第8話 聖女のいない国
アンナが小さな街で治療院を始めてから、一年が過ぎた。
「今日はここまでだ。残りは明日来い」
扉を閉めようとしたところで、通りの向こうから農家のおばちゃんが大きな籠を抱えて歩いてきた。
「アンナちゃん、これ持っていきな」
野菜の詰まった籠を差し出され、アンナは眉を寄せた。
「またかよ。治療代はもらっただろ」
「アンナちゃんのまじないのおかげか、今年は畑の出来がよすぎて、倉庫に入りきらないんだよ」
「私のまじないのせいにするな。畑を耕したのはあんたらだろ」
「はいはい。そういうことにしておくよ」
おばちゃんは笑いながら帰っていく。
アンナが畑や井戸へかけた「まじない」によって作物の病気は減り、水は澄み、魔物も街へ近づかなくなった。
周辺の村から患者が訪れるようになり、食堂や宿屋にも人が集まる。
それでも、診療時間を過ぎれば誰も扉を叩かない。
アンナは野菜の籠を抱え、治療院の鍵を閉めた。
「今日はスープでも作るか」
*
アンナが王都を去ったあと、街道はすっかり寂れていた。行き交う馬車も、今ではほとんどない。
西門の外には、魔物に襲われた商隊の残骸が転がっている。
聖女の結界はすでに消え、商隊は以前の三倍の護衛を雇わなければ街道を進めなくなっていた。それでも被害は相次ぎ、多くの商会が交易路を安全な隣国側へ切り替えている。
王宮から派遣された役人は、結界魔道具を作る工房で声を荒らげた。
「王都と主要街道を守れるだけの魔道具を、すぐに用意しろ」
老職人は、空になった作業台を示した。
「無理です」
「金なら払う」
「金の問題ではありません。職人がいないのです」
アンナが現れる以前、王国では街道ごとに魔物除けの魔道具を設置し、神官や職人が定期的に整備していた。
だが、聖女の結界が王都と主要街道を一度に覆ってから、王国は魔道具の発注をやめた。
仕事を失った職人は他国へ移り、若い職人も育てられなかった。
「作り方を知る者は、もうほぼ残っておりません。今から工房を立て直しても、必要な数が揃うまで三年はかかります」
「三年だと?」
「それに、魔石もありません」
魔道具に使う魔石は、魔物が現れる鉱山から運び出されていた。
街道を守る魔道具を作るための材料が、街道を守れないため届かない。
崩れたのは結界だけではなかった。
王都の治療院には、廊下まで患者が溢れている。
「治癒薬が足りません!」
「解毒薬も、残りわずかです!」
アンナがいた五年間、重傷者も病人も聖女へ回せばよかった。
治癒薬の発注は減り、薬草農家も畑を縮小した。アンナがいれば治癒術師など必要ないとされ、この五年間ほとんど育成もされてこなかった。
薬も結界魔道具も、必要になってから金を積めばすぐに揃うものではない。薬草は育つまでに時間がかかり、魔道具には職人と魔石が要る。隣国とて、自国で使う分以上に、この王国を支えられるほどの余剰を抱えているわけではなかった。
「侯爵家の御令嬢だ! 先に診ろ!」
「こちらには街道で襲われた重傷者がいるのです!」
「平民は後に回せ!」
貴族が薬を買い占め、平民は治療を受けられない。
地方では壊れた井戸の浄化魔道具を交換できず、病が広がっていた。墓地の鎮魂術式を維持できず、夜になると死霊が現れる村まである。
人々は村を捨て、王都や隣国へ逃げ始めた。
だが、王都にも彼らを養う食料はなかった。
王宮の会議室で、財務官が青ざめた顔で報告する。
「交易税は五年前の水準を下回りました。街道の護衛費は以前の四倍。地方からの納税も止まり始めております」
「騎士団を派遣しろ」
「すでに各地へ派遣しております。これ以上は王都の守りが維持できません」
「では、教会に結界を張らせろ!」
「聖女様と同じ規模の結界は、現在の神官には不可能です」
国王は机を叩いた。
「教会は、聖女をどう管理していたのだ!」
同じ頃、教会の地下保管庫には、金貨箱も少なくなっていた。
巡礼者は来ない。
聖女の祝福を受けられない以上、遠方から王都を訪れる理由がない。
「今年の寄付は、聖女様がおられた頃の一割にも届いておりません」
「地方の教会へ送る金も、神官の俸給もいずれ足りなくなります」
ティッツェンは険しい顔で帳簿を閉じた。
「王族や貴族が、アンナを都合よく使いすぎたのです」
「夜中に擦り傷で呼びつけ、婚約や晩餐会にまで祝福を求めた」
「民を救う仕事だけであれば、アンナも怒りはしなかったでしょう」
巡礼祭で何百人もの人々を祝福させたことも、五百枚の祝福札を徹夜で作らせたことも、寄付目当てで予定を増やしたことも、教会の誰も口にはしなかった。
数日後、ティッツェンは王宮へ呼び出された。
「教会が何日も眠らせず働かせたせいで、聖女は国を捨てたのだ!」
国王の言葉に、ティッツェンも声を強める。
「王族や貴族の方々が、私的な用事にまでアンナを呼びつけたからではございませんか!」
「その依頼を受け入れたのは教会であろう!」
「聖女がいるのをいいことに、次から次へと依頼を持ち込んだのは王家でございましょう!」
「ならば、今も教会の力で民を救ってみせろ!」
「聖女なしでは不可能でございます!」
二人の間に沈黙が落ちた。
国も教会も、アンナなしではこれまでの仕組みを維持できない。
だが、どちらも自分が彼女を追い詰めたとは考えていなかった。
その時、隣国から戻った商人が会議室へ通された。
「隣国に、腕のいい治療師がいる小さな街がございます」
どんな傷も白い光で治す女。
その女が現れてから畑の実りが増え、井戸の水が澄み、魔物まで近づかなくなったという。
「名は?」
「アンナと名乗っております」
国王とティッツェンが同時に顔を上げた。
「街の者から聖女ではないかと聞かれたそうですが、本人は、こんな口の悪い聖女がいるものかと笑い飛ばしたとか」
「間違いない」
ティッツェンが立ち上がった。
王国と教会は、すぐに使者を送ることを決めた。
「国が滅びかけていると伝えろ」
国王が命じる。
「王国の民が苦しんでいると知れば、アンナは必ず戻ります」
ティッツェンも、当然のことを口にするように頷いた。
「聖女なのですから」




