第49話 二人きりの秘境にて
三人の間者が一行に加わってからは、魔物と数回遭遇したものの盗賊や暗殺者に出くわすことはなかった。この結果は、三人が間者の可能性が高いことの裏付けになり、人を疑うのが苦手な蓮音も、三人には警戒しないといけないと考えるようになった。だが、彼らがいることで、盗賊や暗殺者を避けられるのであれば、この者たちを利用しない手はない。
その日着いた町は、それほど大きくなく、質素な宿しかなかった。蓮音は全く気にしなかったが、ちょうど魔王が遊びに行かないかと念話で声をかけてきた。三人の間者の話も伝えておきたかったし、香隠たちが行くように勧めてくれたので蓮音は魔王の誘いに応じた。
蓮音は香隠が魔王との関係の後押ししてくることが少し意外だった。だが、それだけ魔王の実力を認めている証でもあるのだろう。炎刃隊きっての実力者である香隠が「行ってくるといいですよ」と言ってくれることが、蓮音にとっては何よりも心強かった。
蓮音が留守にしている間、何度かあの三人が部屋に蓮音を訪ねてきたが、「姫様はお疲れでお休みです」といって万梅たちが追い返した。
魔王は、山奥の秘境にある、石灰棚が幾重にも重なった温泉池に蓮音を連れてきた。石灰棚の白と周りの木々の緑、空色の水の対比が実に幻想的だ。話には聞いたことがあったが、こんなに美しい場所とは。そのうえ、このような秘境に転移魔法でサッと移動できてしまう魔王の魔力は一体どれだけあるのだろうかとも思った。
足湯はどこに? と思ったら、その石灰棚の温泉池に入ることもできるらしい。池はどこも水深が浅く、普通に歩いて入れるというのだ。水深が浅いとはいえ、あたり一面水なのは少し怖い気もするが、魔王が一緒なのだ。何も恐れることはないと思い、蓮音は池に入ることにした。
魔王は黒い長靴を脱ぎ、袴の裾を膝のところまで捲り上げた。蓮音も靴を脱ぎ、裳の裾を帯に挟み濡れないようにした。
普段は隠れていて見えない蓮音の白い足やふくらはぎが視界に飛び込んでくる。魔王ははっと息を飲んだ。吸い寄せられるように目がそこに行ってしまう。が、見続けると理性的ではいられなくなると思い、誤魔化すように遠景の山に視線を向けた。
魔王は先に池に入り、水深が深くないことを蓮音にわからせたうえで、手を差し伸べた。蓮音は恐る恐る魔王の手を取り、温泉池に足を踏み入れる。温泉池の温度は冷たくもなく、熱すぎず、じんわりと温まる心地よいものだった。
「あっ」
水に足をつけることに緊張していたせいか、動きがぎこちなくなってしまい思わず魔王の胸に倒れこんでしまう。当然、魔王は蓮音をしっかりと受け止めた。
魔王のたくましい胸に顔を寄せたとき、ふと慣れ親しんだ香りがした。蓮音がいつも身につけている香嚢の香だ。
一方、魔王は魔王で蓮音を抱きとめたときにとても柔らかい二つのものが体に触れ、余裕を装っていたが、その実、身体が硬直していた。
蓮音は体を魔王に預けたまま顔をあげて魔王をじっと見つめた。魔王の目元は仮面で隠されていてよく見えないのだが、きっと魔王も蓮音をじっと見ていたに違いない。
たったの数秒だったとは思う。風の音しか聞こえてこない静寂に包まれたその場所では、時まで止まってしまったかのようで、二人にはその時間がこの上なく長く感じられた。
蓮音に見つめられていることに気が付き、魔王は我に返る。
「大丈夫だろうか? やっぱりやめておく?」
「ううん、大丈夫。今、戻っちゃったらすごくもったいない」
声をかけられて蓮音も我に返った。そして、ゆっくりと魔王から体を離した。体を離しながら、蓮音は、その行為がとても惜しいと感じていた。
(わたしは李公子のことがあんなにも好きなのに、この人の胸にずっと縋り付いていたいと思うなんて……。水が怖いから? それとも、この人だったら今のようにきっと何でも受け止めてくれるから?)
