84.崎谷薫は奪われない
覚悟を決めた女が纏う空気は、止まった時を再び動かし始める。
「こうなったらイクとこまでイッてやるさっ! 腹割って話せばユウくんも分かってくれるに決まってる! もしかしたら変な方向に目覚めるかもしれないけどそれはそれッ」
リオに目をやり、拘束を解かせると、薫は翼を今一度大きく広げた。
「えー、大変お待たせいたしましたお客様。まあ何が言いたいのかというと、入ったばかりの子をいじめないであげてくださいってことです。そうしてくれるなら、今度はこっちでお相手いたしますよ」
ただでさえ豊満な胸を、さらに両手で寄せ上げる。しっとりしたモチのような球体がゆがむのに合わせて、薫は翼で男を包んでいく。
視界を前後から遮られ、男が見ることを許されるのは薫の身体のみであった。
「むぐぅおっ⁉ な、なんやメスブタ、ワシがこんなんで許すとでも思うとんのか!」
「分かってないなぁ、そこは『おっぱいなんかに負けたりしない!』って言ってもらわないと」
「むーっ、むーっ!」
翼を閉じ、隙間を作らないように密着する。
ユウ以外にこういうことをするのは初だったが、何度も彼を相手にやっていたことなので、気道を塞がないように押し当てる方法、またその逆は完全に心得ていた。
しかし、相手は心優しい少年ではない。
――ガリッ。
「痛っだああああああッッッッッ!!!!!!」
「ど、どーしたん⁉」
薫の叫びにマーサとリオが駆け寄る。
「ってぇ~……コイツおっぱい引っかきやがった……」
「傷跡……けっこう深いかも……」
男は必死の抵抗の末、薫の胸を掻きむしった。どちらかといえば窒息しかけもがいたことによる生理現象のようなものであったが、明確な攻撃でもあった。
「ブタぁ、お前の顔……覚えたからな……」
最後まで悪態をつき、男はようやく気絶した。
再度の静寂、だがそれも束の間、店長が大きな足音を立てて大慌てで走ってきた。
「ちょ……ちょっと! ま、まさか殺したの⁉」
「いいえ、誓って殺しはやってません」
薫は胸を押さえ、ひとまず男の安否を伝えた。元より殺す気もなく、相手がかろうじて呼吸できていたことは肌で感じていた。
ふと側を見ると、リオ、マーサの二人が新人の女の子を介抱しているのが見えた。
(ああそうだ、あの子を助けるために割って入ったんだった)
そう、この店の深部とつながるという目的を意識しすぎていたため忘れていたが、本来は単純な人助けが目的の行為だった。
薫のした行為が店長やオーナーたちにどう映っているのかは不明だが、ひとまず目的は達成したと言っていいだろう。
「あっ。ありがとうございました」
その子は薫に気づくと礼儀正しく頭を下げた。
「いや、礼を言われるほどのことはしてないよ。そもそも何やってるか自分でも分からなくなってたし」
「それは……私も見ててそう思いました」
ホッと一息、少し笑いも生まれたところで店長が混ざる。
「守ってあげられなくてごめんなさいね」
「いえ、私がもっと上手に躱せていたら……」
「すごいなこの子、向上心の塊じゃん。素質あるよ」
そう話す薫たちの後ろでは、ボーイがそそくさと男を店外へ運び出そうとしていた。
「あ~、君らにも悪いことしちゃったな。だが本来、ああいう客はそっちが率先して追い出さなくっちゃあいけないんだぜ? オーナーだか何だか知らないけどさあ、その辺しっかりしてもらわないとこっちが大変なんだよナァ~」
服を着直しながら、もうベテラン嬢にでもなったかのような素振りで薫は言った。頭をペチペチと叩かれるボーイたちは、悔しそうな、申し訳無さそうな顔で黙って作業を続けていた。
しばらく経って、事が全て片付く頃には、店内の雰囲気も元に戻りつつあり、再び酒をあおる者や奥の部屋へと消えていく者が現れだした。
先刻が先刻なので若干の気まずさは残るものの、やはり欲望には敵わないらしい。中には「ここで稼ぐ」と意外にも乗り気で対応している嬢までいるほどだ。
「みんなすごいですね……。私にはとても……」
新人のその子は、意欲に満ちた先輩たちの背中を黙って見送ることしかできずにいた。意気込んでやって来たは良いものの、いざその生臭い空気にあてられて尻込みしてしまう者は少なくない。
「嫌ならやんない方がいいよ、体の関係ナシでも貢いでくれるお客さんもいるしね。例えばこのおねーさんとか!」
マーサは新人に優しくアドバイスしながら、両手に持ったジョッキを連続で飲み干してしまった。財布には全く優しくない。
「てめコラっ、勝手に注文しやがったな」
「えー、金に糸目はつけないって言ってたじゃん」
「リオも止めてやってくれ──なんか高そうなヤツ飲んでる!」
