第10話 これが最後の結界だ
十日後。
王都中央広場には、朝から人が押し寄せていた。
広場中央の大噴水は、周囲よりわずかに高い場所にある。その手前を騎士たちが広く空け、左には国王と王族、高位貴族たち。右には、大司教ティッツェンを先頭に教会の神官たちが並んでいた。
さらにその外側を、王都の民が埋め尽くしている。商人も、職人も、兵士も、子どもを抱いた母親もいた。
そして、そのすべての視線が、一人の女へ向けられていた。
アンナは、かつて身に着けていた聖女の法衣ではなく、街の治療院で着ている飾り気のない服で、騎士たちが空けた広場の内側へ歩いていく。
噴水へ続く緩やかな坂の途中、広場を見渡せる位置で足を止めた。
「聖女様……」
民衆の中から声が漏れ、それをきっかけに広場のあちこちから声が上がる。
「聖女様、お戻りになったんですか?」
「また王都を守ってくださるんですよね?」
「結界を張り直してくださるって、本当ですか?」
責める声ではなかった。誰もアンナが王都を捨てたとは言わず、そこにあるのは喜びと安堵だった。アンナはそれを聞きながら広場を見渡す。かつて治した者たちもいる。祝福を授けた子どももいる。何度も頭を下げ、涙を流しながら礼を言ってくれた人々もいた。
「その前に、話しておくことがある」
アンナが口を開くと、広場のざわめきが少しずつ消えていった。
「私は五年間、病人を治した。巡礼者に祝福を与えた。王都の結界を補強して、魔道具に神聖力を込めた」
静かな声だった。
「王宮に呼ばれれば、国のためだと言われた。教会へ戻れば、神のためだと言われた」
アンナは民衆を見る。
「それでも私は、民を治すことが好きだった」
広場の中で、何人もの者が息を呑んだ。
「助かったと泣いてくれる人がいた。ありがとうと言ってくれる人がいた。だから、どれだけ苦しくても続けた」
アンナの視線が、ティッツェンへ向く。
「でも、日付が変わり、仕事を終えて自分の部屋に戻るたびに思ってた」
「やっと眠れるって」
広場から音が消えた。
「ベッドに座って、靴を脱ごうとした途端に、扉を叩かれた」
アンナは、当時の声をなぞるように続ける。
「アンナ様、祝福札が足りません」
「アンナ様、王宮からお呼びです」
「アンナ様、魔道具への神聖力の補充を」
「何度も、何度も、何度もだ」
ティッツェンの顔から、わずかに血の気が引いた。
「今日こそ眠れると思った」
「もう扉を叩かないでくれと思った」
「一晩でいい。朝まで眠らせてくれって、何度も思った」
アンナの声は、乱れなかった。
「でも……扉は必ず叩かれた」
「返事をしなければ、眠っているのかと、もっと強く叩かれた」
「眠れた日だって、二時間や三時間で起こされた」
「働き詰めで朝まで一睡もできない夜なんて、珍しくなかった」
「朝になれば、休む間もなく、そのまま次の仕事が始まった」
民衆の中に、目を伏せる者がいた。口元を押さえる者もいた。
「断れば、待っている人が苦しむと言われた」
「国のためだと言われた」
「神に選ばれた者の務めだと言われた」
アンナは、ティッツェンをまっすぐ見た。
「そして最後には、いつも同じことを言った」
「聖女なんだから当然でしょ?」
その言葉が広場へ落ちた。誰も動かなかった。アンナは続ける。
「ふざけんな!」
広場の隅まで届いた。
「私はただ、一度くらい、扉を叩かれない夜が欲しかった」
「部屋に戻って、そのまま朝まで眠れる夜が」
アンナは、王家と教会を見渡した。
「それすら、お前たちは五年間、私に許さなかった」
「だから私は聖女を辞めた」
重い沈黙が落ちた。やがて民衆の中から、震える声が上がった。
「……給金は?」
アンナが、その声の方を見る。声を上げたのは、年老いた男だった。
「聖女様は、それだけ働いて……いくら給金を受け取っていたんです?」
広場の視線が、アンナへ集まる。アンナは答えた。
「聖女の間は一枚も受け取ってない」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
「……一枚も?」
