第85話 下級妃――三十三人の御妻
昇昊の後宮には、現在、三十三人の御妻がいた。御妻は、夫人、嬪、世婦に次ぐ皇帝の妃の身分の一つであり、いわゆる下級妃にあたる。
内十二人は昇昊が皇太子だった頃からの側室で、残りの二十一人はここ一年の間に閨に召された娘たちだ。いずれも平民出の娘だった。先日、皇帝が蓮音を迎えに行った際、同行していた三人の女性たちもこの中から選ばれた者だった。
王侯貴族の気取った姫に飽き飽きした身分の高い男が、素朴で心優しい平民の女性に恋をするという話が巷では流行ってもいるが、昇昊はかなり徹底した血統至上主義者だった。
女官長が用意した見栄えのする平民の娘たちに心を奪われるどころか、ほとんど見向きもしなかった。
この娘がダメならば次、それもお心を射止めることがないのであれば、また次と、女官長は手を変え品を変え、少しずつ雰囲気の異なる美女を昇昊の閨に送った。だが、彼の反応はいまいちだった。
少なくとも昇昊が自ら名を挙げ、複数回に渡りお声がかかった娘は皆無だった。ただ、この中の三名は、自ら志願して何度か夜伽の相手をしているらしい。
この三人は、一言で言うと野心家だった。街や村で評判の美人だった彼女たちは、皇帝に見初められることを夢見て、ここ後宮の下女となった。そして目論見通り、女官長の目に留まり、夜伽に呼ばれたのだ。
皇帝の側室となったからには何としてでも子を産んで出世をしたい。女官長や宦官長に頼み込んで皇帝のお世話係として西の関所までもついて行ったのだ。
だが、残念ながら彼女たちの思惑とは異なり、昇昊に呼ばれることはないまま後宮に戻ってきていた。
結局のところ、下級妃が一年余りの間に二十一人も増えてしまった。だが、一番の目的であるお世継ぎをいまだ授かれずにいるのが実情だった。
蓮音は、下級妃たちが恐縮して本音を話せないことがないようにと思い、平民出身の万梅を同席させることにしたのだ。
部屋を出ようとしたところで女官たちに妨害され、少し遅くなってしまったが、蓮音は茶菓子を手に万梅とともに下級妃の宮へと向かった。
「下級妃とはいえ、こんなところに宮があるとは……。随分と不便な場所よね……」
「それに、見たところ、庭も建物も全然手入れが行き届いてないようですね……。後宮にはたくさん人がいるのに、一体何をしているのでしょうかねぇ……」
四合院造りの建物が四つあり、それぞれに八名もしくは九名が住んでいた。専属の侍女はなく、通いの宮女数名が食事の支度や掃除などの身の回りの世話をしていた。だが、それも最低限にとどまっていた。
門をくぐると万梅は、「蓮音姫様のお越しである。婕妤十二名は順番にこちらにくるように」と声をかけた。
厨から宮女と思しき女性が慌ただしく出てきて、中央の客間に蓮音たちを通してくれた。
しばらくすると婕妤の一人目がやってきた。
整った顔立ちで、素直そうな美しい容姿の娘だった。相手が昇昊でなかったならば、彼女は夫に愛され、穏やかな家庭を築いていたかもしれない。
蓮音は万梅にお茶を入れさせ、茶菓子をだした。彼女たちにとってはほとんど口にすることのないような花を模った花酥だ。
「まずはおひとつどうぞ」
蓮音は茶と茶菓子を勧めた。彼女はそれを宝石でも見るかのような目で眺めた後、蓮音と菓子を交互に何度か見る。
蓮音は優しく微笑み、「さあ、どうぞ食べて」と言っているかのように頷いてみせる。
下級妃は恐る恐る茶菓子に手を伸ばすと一口食べ、そのまま夢中で頬張るとすべて平らげていた。
「あなたの普段の暮らしぶりと今後の希望を聞かせて。できる限り善処したいと思っているから、本音を教えてほしい」
彼女が十六歳で昇昊に最初に召されてから五年近くがたっていた。その間、次はなく、ずっと部屋の片隅で時間が過ぎるのを待つだけの日々だった。
後宮に来てからもそれは変わらない。ただ、そんな現状でも彼女には不満はなかった。
「私は、これまで通りの生活を希望します。どうかこのままこちらにいさせてください」
まさかの答えだった。
時の権力者の妃嬪とは名ばかりの存在で、これだけ誰にも省みられることなく長年放置され続けてきたのだ。この先も妃嬪として出世する見込みも薄いのに、なぜこの環境に留まりたいと思うのかと、蓮音は驚きを隠せなかった。
昇昊を恐れて何も言えないのか、それとも本当にこの生活で十分だと思っているのか。
「ここでの会話はわたしたち以外、誰も聞いていないから本音を教えてほしい。もしかして、皇帝のことを愛しているの?」
「……申し訳ございません。ですが、そういう訳では。ただ……」
「ここに来る前は、いつどこで人買いに攫われるかわからない状況でしたので……」
整った顔立ちの女性だ。当然、市井にいたことには、何度も危ない目に遭っていた。攫われた後、売られる先もどこになるかはわからない。よい主人に巡り合えるかもしれないが、もっとひどい男の妾にされる可能性だってある。
