第7話 口の悪い治療師
治療院は、街の中心から少し離れた静かな場所にあった。
白い壁と深緑の屋根。入口の奥が診察室で、三階まで吹き抜けになった二階が住居だ。日当たりのよい裏庭もある。
「前の先生が亡くなってから空いてたんだけどね。街の者が時々掃除してたから、すぐ使えるよ」
案内してくれた食堂のおばちゃんが窓を開けると、柔らかな風が通り抜けた。薄く埃は積もっているが、診察台も薬棚もきれいなままだ。
「家賃も安いよ。治療師が住んでくれるなら、もっと安くしてもいいって町長が――」
「相場どおり払う」
「でもねえ」
「そういうのはもういいんだよ」
無償の奉仕も、善意を隠れ蓑にした押しつけも、もう御免だった。
アンナは町長を呼び、一年分の家賃をその場で支払った。
「本当に、こんなにもらっていいのか?」
「一年分だ。足りないなら言え」
「いや、多いくらいだ」
「じゃあ数えて次の家賃までしまっとけ」
町長は金貨とアンナを交互に見比べ、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします、アンナ先生」
「先生はやめろ」
「では、アンナさん」
「それでいい」
アンナはその日のうちに日用品を買い揃えた。資金の心配はない。
家具屋で最も寝心地のいいベッドを選ぶと、店員が目を丸くした。
「診察台より、こちらを先に新しくされるのですか?」
「当たり前だろ」
アンナは柔らかなマットレスを叩いた。
「今度こそ、ちゃんと寝るために働くんだよ」
治療院へ戻ると、食堂のおばちゃんや近所の住民が勝手に掃除を始めていた。
「勝手に入るな」
「手伝いに来てやったんだよ」
「頼んでない」
「こっちも頼まれてないから、お互い様さ」
昨日治療したばかりの農夫まで箒を持っている。
「お前は寝てろと言っただろ。帰れ」
「そこまで言うか?」
「失った血は戻ってない。倒れたら次は治療代を倍にするぞ」
農夫は妻に笑われながら追い出された。
住民たちが磨き上げる傍ら、アンナは壁へ手を当て、建物に残る僅かな穢れを神聖力で浄化した。淡い光が部屋を包む。
「今、光らなかったかい?」
「日の光だ」
「窓と反対側の壁だけどねえ」
おばちゃんは楽しそうに笑った。
夕方にはすっかり準備が整った。新しい寝具、磨かれた診察台。裏庭には住民が植えた小さな花が風に揺れている。
アンナは入口に一枚の紙を貼った。
『治療院。朝から夕方まで。水の日と星の日は休み。夜は緊急のみ。擦り傷で起こしたら追い返す』
「最後の一文、本当に必要かい?」
「一番必要だ」
「夜中に擦り傷で呼び出されたことでもあるのかい?」
「ある」
おばちゃんは冗談だと思い、腹を抱えて笑った。
翌朝、扉を開けるとすでに三人が待っていた。
「昨日から急に手がしびれてねえ」
「急にじゃない。数日前から違和感があったはずだ」
一人目の農家の女の手に神聖力を流すと、女は驚いたように指を曲げ伸ばしした。
「しびれが消えた!」
「今日は畑仕事を控えろ。また無理をしたら、次は治療代を倍にする」
二人目の子供の熱もすぐに下げた。
三人目の老人には、傷も病気もなかった。
「最近、肩が重くてな」
「年だ」
「もう少し優しく言えんのか」
「毎朝身体を動かせ。薬は出さない」
「本当に治療師か?」
「文句があるなら帰れ」
老人はぶつぶつ言いながらも、笑って帰っていった。
昼過ぎ、朝一番に治療した農家の女が戻ってきた。
「言われたとおり、畑仕事はしてないよ。ただね、畑の端へ様子を見に行ったら、また少し手がしびれたんだ」
「土には触ったのか?」
「少しだけね。あそこだけ何を植えても育たないし、家畜も近づかない。変な病気でもあるんじゃないかと思ってさ」
治したはずのしびれが、畑へ行っただけで戻った。
原因がそこにあるのなら、放ってはおけない。
アンナは女とともに畑へ向かった。
端の一角だけ、作物が弱々しく枯れかけている。しゃがんで土に触れると、微かな穢れが指先に絡みついた。
「少し離れてろ」
神聖力を流すと、淡い光が地面を走り、淀んでいた空気が晴れていく。ついでに、畑の周囲へ害獣除けの結界も張っておいた。
「これで様子を見ろ。もう手がしびれることはないはずだ」
「すごい光ったけどなんだい?」
「まじないだ」
「まじないで畑全体が光るのかい? アンナちゃん、あんた、もしかして聖女様だったりするのかい?」
「はあ?」
アンナは思い切り顔をしかめた。
「こんな口の悪い聖女がいてたまるかよ」
女は一瞬黙り、声を上げて笑った。
「ハッハッハ! それもそうだねえ!」
「納得すんな」
空が赤く染まる頃、治療院の入口には食堂のおばちゃんがスープを持って立っていた。野菜や卵の入った籠もいくつも入口に置かれていた。
「治療代はもらったぞ」
「それは余った物を置いていっただけさ。嫌ならあたしがもらってやるよ」
おばちゃんの言葉に、アンナは「持っていくな」と籠を運び込んだ。
診療終了の札を出し、扉を閉めようとした時、通りから声が飛んだ。
「アンナさん、肩が少し痛いんだが、今から診てもらえるか?」
「緊急か?」
「いや、明日でも平気だ」
「なら明日来い」
「分かった。また明日」
男はそれだけ言って帰っていった。
誰も無理に扉をこじ開けない。
今すぐ治せとも、治療師だから当然だとも言わない。
アンナはしばらく扉を見つめ、静かに鍵をかけた。
二階には、自分で選んだふかふかのベッドがある。
「飯食って、寝るか」
アンナはもらったスープと野菜や卵を抱え、足取り軽く階段を上った。




