第9話 聖女を連れ戻せ
午後の診療が終わる頃、町の入口に三台の馬車が現れた。
先頭と二台目の馬車には、アンナが聖女として働いていた国の王家の紋章。最後尾の一台には、その国の教会の紋章が掲げられている。
畑から戻ってきた者たちが足を止め、店先にいた者たちも不安そうに馬車を見つめた。
三台の馬車は、そのままアンナの治療院の前で止まった。
「面倒なのが来たな」
アンナは窓の外を見て、ため息をついた。
最後の患者だった老人の腰に手を当てる。
淡い光が広がると、老人は驚いたように腰を伸ばした。
「おお……痛くない」
「今日は重い物を持つなよ」
「ありがとう、アンナちゃん」
「次は怪我する前に誰か呼べ。いい年して意地張るな」
老人が笑いながら出ていく。
入れ替わるように、王国の使者と神官たちが治療院へ入ってきた。
先頭に立つ男は、王家付きの文官らしい正装に身を包んでいる。その隣には、教会の高位神官らしい老人がいた。
「聖女様」
「その呼び方はやめろ」
アンナは使者たちに目も向けず答えた。
「私はもう聖女じゃない」
王国の使者は表情を変えず、深く頭を下げた。
「国王陛下の命により、お迎えに上がりました」
「帰れ」
「まずは、お話をお聞きください」
「聞いても戻らないぞ」
「それでも、お伝えしなければなりません」
使者は静かに息を吸った。
「王都を守っていた結界は、すでに失われております。周辺の街道では魔物が増え、商隊も動けなくなりました。薬草も食料も届かず、王都の治療院には怪我人があふれております」
アンナの眉がわずかに動いた。
「各地の村でも井戸や畑の汚染が広がっています。結界魔道具を作り直そうにも、職人も材料も足りません」
「五年間、何も備えてこなかったからだろ」
「……その通りです」
使者は否定しなかった。
「聖女様のお力があれば十分だと、国も教会も考えておりました」
「今さら正直だな」
「その結果、国はあなた一人に頼りきる形になってしまいました」
アンナは使者を睨んだ。
「それで、壊れかけたから戻って直せって?」
「多くの民が苦しんでおります」
治療院の中が静かになった。
アンナは何も答えなかった。
教会の神官が一歩前へ出る。
「教会も反省しております。今後は仕事を減らし、十分な休息をお約束いたします。給金も必ず――」
「休みを増やせば戻ると思ってんのか?」
「決して、そのような意味では」
「五年間、朝から晩まで働かせた。三日寝てなくても、次の仕事を入れた。病人の治療だけじゃない。祭りの祝福、貴族の婚約、王族の擦り傷まで私を呼びつけた」
神官は黙り込んだ。
「金も払わなかった。休みもなかった。聖女なんだから当然だって言った」
「大司教猊下も、今では深く――」
「今では?」
アンナの声が低くなる。
「国が壊れ始めたからだろ」
神官は答えられなかった。
アンナは使者たちを見回した。
「私が欲しかったのは、豪華な部屋でも特別扱いでもない」
アンナは机に手をつき、わずかに目を伏せた。
「今日はもう休め。飯は食ったか。眠れてるか。それくらい言ってほしかっただけだ」
誰も口を開かなかった。
「でも、私に仕事を押しつける側の人間は、誰一人言わなかった」
治療院の外には、いつの間にか町の人々が集まっていた。
窓越しに、中の様子を見守っている。
王国の使者は、もう一度頭を下げた。
「それでも、どうかお戻りください」
「戻らない」
「王都には、何十万もの民が――」
「わかってる」
アンナは強く遮った。
「だからって、また私が全部背負う理由にはならない」
「しかし、このままでは」
「話は終わりだ」
アンナは治療院の入口まで歩き、看板を裏返した。
『本日の営業は終了しました』
「帰れ」
*
その夜。
治療院の裏口で、小さく金属の擦れる音がした。
しばらくして、鍵が外れる。
扉がゆっくりと開き、中へ入ってきたのは、昼間の使者たちに同行していた騎士二人と、若い神官一人だった。
