第88話 後宮という場所
「いやいや、礼など不要です。食事などと気を遣わないでください」
蓮音に名前を問われた男はそう返答した。
「ただ、もしまたお困りのことがあれば、征南将軍、高 昇照の名を出してください」
「高? ということは、皇帝陛下の弟君?」
「ははっ、まあそういうことになりますね」
「あははっ、全然似てないですね」
「昇昊兄上と昇雲兄上にですか? 俺は根っからの武人なもので、あの人たちのように頭は回らないですよ」
「わたしも似たようなものです。では、高将軍、またお会いしましょう」
第四皇子の昇照は、昇昊たちとは母親が異なる。昇照の母は北黄帝国の将軍の娘だった。が、彼女の父や弟は、その立場にも関わらず、大昇帝国の初代皇帝側について戦った。
反乱を鎮圧すべき立場だった彼らが反乱軍側に加わったことで力の拮抗が崩れ、大昇側を勝利に導いたのだ。
その後、彼らは帝国の太尉の座にまで上り詰めた。後ろ盾という点で言ったら、昇照は成人している皇子たちの中では随一だった。
昇照は、直属の部下たちに蓮音たちを後宮まで送るように指示した。
昇照は、父の時代から続く、人や魔物を兵器のように扱うこの国の軍事方針があまり好きではなかった。だからか、己の力と技で勝負する蓮音には好感を覚えていた。
しかし、その女性は兄の嫁となるべくここにいるのだ。武人としても、一人の男としても実に惜しいと
感じていた。
(俺にくれないだろうか?)
蓮音は武に秀でた鬼姫なのだ。皇后となって後宮で静かに過ごすよりも、武人である自分の妻となった方がよほど似合うだろう。
鬼姫が将軍夫人であれば、今日のように一緒に狩りに出て、刃を交えて鍛錬し、共に馬を駆り戦場に繰り出すものを。
(まあ、頑固な昊兄がこうと決めたのだったら無理だろうな……)
昇照はそのようなことを考えながら、蓮音たちの後ろ姿を見送った。
皇弟である第四皇子が手を回してくれていたからか、蓮音たちは意外にもすんなりと後宮に戻ることができた。
後宮の門をくぐると大勢の女官たちが何やらこそこそ話しながらこちらを見ている。
「男に会うために? まあ、それは本当ですの?」
「殿下にも色目を使ったというじゃない……信じられないわ」
そういった声があちこちから聞こえてくる。
噂話を総括すると、こんなところだった。
蓮音は男が恋しくて後宮から脱走するも、第四皇子に見つかってしまう。そこで、男をたぶらかす天性の才と得意の色目を使ってその場を切り抜けようと試みる。だが、曲がったことが許せない第四皇子に諭されて泣く泣く後宮に戻ってきた――。
(なにそれ? 誰が考えた筋書きかしら? 面白いんだか、面白くないんだか……)
蓮音にしてみると女官たちに何と噂されようが痛くもかゆくもない。
それに蓮音の男は、噂とは異なり、蓮音が脱走しなくても後宮だろうがどこだろうが、向こうから会いに来てくれる。
花を携えて、口づけをするために。
娯楽の少ない後宮という箱庭の中で、女官たちが自分をネタにおしゃべりに花を咲かせることで少しでも憂さ晴らしができるのであれば、むしろ万々歳である。
蓮音たちは衆人環視の元で、堂々と自分たちの屋敷へと戻って行った。
「今日は大猟! ご馳走だよ!」
上機嫌で部屋に入ると、下級妃たちが読み書きを習っているところだった。まずは自分たちの名前を読めて、書けるようにすることから始めていた。
蓮音にはなんだか懐かしい光景が浮かんできた。
(そういえば、剣護にも名前を書いて教えてあげたな。あれ、何に書いたんだっけ?)
