第40話 看病――嵐の後の朝
どんなに雑念を払おうとしても、蓮音の姿が瞼の裏にまでくっきりと浮かんでくる。こうなったら、一度、開に戻って変装を解こう。魔王の膨大な魔力をもってすれば、これしきの効果、いくらでも払拭できるだろう。そう思い、転移魔法を使うべく、周りを確認すると、なんという偶然か、蓮音が目の前に姿を現した。
(ああ、これは、幻ではない、本物だ。今、彼女に会ったらマズい)
「どうしたの? 大丈夫?」
びしょ濡れで座り込んでいる剣護をみて、蓮音が駆け寄ってくる。
「娘々、来ちゃ、ダメだ……俺、僕に近づいてはいけない!」
「どうして? 何があったの?」
近づいてみると、剣護が見たこともないようなぐらい苦しそうにしている。息も荒く、顔も赤い。額に触れてみるとすごく熱い。胸元の着物が一部破けている。そこを強く鷲掴みにした際に破れたのだろう。
「ダメだ、部屋に戻るんだ……このままじゃ、あなたに何をするかわからない」
蓮音は、剣護が熱に浮かされておかしくなっているのかもしれないと思った。
「そう言われて、はいそうですねって、放っておけるわけないでしょ」
剣護に肩を貸すと、蓮音は自分の部屋に連れて行った。とりあえず、濡れている着物を何とか脱がせる。好きだと気が付いてしまった男の服を脱がせるなんて、どうにかなりそうだったが、今は緊急事態である。照れたり、戸惑っている場合ではない。
(看病ってどうやるんだっけ? 熱がひどいときは冷やすんだよね? 汗もすごいし。とにかく拭こう)
手巾を出して汗をぬぐう。
明るいところでみると、自分で噛んだのか、唇に血がにじんでいる。手のひらからも血が出ていた。強く手を握ったことで、爪で手のひらを傷つけてしまったようだ。剣護は、たまに自分の手を反対の手で押さえ、何かを押しとどめているかのようなしぐさをしては、うわごとのように、「娘々、ダメだ。俺から離れて……」と繰り返していた。
具合が悪いときは寝るに限る。そう思い、蓮音は剣護を寝台に横たわらせて、子守唄をうたった。子どもの頃、母がそうしてくれたことを思い出しながら。
蓮音の歌には力がある。もちろん、その美しい音色だけでも人々の心に深く響くのだが、彼女の歌には、魔力が込められているのだ。蓮音の歌う子守唄には、人の心を落ち着かせ、安らかな眠りへと導く力が秘められている。
「おやすみ 愛しい子どもたち
星がまたたき 森の木々がささやく
ゆらゆら ゆりかごが揺れる
目を閉じると訪れる 静かなやさしい時間
ねむれねむれ 明日お日様が顔を出すその時まで」
歌っているうちに、剣護の緊張が和らいできたのか、呼吸も落ち着いてくる。頬の赤みも引いてきて、噴き出すような汗も止まった。
蓮音は母がしてくれたように、髪をなでながら子守唄を歌い続けた。
しばらくすると、剣護の長いまつ毛の震えが完全に止まる。彼は眠ったようだった。
体はまだ少し熱かったが、寝てしまえば苦しまずに済む。蓮音はもう一度、剣護がゆっくり寝られますようにと願いを込めて静かに子守唄を歌った。
剣護が深い眠りについたことを確認してから、額ににじんだ汗を拭った。
寝顔を見るのは初めてだ。この人は寝顔も本当に綺麗だなと思う。
血がついた唇と手も綺麗に拭いて、薬を塗った。剣護のやわらかい唇に触れたときは心臓がはねてどうにかなりそうだった。
「ああ、あなたが好き……」
自然と言葉がこぼれ出る。蓮音はそのまま剣護に顔を寄せて、頬に口づけをした。このまま時間が止まればいいのに。そう強く願った。
蓮音は、剣護の隣に横になると、ほっとしたのか、気が付いたら眠りに落ちてしまっていた。
剣護はとてもいい夢を見ていた。
蓮音が、母のようにかいがいしく世話をしてくれる夢だった。剣護は、母の温もりも、母の愛も知らない。だけど、母というのは、きっとこういう温かい存在なのだろうなと夢の中で感じていた。
夜明けが近づき、外では一番鶏が鳴いた。それでふと夢が覚める。ああ、ずっとこの夢の中に落ちていたかった。そんな夢だったのに。目を開けて体を起こそうとしたら、隣で蓮音が手巾を持ったまま寝ているではないか。
あれは夢ではなかったのだろうか。
「娘々?」
