第81話 後宮にやってきた鬼
宦官の声を聞いて、皇帝を出迎える心の準備をする前に、昇昊がズカズカと門をくぐってやってきた。
燕修媛たち三人の側室は昇昊から目を背けると、明らかに怯えていた。蓮音は彼女たちを庇うように前に出ると、喧嘩腰に話しかける。
「陛下はお忙しいので、今日は会えないって言われてたんですけど、実は暇なんですか?」
側室たちは蓮音の態度を見て、さらに震え上がった。あの恐ろしい皇帝にかける一言がコレなのかと。
「暇ではない。これから趙昭儀のところへ行く」
昇昊は面白くなさそうな顔でそう告げた。
「だったらさっさと行ってあげてくださいよ。これから趙昭儀を口説きに行くのに、そのついでにほかの女のところに寄るなんて彼女に対して失礼では? 礼儀がなってません、礼儀が!」
(口説きに行くわけではない。義務を果たしに行くまでだ)
「ほお、淑女の片鱗もない、非常識極まりないそなたが礼儀などという言葉を知っていたとはな。何のために俺がここに来たかわかっているだろうな。俺に足を運ばせたくないのであれば、厄介ごとを起こすな。大人しくしていろ」
「えっ、何かありましたか?」
蓮音はわざとすっとぼけた顔をした。だが、すぐに、表情を変える。
「と言いたいところですが、もう燃やしませんから。……まぁ、当分は。それよりもわたしの大切な人たちを早く返してください」
蓮音は片手を腰に当て、右手を差しだしながら強く抗議をする。当然、昇昊は取り合わない。
「それはそなた次第だな。そなたが立場に相応しい振る舞いをし、従順にしているのであれば、人質の姫たちには会わせてやらなくもない」
「そうですか。じゃあ、人質の姫たちは、後宮中をひっくり返してでも、こちらで勝手に探しますので。もうあなたと話すことはなーんにもないですね。どうぞ楽しく、燃え上がるような夜を!」
蓮音は笑顔でシッシッと手を振り払う仕草をすると、昇昊はムッとした顔つきで去っていった。
不機嫌そうな顔つきの昇昊だったが、内心は意外にも愉快だった。
後宮に入ったその日に、宮殿に火を放つ女――それも草刈り代わりに。そんな女、この女の他にはいないだろう。
(そなたは俺の不興を買うべくそのようなことをしているのだろうが、俺にとっては逆効果だぞ、鬼姫よ)
どうでもいい女の閨に赴かないといけないのだが、昇昊の足取りはいつもよりもずっと軽かった。
「陛下のお渡りを、お待ちしておりました。どうか私の筝の音でお心を癒してくださいませ。これから演奏いたします曲『帝王礼賛唱』は、黄帝国最盛期の帝王と称えられし第三代英宗皇帝の時代から、口承にて我が趙家に伝えられたものでございます。百年の昔から今の陛下の治世にまで伝わりました古式ゆかしい楽曲にございます。在りし日の聖王の栄華に思いを馳せながら、その時の栄光が再び陛下のものとなりますようにと祈りながら奏でさせていただきます」
趙昭儀に出迎えられた昇昊は席に座ると黙って酒を飲んだ。昭儀は長い長い説明の後で、箏を奏でだす。
この女は、いちいち無駄な説明が長いのだ。そして、やたらと伝統と格式を重んじる。
昇昊も血統を重んじる人間だと思われているが、それもこれもこの趙昭儀のような血統主義者が未だに帝国の宮廷でも幅を利かせているからである。
一言で言うと「目ざわり」だ。
(この女は、どこかで俺を野蛮な武人風情と見下している)
音楽とは人の心を癒し、時には鼓舞するものだと言われる。それにしても、この女の奏でる筝の音が、まるで心に響いてこないのは何故だろうか。
そう言えば、広幹平野の古戦場では、鬼姫が天女のような歌を歌っていたと別駕の田豊実が報告をしてきた。
音楽など、武人である自分には無縁のものと思っていた。
だが、田別駕の話を聞いて、あの鬼の歌声は、天上の響きがするに違いないとなぜか確信していた。
「……一度、聞いてみたいものだ……」
思わず、本音が漏れる。
「もう一曲、ご所望ということでよろしいでしょうか? では、次なる曲は……」
趙昭儀は得意気に次の曲の説明を始めた。
一方、三人の妃嬪は、侍女たちも交えて大人数で食事をしていた。
「先ほどはどうなるかと思いましたわ」
「……姫様は、皇帝陛下のことが怖くないのですか?」
「あの男が怖い? まあ、随分と愛想のない顔はしているとは思うけど」
