの座を脅かしうる男子は長く生きられない可能性があり、女子は政治の道具とされるのだから。
蓮音が、皇子や公主に会うのは特に義務ではなかった。だが、後宮の実態を把握したいと思い、こうして彼らが住まう宮殿を訪れているのだった。
「あんたが、お兄様を篭絡した悪女ね!」
門前には、決して豪華ではない交領襦裙を纏った一人の姫が、こちらを睨みつけながら立ち尽くしていた。
年のころは十四、五歳といったところか。身長は蓮音と同じぐらいでありながらも、まだ、どこか幼さの残る顔つきだった。
「初めまして、蘭仙公主でいらっしゃいますか? わたしは彩華国から来ました珠蓮音と申します」
「ふんっ、こんなところまで何しに来たのよ、この鬼!」
「おいしい点心と茶菓子があるので、共に食べたいと思い、お持ちしました」
好戦的な公主に対して、蓮音は笑顔で害意がないことを示した。
「鬼の持ってきた食べ物なんて、食べられるわけないでしょ! どんなものなのかもわからないのだから!」
「そうですか、それは残念です。では、わたしが一人でいただくとしましょう。失礼いたしますね」
蓮音は、公主の横を通ると、門をくぐり、宮殿の敷地へと勝手に足を踏み入れた。
「ちょっと、待ちなさいよ! おにー!」
案の定、宮殿の庭は手入れが行き届いていない。
蓮音はその庭に置き去りにされているような陶器の卓を拭いて綺麗にすると、その上に食盒を置いた。ついでに、椅子も拭くとそこに座って食盒の蓋を開ける。
辺りには鮮蝦餃(海老蒸し餃子)のいい香りが漂う。
「いただきます」
蓮音はあえて周りにも聞こえるような大きな声で食事の挨拶をした。
その声が聞こえたのか、公主の怒鳴り声が聞こえたのか、宮殿の中から、子どもが数名こちらを見ていた。
蓮音は温かな鮮蝦餃をふーふーっとすると一口で食べた。
「うん、おいしいっ!」
それを見ていた、一番小さな男の子が飛び出してくる。
「お、お前は何者だ? なんでここで食事をしている!?」
「わたしは彩華国から来ました珠蓮音と申します。こちらにお住いの皇子、公主様方と飲茶をと思いまして、参りました」
「じゃあ、どうして一人で食べているのだ!」
「はい、鬼の持ってきた食べ物は口にできないと蘭仙公主がおっしゃっていたので、こうして毒味代わりに食べてみせていたところです」
「姉上がか?」
男の子は門の前に立ってこちらを見ている蘭仙公主の方を見た。
「……これは、なんだ?」
「鮮蝦餃ですよ、昇露皇子様」
「僕は、昇露ではない。昇凪だ」
「それは大変失礼いたしました。昇凪皇子殿下。お近づきになった記念におひとついかがでしょうか? とっても美味しいですよ」
「で、でも、姉上が……毒が入っているかもしれないと……思っているのだろう?」
「では、今ここにある餃子を半分こしましょう。それでしたら安心ではないですか?」
「昇凪、絶対に食べてはダメ!」
この子たちがやたらなものを口にできないのは分かる。たくさんいた異母兄弟たちが、幼くして次々と消えていったのは、きっと食べ物が原因だったに違いないだろうから。
蓮音は新しい箸を取り出すと、小皿の上で餃子を半分に割った。中からおいしそうな汁がこぼれ出る。「うわぁ!」という小さな歓声とともに、子どもたちの目がそれに釘付けになる。
「どちらをわたしが食べましょうか?」
昇凪皇子は、蘭仙公主を見上げた。当然、彼女もこの美味しそうな餃子を目にして食べたい気持ちが強くなる。
「じゃあ、こっちよ」
「かしこまりました」
蓮音は指示された方を、自らの箸で口の中に運んで、もぐもぐと食べてみせた。
「うん、当然のことながら、おいしい!」
昇凪皇子は、再度、蘭仙公主を見上げた。
「し、仕方ないわね。ちょっとだけよ」
昇凪皇子は、小さな手で器用に箸をもつと、半分になった餃子をつまんで食べてみた。昇凪皇子は、驚いたような顔になると、慌てて今食べたものの姉に勧めた。