「変身すると体力使うから……これで補給」
そう言う獣人たちは全く躊躇いなく、これまた高そうなつまみまで並べていく。今月の売上ランキングで2人は確実に上位に入るだろう。
「はぁ。これだけ店に貢献したんだ、多少の戯れは許してくれますよね? 店長」
薫は店長を見ると、よそ行きの顔で声をかけ、反応を待った。
「それは……えーと……」
期待を裏切り、店長は頭を抱えて苦虫を噛み潰したような顔をしていた。だが、体の中身を全て吐き出すような深い深いため息の後、打って変わって気持ち悪いほどの笑顔で薫の手を握った。
「でも……うん、見ててスッキリしたわ!」
その顔は明らかに何かが吹っ切れており、薫は思わずのけぞったが、ここまできて下がるわけにもいかず、引きつった笑みを返すだけだった。
「だけど店長、オーナーにバレたらヤバくない?」
「太客、逃したかも……」
「もう知ったこっちゃないわ! カオルちゃん、ぜひウチに来て!」
リオとマーサは心配そうな顔をする。
だが、後々まずいことになるのを隠しもせずに、店長は薫を再度勧誘した。もちろん薫にとっては渡りに船、こちらも覚悟を決めている以上、断る理由はない。
「そ、それじゃあこれからよろしくお願いしますね、店長」
こうして薫は異世界でキャバ嬢をすることになったのだ。
▽▽▽▽▽▽
──僕たちはカオルから事の顛末を聞いた。
「なんか……回想おかしくない? 絶対あんなカッコよくなかったでしょ先輩」
「で、でもカオルさんならやってくれそうな気はします!」
「あと喋り方も変じゃなかった? なんというか、偏屈な漫画家って感じの口調……先輩絶対無理してたわよね?」
「うん……実はああいう雰囲気に憧れてて……」
「やっぱそんな感じかー、こりゃさっきの話も怪しいわね」
話を聞いたアレクシアはさっそく訝しむ。触れ合ってきた時間によって、評価に違いがあるらしい。僕はまだ、なんとも言えない。カオルはキメる時はキメるだろうけど、大事なとこでコケる姿も簡単に想像できる。
「つーか……つーか! やっぱり入店しちゃうじゃん! アレでしょ? 調教されて奴隷にされるアレでしょ?」
「あのさぁ、何でもそっちにつなげようとすんなよ。まあ今回はシチュエーションが出来すぎてるが」
「アタシは絶対に反対だからね!」
「それが、オウミさん所の金を散々使っちまったからね。ここで働かないと今日の料金はタダにならないし、稼げる仕事でもしない限りヤクザ相手に借金漬けだ」
「……っ、このボケェェーーーーッ」
後輩の叫びがこだまする。確かにこのままだとマズイ気はする。
「そんなことよりコレ見てよ」
そう言って、カオルは襟を掴んでグッと胸元まで引き下げた。大胆すぎる行動に目を覆う寸前、見えたのは大きな引っかき傷。
「ちょっ、先輩胸しまって――ホントにケガしたの!? さっきの話本当なの!?」
「だから言ったろ、名誉の負傷ってやつだ。見た目ほど傷は深くないから大丈夫。唾でもつけときゃ治るよ。特に少年のだと効果ありそうだと思うんだが、どうかな?」
「普通に薬塗りなよ……」
「あ、私キズ薬持ってますよ」
マルカが持っていた軟膏のようなものを、カオルの希望で僕が塗ってあげることになった。本当は自分でやってほしいけど、治療は早い方がいいから文句は言わない。アレクシアも、嫌々ながら治療を優先して僕に譲ってくれた。
「じゃあ、塗るね」
カオルの胸に指先で触れる。吐息と共に、彼女の体が一瞬跳ねた。
少ししか当たっていないのに、餅のような弾力も、腫れた傷口の微かな盛り上がりも、その奥の熱も、僕の指は鋭敏に伝えてくる。
「んっ……そうそう、そこ……上手だよ」
「変な声出さないで」
「いやなんかマジで体が熱く……これもシチュのおかげかな? 少年に謎の薬を塗られて息が荒くなってるお姉さんってエッチじゃない? あうっ、ユ、ユウくん、もう少し弱めに……あんっ」
「すみません、私があげたやつ謎の薬って言うのやめてもらっていいですか」
「クッ……アタシが防御以外の魔法も使えれば……。ユウ! 早く終わらせなさい!」
「分かってるよ……はい、おしまい」
こっちまで妙な気分になってきたところを無理やり押さえ、薬を塗り終わる。
気持ちを切り替えるように、僕は胸につかえていたことを聞いた。
「……ねえ、本当に人前で脱いだりしたの?」
カオルは色仕掛けを厭わない性格、それは知っている。だけど彼女がやるのは最低限のものばかりで、自分を安売りしているわけではないと思っていた。だから、気になってしまった。
「悪いが本当だ……おっ、その顔はけっこうダメージ受けてる顔だな? 安心して、心まで穢されたわけじゃないから」