三人は足音を殺し、奥の寝室へ向かう。
「本当に連れていくのですか」
神官が小声で尋ねた。
「命令だ」
「ですが、聖女様は明確に拒絶されました」
「王都へ戻れば考えも変わる」
「それは、あまりにも――」
「民の命が懸かっている」
騎士はそう言って、寝室の扉を開けた。
部屋の中央に、大きなベッドがある。
アンナは毛布にくるまり、静かに眠っていた。
「毛布ごと運ぶぞ」
二人の騎士が近づく。
だが、ベッドまで二メートルほどの場所で、先頭の騎士が突然止まった。
「ぐっ!」
何もない空間に顔からぶつかり、後ろへよろめく。
もう一人が手を伸ばす。
やはり、見えない壁に阻まれた。
「結界か」
神官は目を見開いた。
「眠りながら、ご自身の周囲に張っておられます」
「解除しろ」
「無理です」
「神官だろう」
「聖女様のお力で張られた結界です。私程度の神官に解除できるはずがございません」
騎士が鞘で見えない壁を叩く。
硬い音が、室内に響いた。
「……うるせえな」
三人の動きが止まる。
ベッドの上で、アンナが目を開けた。
寝ぼけた目で三人を見たあと、その表情から眠気が消える。
「何してる」
「アンナ様を王都へお連れするためです」
「昼に断ったよな」
「今は感情的になっておられます。王都へ戻れば、必ずご理解を――」
「本人が嫌だって言ってるのに、寝込みを襲って連れていくのか?」
「これは保護です」
「誘拐だよ」
アンナはゆっくりと体を起こした。
「五年間こき使っただけじゃ足りなくて、今度は攫うのか」
「民を救うためです!」
「民を盾にすれば、何をしても許されると思ってるのか!」
アンナが片手を上げた。
その瞬間、見えない壁が三人へ迫る。
「なっ――!」
騎士が踏ん張る。
だが、結界は止まらない。
三人は結界に押され、寝室の外へ追いやられた。
「待ってください、アンナ様!」
「待たねえよ」
アンナは手を下ろし、ベッドを降りた。
そのまま三人のあとを追う。
一歩踏み出すたび、見えない壁が三人を押し返していく。
三人はなすすべもなく廊下を抜け、階段を下り、侵入してきた裏口まで追い詰められた。
「出てけ」
アンナが冷たく言い放つ。
次の瞬間、結界がさらに迫り、三人はそのまま治療院の外へ押し出された。
騒ぎを聞きつけ、周囲の家々に明かりがともる。
「アンナちゃん!」
「何があった!」
町の人々が次々と集まってくる。
アンナは寝間着の上から外套を羽織り、外へ出た。
「こいつら、私を攫おうとした」
町の男たちの顔色が変わる。
「何だと?」
「本人が断ったのに、寝てる間に連れていこうとしやがった」
農夫の一人が、手にした鍬を握り直す。
騎士が慌てて口を開いた。
「誤解です! 我々は民を救うために――」
「その言葉を便利に使うな!」
アンナの声に、騎士は口を閉じた。
それでも、昼間に聞いた話が頭から離れない。
魔物に襲われる街道。
治療を受けられない怪我人。
薬も食料も届かず、街の中で怯えている民。
王家も教会も許す気はない。
もう二度と、あの生活へ戻る気もなかった。
それでも。
何度も感謝を伝えてくれた人たちまで、見捨てたいわけではない。
アンナは長く息を吐いた。
「……お前らは帰れ」
騎士たちが顔を上げた。
「ですが――」
「私は私で王都へ行く」
「では、戻っていただけるのですか!」
「勘違いするな」
アンナは三人を睨みつけた。
「一度だけだ。それに、お前らの馬車に乗せられていくなんて、まっぴらごめんだ」
アンナは治療院へ戻り、寝間着から服に着替えた。
外套を羽織り直し、荷物を手に治療院を出る。
そして、まだ外にいた三人を睨んだ。
「お前らのためじゃない」
治療院の扉を閉める。
「民のためだ」
第19回ファンタジー小説大賞に参加しています。
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