「んっ、おいしい! おいしいです、姉上! 姉上も食べてみてください!」
「……本当に? 何ともない?」
「はい! 大丈夫です!」
蘭仙公主は蓮音を見た。宮殿の中からは、黙って見ていた三人の公主と一人の皇子が小走りになって出てきた。「私も食べたい!」と書いてある顔で、じーっと鮮蝦餃を見つめた。
「皆様の分のご用意がありますよ」
蘭仙公主も、もう毒味をしろとかなんとか言うことはなかった。子どもたちは久しぶりにご馳走とも言えるような食事を口にしたのだった。
「ねえ、そっちには何が入っているの?」
「こちらには蛋黄酥(塩漬け卵黄パイ)と双皮奶(ミルクプリン)を用意してきました。こちらもどうぞ」
蓮音は皆に取り分けた後、子どもたちを安心させるために、自分でも食べてみせる。
「姉上! これも美味しいです! すごく甘い!」
「うわっ! 冷たくてプルプルだ!」
「公主様、皇子様方、鬼の食べ物はいかがでしたでしょうか?」
「鬼は、鬼の癖になんでこのような美味しいものを食べているのか?」
年少の昇凪皇子が聞いてきた。
「そうですね。わたしの国ではそれが普通だからです。誰でも好きなように美味しい食事をすることが」
「普通……」
先帝の子どもとはいえ、ここにいるのは元平民の下級妃の子ばかりだった。先帝の特にお気に入りの妃というわけでもなく、ただ戯れに手を出されて身ごもり、子を産んだ。
が、その後はほとんど放置状態で、昇昊の代になってもそれは変わっていない。昇昊の下級妃の食事もかなり貧相なのだ。となると、こちらも似たようなものだろう。
「もし、今日の食事がお気に召したのであれば、わたしたちと共に食事をいたしませんか?」
いつの間にか子どもたちの後ろには、遠巻きに様子を窺っていた下級妃や担当の宮女たちが集まって来ていた。
「皇后陛下にご挨拶申し上げます」
「初めまして。わたしにそのような挨拶は不要よ。そもそも、皇后じゃないし。顔を上げて」
蓮音に促されて、大人たちは顔を上げた。
「先ほどの話し、聞こえたかしら? よかったら、今夜から一緒に食事をしましょう。その前に、この住まいをもう少し何とかした方がいいわね。まずは、皆でお掃除をしましょうか」
先帝の妃と子らが住む宮殿は、後宮でも隅の方にあり、ほとんど忘れ去られていた。配置されている宮女の数も多くはない。
当然、広い庭の管理などに時間をかけている場合ではないのだ。
「皆でって、み、皆って誰よ!」
蘭仙公主が強気な問いかけをしてくる。彼女の暮らしぶりは決して豪勢ではないが、それでも公主の矜持がある。掃除などしたことはないのだ。
「今ここにいる全員と、わたしと、わたしの仲間を呼びますので、その全員でです。蘭仙公主様も含めて」
「はあ!? どうして私が!」
「母上様は先帝のお妃だったのだぞ、掃除など、下女のする仕事をするわけがないぞ!」
蘭仙公主と昇凪皇子は反論した。
「そうですね。そうかもしれません。確かに人にはそれぞれ与えられた役割があるのでしょう。ですが、今ここに先帝はいらっしゃいません。そのお慈悲も届いていないのが現状です。他人の好意にばかり甘えていてはいけません、公主、皇子。自らの暮らしは自らの手で向上させましょう」
「自分の手で……?」
蘭仙公主はつぶやきながら、自らの手に視線を落とした。
考えたこともなかった。公主とは、お姫様というのは、誰かがお世話をしてくれるものだとずっと思っていた。だが、実際に、思い描いたようなお姫様らしい生活はできていない。
今の自分は、ただ何かに期待して、誰かが何とかしてくれるのをずっと待っていた。例えば、皇帝となった兄が助けてくれるのをずっと待ち焦がれていた。
自分の暮らしは自分の力で変えるべきだという鬼の言葉に、公主も、皇子も、誰も言い返すことはなかった。