昇昊が妃嬪たちとの房事は義務だと言い張っていたことを思い出す。自分に対する当てつけだけではなく、昇昊自身の本音だったのだと痛感する。
「あの男は、自分の妻に対して甘い言葉の一つも言えないわけ?」
三人の妃嬪はお互いの顔を、気まずそうに見合った。
「私はそのように感じられるお言葉をいただいたことは、残念ながらありませんわ……」
「私のところにお見えになる際も、陛下はいつも怒っていらっしゃるようで……」
「同じくです。私は刺史の養女に過ぎないので、陛下は私をお気に召していらっしゃらないのかと……」
蓮音はやれやれとため息をついた。
「ごめんなさいね。この話題は変えましょう。せっかくのお食事だもの。楽しくいただかなきゃ。食材や調味料が違うので完全にとはいかないけれども、我が彩華国のお味はいかがかしら?」
「なんだかとても懐かしい味がしますわ。彩華国は、私の国とも近いので、祖国を思い出しました」
斉充儀が感慨深そうな、だけど少し淋しげな瞳をしていた。
「そう、それはよかったわ! せっかくだから、三人とも、それから侍女たちも、この先もここに食事にきたらどうかしら?」
「本当に、よろしいのですか?」
「もちろんよ」
食事が終わると側室とその侍女たちは、名残惜しそうにそれぞれの部屋へと帰っていった。
蓮音は、本人が望むのであれば、彼女たちもこの後宮から連れ出してあげたいと思っている。妃嬪たちの境遇はあまりにも不憫すぎると感じていたからだ。
今日のところはもう休もうと思い部屋の戸を閉めようとしたら、「娘々」といって少年宦官の九郎が堂々と部屋に入ってきた。
「もう、みんなの前であんなことして、バレたらどうするの?」
「大丈夫だよ、何とでもなる」
剣護少年は本当に何とでもないかのように余裕顔だった。
「はあ、もう……そもそもどうやって宦官になりすましたの? あなたの体って一体どうなっているの??」
「あなたが一番気になっていること、確かめてみる」
そう言うなり、下半身を密着させるように抱きしめてきた。
「あっ……」
ある……。あるのだろうとは思っていたけれども、やっぱりあった。
「あの、その姿だとなんとなく落ち着かないから、いつものようになってくれる?」
そうお願いすると、剣護は、口角を少し上げて、「娘々は大きいほうが好きなんだったかな?」と魔王の姿になった。
「それから、情熱的な口づけをする大人の男がいいんだっけ?」
色気たっぷりの流し目で蓮音を見つめてくる。
「あれは、その……」
言い訳をしかけたところで、剣護に口を塞がれた。
予告通り、情熱的に。
「あなたがどこにいようと、決して一人にはしない。だから安心して。あなたは思うがままにすればいい。俺がついているから」
「うん……」
蓮音は澄んだ瞳で微笑んだ。彼の心強い言葉と眼差しにはいつも励まされる。
本当にこの人と出会えてよかったと心底感じながら、蓮音は剣護のよく鍛え上げられた胸にそっと身を寄せていた。
◇ ◇ ◇
翌日、蓮音は朝から妃嬪たちの挨拶を受けていた。
まずは下級妃の二十二名が挨拶にやってきた。彼女たちのほとんどが平民であり、昇昊の夜伽に複数回呼ばれた者はほぼいないらしい。
彼女たちは皆、似たような服装をしていた。下級妃とはいえ、皇帝のお妃とは思えないほど質素な装いなのだ。
皇后となる女を品定めしようと、挑むような目でこちらを見ている者もいたが、大半は恐れるように首を垂れ、顔を上げられずにいた。
彼女たちの身なりや態度を見ているだけで、この国における身分の重さが伝わってくるようだった。
蓮音は、この先全員と一人ずつ面談をするから、暮らしぶりや今後の要望などをよく考えておくようにと伝えた。
「はい、かしこまりました。皇后陛下」
多くの者は、まともに蓮音の顔を見ることなく、平伏したままだった。
「鬼姫でいいわ」
蓮音は二コリと笑った。
「はいっ?」
それまでほとんど伏したままだった女たちがほぼ一斉に顔を上げた。まさか、自ら「鬼」と名乗るとは。
「わたし、まだ皇后じゃないし。というか、そもそもほかに好きな人がいるから、皇后にはなるつもりもないし」
「えっ?」
「今なんと?」
蓮音の発言は、下級妃たちの常識ではまったく理解ができなかった。
「だから、鬼姫でいいわ。覚えやすいでしょ?」
目の前の鬼は、鬼らしく信じがたい発言をすると、鬼らしからぬ笑顔で笑っていた。