静かに寝息を立てている蓮音の名前をそっと呼んでみる。彼女はまだぐっすり眠っているようで起きそうにもなかった。
昨夜は燃えるように体が熱くて、気を抜くと彼女に手を出してしまいそうで必死に自分を抑えていたが、今はそれが嘘のように穏やかな気持ちだった。
”天衣無縫”とは彼女のような人のことを言うのだろうなと思う。無邪気な寝顔を眺めながら顔に掛かった一筋の髪を手に取ると慇懃に口づけをする。
「あなたを愛しています」
手に取った髪を戻しながら、美しい寝顔に顔を近づけ、そうするのが当たり前のように額にも口づけをした。
「姫様、おはようございます!」
窓から差し込む眩しい陽の光と、万梅の元気な声で蓮音は目を覚ました。
寝台には剣護の姿はすでになく、代わりに花が置かれていた。白い風鈴草だった。花言葉は「感謝・誠実な愛・思いを告げる・不変」である。
釣鐘のような形をした、愛らしくも清らかな白い花を手に取る。
(李公子は元気になったということかな)
そう思うと自然と頬が緩んだ。
万梅に支度を手伝ってもらい、朝食をとるために二人で食堂へと向かった。そういえば、いつも身支度の際にやってくる明鈴がいないのが気になるが、どうしたのだろうか。
そんなことを考えながら戸を開けた蓮音たちは、目に飛び込んできた光景にたじろいだ。
朝のすがすがしい空気とはうって変わって、そこには場末の酒場のような、すさんだ空気が漂っていたのだ。
なぜか、明鈴、蒼迅、ガクは疲れ果てた顔でぐったり座っていて、エリックがぐるぐる巻きになって柱に縛り付けられていた。
「一体何があったの?」
驚いて蓮音が聞く。
明鈴たち三人の説明によると、惚れ薬を自ら試したエリックは最初に目についた蒼迅に抱き着いた。
「お、おい、何しやがる、やめろ!」
蒼迅に追い払われると、今度はガクに抱き着こうとする。
「くるな!」
ガクに嚙みつかれて投げ飛ばされて、今度は明鈴めがけて突進してきたので、明鈴は蒼迅を盾にして……といった具合に永遠に鬼が変わらない鬼ごっこを四人で朝方までしていたというのだ。
惚れ薬で完全にパワーアップしてしまったエリックをやっとのことでお縄にして、三人は休息をとっていたというわけだ。
「でも、なんでエリックは急に惚れ薬なんて飲んだの?」
素朴な疑問を口にする蓮音。
「さ、さあ、たまたま持っていたお薬を試してみたくなったのではないでしょうか?」
明鈴が誤魔化す。まさか、「姫様と隊長をくっつけたくて、姫様に飲ませようとしたんですけど、失敗したからです!」とは言えない。
「みんな、疲れてそうね。李公子も昨夜は具合が悪くて大変だったの。海遠のケガもまだ落ち着いていないし、今日はもう一日こちらで休ませてもらった方がいいかな?」
「えっ、李公子も体調がよろしくなかったのですか?」
「姫さん、まさか、昨晩、あいつと一緒だったのか? 何もされてねえだろうな?」
明鈴と蒼迅が詰め寄るように質問をしてくる。
「熱を出して寝込んでいる病人が一体何をするというの?」
「あ、いや、姫さんが何もされてねえんだったら別にいいんだ。ふぅ、よかったぜ」
惚れ薬のことには触れず、思わず蒼迅が本音を漏らしてしまう。
「よかったですって? いいわけないでしょ! あなたたち、何を隠しているの? 一体どういうことなのかちゃんと説明なさい」
剣護が苦しんでいる姿が目に浮かび、蓮音は本気で怒った。
蒼迅が、「俺は悪くない」と言う前置きで、剣護に惚れ薬をかけてしまったことを、明鈴が「でも李公子には効果がないみたいだった」という説明をした。
効果がなかったわけではない。見境なしだったエリックと違って剣護には本気で大切だと思う人がいたから、近くにいた蓮音に手を出さず一生懸命耐えたのだ。自らを傷つけながらでも。
それなのに…………
「効果がなかったですって! 今日一日、あなたたちとは口を聞かないから!」
蓮音は扉をバタンと閉めて出て行った。
「俺だって被害者みたいなもんだろう」
蒼迅は、拗ねながらつぶやいた。つぶやきながら思う。
もし、自分が剣護の立場だったとして蓮音に何もせずに一晩耐えられるだろうか。
(あいつ、よく耐えたな……)
悔しいけれども、あの男には何もかも敵わないような気がすると蒼迅は思っていた。