「それに、ここにいれば空腹でひもじい思いをすることはないので……」
「えっ? 配給は? もらえてないなんてあるの?」
「配給はありました。でも、正直言って、全然足りなくて……」
ここでの食事は決して豪華ではないが、空腹に苦しむ必要もない。それだけでも、彼女にとっては十分恵まれていると言えた。
蓮音には酷いと思える生活も、彼女にとってはずっとマシだというのが普通に衝撃的だった。
彩華国の国民だったら、こんな生活耐えられない。親のいない孤児だって彼女たちよりもずっといい暮らしをしているのに。
「さっき、食べたお菓子、おいしかった?」
蓮音は話題を変えた。
彼女は少し涙目になりながら、
「はい! 今まで口にした食べ物の中で一番おいしかったです」
と素直に答えた。
「じゃあ、もっと食べて、よかったらほかのも食べてみて」
「えっ、でも……」
彼女は少し遠慮していた。
「あなたがたくさん食べても大丈夫。足りなくなったらまた作ればいいから」
蓮音に促された妃嬪は、菓子に手を伸ばした。彼女が食べ始めたのを見て、蓮音は続けた。
「わたしの国ではね、孤児だって、それくらいのお菓子ならばいつでも食べてるのよ」
「えっ?」
花酥を頬張っていた彼女の手が止まった。
「親がいようといまいと、どのような家庭に生まれたとしても、子どもは皆等しく教育を受けて、たくさん遊んで、たくさん食べて育つの。そして、大人になったら今度は皆で次の子どもたちを教育して、食べさせるべく働く。それがわたしの国。ね、万梅」
「はい、わたしは彩華国の生まれではないのですが、かくいうわたしも親に捨てられ妓楼に売られました。それを姫様が、彩華国が救ってくれて、しっかりと教育を受けて、今では姫様の侍女になれました。好きなものを食べて、おしゃれも楽しめて、やりがいのある仕事に恵まれて、満足でしかないです」
菓子を食べる手を止めて話に聞き入っていた婕妤の目に明るい光が差したようだった。
「あの、ということは、私も、姫様の国に生まれていたら、万梅様のようになれていたのでしょうか?」
「もちろん。というか、今からでもなれる。あなたがその気になるならば、まだ全然遅くはない」
「ですが、私にそのようなことが可能でしょうか……」
「もし、よかったらだけど、まずは日中わたしの部屋に来て、万梅たちの仕事を手伝いながらあなたの学びたいこと、これからやってみたいことを考えてみない? 報酬はとりあえず、おいしい食事と茶菓子でどう?」
それまでどこか表情の薄かった婕妤の目には、希望の光が宿っているように見えた。
「やります。ぜひ、やりたいです! どうかお願いします」
「うん、じゃあ決まりね」
その後、蓮音は残りの婕妤たちとも面談を行った。蓮音の申し出に戸惑いながらも、昇昊に呼ばれることのない者たちは皆、日中蓮音のところで侍女の仕事を手伝うことになった。
ただ西の関所で顔を合わせた三人は昇昊の側室であることを諦めきれないようだった。
「私は……それでも皇帝陛下にお仕えして、いつか、我が子を授かりたいと……仮にお世継ぎとして認められなかったとしても構いませんので……」
「あなたの気持ちはわかった。そういうことであれば、夜伽の候補に加えてほしいと女官長に伝えておこう」
「ありがとうございます」
夫となった男との間に子を持ちたいと願う彼女たちの気持ちもわからなくはない。無理に従わせるのも野暮というものだ。蓮音は彼女たちの意向を尊重することにした。
蓮音と万梅は女官長のところに立ち寄って、妃嬪たちとの顔合わせの報告を行った。そして、この先の夜伽に関しての提案もした。
「確かに、そのほうが効率はいいやもしれませぬ。お妃さま方がそれで納得されているのであれば……」
夜伽の順番は、妃嬪にとっても今後の自分の立場を左右する、死活問題である。
主上の寵愛という、ある意味では文句をつけにくい基準があればよいが、そうでないならば単純に身分順とすれば不満が生じにくい。そのため、これまでの後宮はその基準に従っていた。
だが、結果的に見れば、世継ぎどころか一人の子も産まれていないのだ。
「だとしても、一人も、一度も懐妊をしていないというのも不自然な気がするな……」
「いえ、過去にお一人だけ、ご懐妊なさった妃嬪がいました」
蓮音は初めて、昇昊の最初の妻の話を聞いた。
「なるほど。そのようなことが……。この後宮は想像以上の伏魔殿のようだな」
貴妃が毒を用いているという噂の真相は不明だが、その後、一人も懐妊していないというのはさすがに疑問である。
きっとこの後宮には、妃嬪の妊娠を妨げる何かがあるのだろう。
「本当に、ここは恐ろしい場所だ……」
誰に同意を求めるわけではなく、蓮音の口からは自然とそんな言葉が漏れるのだった。