そうだった。手巾と紙に書いた気がする。蓮音は、その時の手巾と本が開国の城にある剣護の宝物庫の中に大切に保管されていることはまだ知らない。
下級妃たちは読み書きを学びながら、まずは料理や裁縫の腕を上げるべく明鈴たちを手伝うことになったらしい。
料理の腕が上がれば、同じ食材でもよりおいしく食べられるようになるということは、彼女たちにはかなり衝撃だったらしい。
今日から早速料理の勉強をすべく、蓮音たちが取ってきた食材を持って、厨に向かった。
また、下級妃たちから話を聞く中で、宮女たちの生活環境は下級妃とは比較にならないぐらい過酷なことがわかった。
「……それでも、私たちの生活はまだましなほうなのです」
「最初は私たちだって夢を持ってここに来たんです。だけど、現実を思い知らされました。周りは美しい人ばかりでしたし。女官長様に選んでいただけて、下級妃となれたのは幸いでした」
「確かに……こうして下級妃になれたことで、きつい仕事と先輩方からの嫌がらせからも解放されましたし……宮女のままだったらと思うと……」
「嫌がらせ? そんなことが……」
宮女はただの下働き要員ではなく、皇帝の所有物――いわば将来の妃嬪候補でもある。
健康であることに加えて、容姿が優れていることが後宮入りの条件となる。だから、後宮に入りたての新人宮女は、一様に若く美しい。
閉ざされた環境下で夢も希望もない生活をしていれば心も歪んでくる。ちょっとしたことで誰かを妬み、誹り、いじめることで憂さ晴らしをしようとする。
「先代の皇帝の時代は、それでもまだ良かったんです。なんと言うか、皆が『自分も妃嬪になれるかもしれない』という希望を持っていましたから……」
先の皇帝は好色の絶倫男だった。暇があれば自ら後宮の美女を物色して回るのが日課だった。いつ皇帝の目に留まるかわからないとなると、後輩いじめなどしている場合ではないからだ。
一方の昇昊は、側室を一人たりとも自分では選んでいない。
後宮を歩き回り、「どの美人にしようかな」と好みの女を探し回ったことも一度たりともないのだ。行けと言われた女の元に、ほとんど渋々行っているだけだ。
だからか、昇昊の代になってから、いじめの陰湿さが増しているようだった。
この広い後宮の中において、昇昊が自らの意志で赴いたことのある場所、それは蓮音のいる宮殿ぐらいだった。
「ああ、もう、こんな場所、壊してしまいたくなる!」
蓮音は後宮という女の牢獄のような場所に、心底吐き気がした。
「とにかく、何らかの対策が必要ね……。現状では下級妃も宮女もいわば紙一重だものね。皇帝の寵愛の有無で、その後の明暗が大きく分かれるのはおかしいもの」
昇昊にしても多くの妃嬪たちとの閨を楽しみたいわけでもなさそうだ。いっその事、後宮の規模を縮小することはできないだろうか。
あとは、とにかくいじめを減らす対策を考えなければならない。
まずは、いじめを許さないという姿勢をしっかりと見せること。あとは、後宮の風通しを良くして、不満を減らすことだろう。
「皇帝陛下の御成りです」
中級妃たちとおしゃべりをしながら今後のことについて相談していると、定番の宦官の声が聞こえる。蓮音は立ち上がると、今度こそ昇昊が部屋に入る前に扉の前で出迎えた。
「お肉と果物がもっと食べたかったのですみませんでした」
先手を打って先に謝罪しておく。
「大勢で集まるから足りなくなるのでは?」
いつものように嫌味を言われるが気にしない。
「それとこれとは別の話です。ところで陛下に大切なお願いがあります」
「お前の願いなんてろくでもないことだろう?」
「それは聞いてから判断してください」
そういうと、蓮音は昇昊の妃嬪、主に下級妃を整理したいこと、それに伴い後宮の宮女の数も減らしたいことを伝えた。
皇帝の代替わりに伴い、後宮そのものはかなり縮小されたとはいえ、まだまだ大所帯だ。人手そのものは余り気味でありながら、どういうわけか仕事が行き届いていないというのが今の後宮だった。
後宮再編によって、本当に必要な人物だけをここに残す。後宮内での仕事そのものの効率を上げるとともに、市井の嫁不足の解消も図ろうという、意外とまともな提案だった。
「……好きにしろ。ただ、あまり女官長を困らせるな」
「はい! あ、そういえば、明日はここに来ないでくださいね」
「どうしてだ?」
「明日は別の場所でご飯を食べようと思っているので。では、陛下も早く秦修儀のところに行ってあげてください。良い夜を~♪」
蓮音は言いたいことだけ伝えると、昇昊を振り返ることなく、飛び跳ねながら部屋へと戻っていった。
(あの女、俺のことをこれっぽっちも夫だと思っていないな……)
それでも、昇昊にとって、毎夜蓮音の元に文句を言いに行くことは数少ない楽しみとなっていた。できることならばもう少し話がしたい。
明日は何をしでかすのか。そのことをどう言い訳してくるのか。それに、どう言い返してやろうか。
昇昊は今日も憂鬱だった。彼の従兄妹でもある秦修儀は、亡くなった自身の母を思い起こさせるのだ。
生真面目で不器用な女性だった母は、特に長男である昇昊には非常に厳しかった。
昇昊がここまで妃嬪の家柄や能力にこだわるのは、皇太后一派への対抗策という側面もあるが、それ以上に母の影響が大きい。
皇帝とその側室という立場でなければ、生真面目で、常に真顔でクスリとも笑わない従妹とももう少し親しくできたのだろうか。
そういえば蓮音も彩華国の国王とは従兄妹同士だ。二人はどんな関係なのだろうか。国王は温厚な人物だと聞くし、人たらしのあの女のことだ、きっと仲良くやっているのだろう。
そんなことを考えながら、昇昊は輿に揺られて秦修儀の元へと向かうのだった。
「ここに来ていただけるとは思っておりませんでした……」
秦修儀は伏したままだった。昇昊が「顔を上げろ」と言わない限り、きっとこのままなのだろう。
「いつまでそんな姿勢でいるつもりだ……」
「も、申し訳ございません、皇帝陛下……」
顔を上げた秦修儀は、思った通り、真面目な表情をしていた。「俺とお前は従兄妹同士だろう? そんなに畏まるな」そう言ってやれば、この従妹も笑顔を見せるのだろうか。
「……お前は、鬼姫をどう見た? 会ったのであろう?」
「あっ……その……大変ご立派なお方かと……存じます」
「……そうか……」
それだけ返すと、昇昊は寝台にごろりと横になった。
秦修儀はいつまでもその場に座ったままだった。