いろいろな現実から逃げて、この美しい秘境でこの人と二人でずっといられたら、それでもいいかもしれない、そんな気持ちさえも湧き上がってくる。
蓮音は魔王に手を引かれて、というかほぼ魔王の腕に縋り付きながら浅い温泉池の中をゆっくりと歩いた。
少しすると余裕が出てきて、周りの景色に目をやることもできるようになった。遠くの山には大きな滝や古刹も見える。だけど、人の気配は全くない。日暮れが近づき、水面の色が透き通るような空色から深い橙へと変わる。この景色を二人占めしているなんて、なんて贅沢なんだろうか。
魔王は時々こちらを気にしながらゆっくりと蓮音の手を引いて導いてくれていた。気が付いたらさっき見えた古刹の近くに来ていた。ようやく魔王が口を開く。
「よかったら、そこで食事をしていかないか?」
魔王によると、その古刹はずいぶん前に廃墟となったようなのだが、最近彼が手を入れて直したのだそうだ。今ならば山々に沈む夕日を眺めながら食事ができそうだ。蓮音は小さくうんと頷いた。
池のほとりまで来たら、魔王は「失礼」といって蓮音を抱き上げて、近くにあった長椅子に座らせた。そこにはしっかり足を拭くものまで用意されていて、魔王は蓮音の前に跪くと丁寧に足を拭いて靴を履かせてくれた。
池に面した部屋の窓は大きく開かれていて、素晴らしい眺望だった。窓の前の大きな卓の前には、眼前の風景に溶け込むように大型の睡蓮鉢が置かれていて、八重咲の蓮の花が清らかに咲き誇っていた。
「あなたの名前に『蓮』を使ったご両親の慧眼は素晴らしいな」
自分でも気が付かないうちに蓮の花に目を奪われていたらしい。魔王の一言で現実に引き戻される。
「うん……こうして蓮の花を眺めていると、とても心が落ち着くな……。にしても、蓮の花は水が大好きなのに、わたしはそうじゃないのがちょっと悔しいな。名前負けしているみたいで……」
「そんなことはない。きっとあなたも名前の通り、水の上でも気高く、美しく咲き誇ることができるようになるさ」
(あなたが側にいてくれるならば……)
蓮音は自分の心にわいてきた言葉に少し驚いた。恐ろしい水の上に一緒にいてほしいと思った人が、どうして隣にいる魔王なのだろうかと。
(わたしって、もしかしてめちゃくちゃ惚れっぽい性格なのかしら……)
窓から吹き込んでくる涼しい夜風に、蓮の花はゆらゆらと静かに揺れていた。
今日は魔王は薬膳料理を用意してくれていた。大袈裟なぐらい気が利く魔王といるとほっとする反面、なんとなく申し訳ない気持ちにもなった。どうして自分は惚れてはいけない人に心惹かれてしまうのだろう。
蓮音はここ最近あったこと、あの三人のことを魔王に報告する。
「もし、そいつらがあなたに何かするようだったら、俺が始末する」
魔王は、李公子が口にしていたようなことを言う。
(あれ?)
魔王の台詞を聞いて、蓮音はちょっとした違和感を感じた。
魔王が「始末する」というのはわかる。というか、その言葉がものすごく似合っている。でも、李公子には「始末する」なんて言葉は似合わない気がする。
香隠も「始末する」と言いそう。だけど、蒼迅は多分そういういい方はしない。
「ところで、小虎は本当にいつも一人で食事をしているの? たまには獅子将軍とご飯を食べてみたら? きっと楽しいと思うけど」
「あいつと? あんなバカと食事をして楽しいわけがない。それにしてもあなたは豪毅が相当気に入っているんだな。少し妬けるな」
少しどころか、実のところものすごく腹立たしい。
(獅子将軍をバカ呼ばわりする人がここにも……。というか、もしかすると小虎のほうが元祖なのかもしれないけど)
「この前会った小虎のところの幹部の中で、一緒にご飯食べて一番楽しそうなのが獅子将軍かなって思って。サイードさんは腹に一物抱えてそうで油断できなさそうだし、銀狐族の人は本音で話してくれているのかわからなそうだし。ああ、そうだ、あの背の高い美人の人は?」
「英姫のことか? 彼女はただの女官長だ。長ではあるがそれ以外の理由で特別視するつもりはない」
「じゃあ、あのドワーフの人は?」
「あいつは大酒のみでうるさくて敵わん。当然、お断りだな」
「あはは……」
これはこれは、魔王様は随分と好みが激しい。蓮音は苦笑いする。
「俺はやっぱりあなたがいい」
そんな言い方されると勘違いしてしまいそうになる。それにいつまでもこんな風に魔王と二人で食事をするなんてできない。あと十日もしない内に蓮音たちは大昇帝国の国境についてしまうのだから。
でも、蓮音はそれを口に出せずにいた。
自分を気に入ってくれているらしい魔王を傷つけたくないというよりは、蓮音自身も魔王と二人の時間を手放したくないという気持ちになってきていたからだ。
つい先日、あんなに李公子が好きだと自覚しておきながら、もう別の男が気になっているなんて……。しかも、そのどちらも選ぶことなく、このままいくと自分は別の男と結婚するのだ。
李公子に好きだと伝えたら、彼は何と返してくるだろうか。やっぱり、「ほかに好きな女性がいるから、ごめん」と言われるのだろうか。そう考えてみると、あっちだって、こちらの好意を利用しているようなものではないか。少し腹立たしい。
魔王に、あなたのことが気になると伝えたら?
「昇昊には渡したくない」
そう言ってくれる気がする。しかも、本当に実力行使しそうだ。少し困るけど。でもちょっと嬉しくもある。
(わたしってば、なんて嫌な女になってしまったんだろうなぁ……)
そう思いながらも、蓮音はもう一度目の前の男をじっと見つめた。
いつの間にか日も沈み、あたりは暗く静まり返り、遠くの山で獣が鳴く声が聞こえていた。