「な、なんか逆に心配になってくるセリフですね……」
「見られて興奮したとか言ってたしね、先輩素質あんじゃないの?」
「あれは私がちょうどいいポジションに収まるために仕方なくやったんだ、それに私はあくまでユウくんに見られるところを想像して興奮してたのであって、話の中心はキミなんだよ。やっぱり最後は戻ってくるというか、むしろキミが奪い返しにくる前提というか。おいコラっ、ちゃんと聞きなさい」
「そういうのじゃなくて……」
うまく言えない。カオルの話は理解できるし、嬉しい気持ちもある。ただ、何というか……。
「ああ、もしかしてさぁ……ユウくん、私がおっさん相手に胸押し当てたことを怒ってる?」
「えっ」
「脱いだことだけを指してるとしたら、反応が過剰なんじゃないかと思ってね」
予想外の方向から殴られた気分だ。僕の感情の正体が、それ? いやあり得ない。
「はーあ? なんでアンタがそれでキレんのよ」
「いやー無理もないだろう」
「ど、独占欲ってやつですか⁉」
「そうそれッ、マルカは話がわかるッ」
勝手に考察されても困る。
「あれだけガッツリ体見せたり触らせたりしたのって、今まではユウくんだけだったからなあ。まあ一回温泉で六道とかいうやつに会ったけど、あれは事故みたいなもんだからノーカン。
で、ユウくんは『あの身体を触れるのは自分だけ』という密かなアイデンティティを抱いていたってわけだ。嬉しいね」
「そんなことは……」
「こうなると、後はマジで裸でも見てもらうしかないんだが……ま、それは追々ね。今はさすがに早いから。段階ってもんがあるだろう?」
「み、見せなくていいから」
「こっちは見せなきゃいけないんだよ、私だって『本命はキミだ』って軸を持っているから他の男の相手もできるんだ。良い? そうである以上、キミは誰よりも多く私のことを知っていなければならない。なにも肉体で落とそうってわけじゃない。他者よりも多くさらけ出せるという関係、そして実績を作りたいんだ。それがあってこそ本命足り得るんだよ。ユウくんだって、自分は他の男と違うって意識を私に刻みつけたいだろう?」
少しずつ顔を近づけて、彼女は僕に心を語る。最後の方は、甘い吐息のような囁き声だった。
深いのか深くないのか、よくわからない話。
カオルの裸……見たくないと言えば嘘になる……かもしれない。ただそれより、本命という言葉が強く印象に残った。
「ユウくんの顔……すごく赤くなってるんですけど、大丈夫ですかねアレ」
「だいじょぶなんじゃないのォー。へっ、あんなからかいを本気にしちゃってあのバカ……ってマルカもめちゃくちゃ赤いんだけど。え、こっちの方がヤバそうなんだけど」
あっちはあっちでまた色々と騒いでいる。もうどうしたらいいのか分からないほど恥ずかしい。
僕は少し涙目になってカオルを睨んだ。
「――その顔は反則だぞ。ふふっ、キミに免じてこの話は終わりにしようか。明日からのことも考えなきゃいけないし」
「そっ、そうだ! カオル、変な人に目つけられちゃったんでしょ? 明日からどうするの」
カオルの助け舟に遠慮なく乗って、話を変える。実際これは大事な内容で、あっちの二人も次第に真剣な顔になっていった。
「カオルさんのことだから、何か策があるんですよね?」
「ああ、あるよ。とっておきのやつがひとつ」
「先輩、それって」
「うん、オウミさんにぶん投げる」
「ええええーーーーっ⁉︎」
「そんなこったろうと思った……」
……僕もなんとなくそんな気はしてた。前もこんなことあったし。
「つい突っ走っちゃってね。私ひとりじゃどうにもならない」
「じゃ、じゃあ全部オウミさん頼みってことですか?」
「最悪そうなるね」
「またヤクザに借りを作ろうって?」
「多分そうなるね」
「カオルが色んなお客さんの相手をしなきゃいけないの?」
「そうなるね」
皆して閉口する。もし何もかも失敗したら、カオルはこの街から一生抜け出せなくなるかもしれない。その時、僕はどうしたらいいんだろう。
「つってもまだ切り札はあるから、心配しないで」
カオルはかすかに微笑んだ。自身に溢れたその顔は、勝利を確信させるものだった。
そうだ、なにも終わったわけじゃない。まず僕たちが集中するべきは情報を集めることだ。オウミさんたちに取り入るため、カオルの目的を果たすために。
「ま、まあ先輩にはその眼があるしね。わざわざ接客なんて……」
「それにっ、有益な情報さえ手に入ればこっちが有利になりますもんね、そういうことですよね」
「いいや、私の切り札ってのは──」
長い赤髪が夜の風になびく。
「キミだよ、ユウくん」
蒼い瞳は、くっきりと僕を捉えていた。