「辞める時にせしめたがな」
「じゃあ……」
一人の老人が震える声で言う。
「わしらが教会へ納めていた寄付は……」
別の女が口元を押さえた。
「聖女様のためにって……」
「少しでも楽をしていただけるようにって……」
「聖女様が、あんなに頑張っておられた五年間……私たちの寄付は、一度も聖女様に届いていなかったのか?」
ざわめきが広場を包む。ティッツェンは慌てて前へ出た。
「寄付は教会全体の運営にも必要なもので――」
「違うだろ!!」
怒鳴り声が広場を震わせた。
「聖女様のためだって言ったじゃねぇか!」
「俺は牛を売って寄付したんだ!」
「俺の親父は、聖女様が少しでも楽になるならって酒までやめた!」
「全部、お前らが取ってたのか!」
ティッツェンが後ずさる。
「ち、違います! 教会の運営には――」
「黙れ!!」
「聖女様が辞めたのはお前たちのせいじゃないか!!」
教会の神官たちの前には、大きな寄付箱が置かれていた。
今日、聖女が王都へ戻って結界を張り直すと教会が触れ回り、「聖女様の活動のため」と寄付を募ったものだった。
「人の善意を……利用しやがって!」
誰かが、その寄付箱を蹴り飛ばした。木箱が石畳を転がり、今日だけで集められた大量の硬貨が音を立てて散らばる。
その音が、民衆の怒りに火をつけた。
「返せ!」
「聖女様に返せ!」
神官たちが一斉に後ろへ下がる。民衆は止まらない。押し寄せる人波に、神官の一人が尻もちをついた。
「やめろ! 近づくな!」
騎士たちが慌てて盾を構える。しかし怒りは収まらない。
「どけ!」
「こいつらを逃がすな!」
「五年間も聖女様を使い潰しやがって!」
石が飛ぶ。ティッツェンの足へ当たり、乾いた音が響いた。さらに二つ、三つ。神官たちが悲鳴を上げる。騎士たちは盾を重ね、教会側を囲むように壁を作った。それでも民衆は押し寄せる。
「引きずり出せ!」
「落ち着け!」
国王の怒号が広場に響く。それでもすぐには止まらない。何人もの騎士が押し返されながら、人の波を必死に食い止める。あと一歩遅ければ、ティッツェンは民衆に引きずり出されていた。
ようやく怒りの波がわずかに収まった頃、国王は騎士の壁を抜け、アンナの前へ歩み出た。そして深く頭を下げた。
「……すまなかった」
その一言だけだった。
「今さら謝って何になる!」
「王家も同罪だ!」
「謝れば済むと思ってるのか!」
怒号は今度、王家にも向けられる。国王は何も言い返さなかった。ただ頭を下げ続けた。
アンナは国王の横を通り過ぎる。広場中央の噴水へ歩き、その前で足を止めた。
「話は終わりだ」
その一言で、広場が静まる。
「私は教会へ戻らない」
「国にも戻らない」
ティッツェンは、投げられた石で切れた頬を押さえ、息を呑んだ。
「では……結界は……」
「張る」
ティッツェンは、その場で膝をついた。
それを見た教会の神官たちにも、動揺が広がる。国王も、またゆっくりと頭を下げた。
「勘違いするな」
静かな声だった。
「私は、お前らを助けに来たんじゃない」
広場の民へ目を向ける。
「助けるのは、この国で暮らしてる人たちだ」
アンナは噴水の縁に手を置いた。古い石造りの大噴水。王都の中心に作られ、何百年も水を流し続けてきた場所だった。
「この噴水を、要石に使う」
神官たちが息を呑む。
「噴水を?」
「結界の中心にする」
アンナの手から、淡い光が流れ込んだ。最初は、小さな光だった。噴水の底に沈み、水の中をゆっくりと広がっていく。
次の瞬間。噴水全体が黄金色に輝いた。
「うわっ!」
水が巨大な水柱となって空へ伸びる。空高くまで上がった水柱の中を、光が駆け上がった。噴水を中心に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。円形の光が石畳を走り、広場全体へ広がっていく。
「これは……」
高位神官が呆然と呟いた。
「こんな規模の術式、ありえない……」
光は広場では止まらなかった。大通りを走り、建物を抜け、王都の四方へ伸びていく。東門、西門、南門、北門。四つの城門へ同時に到達し、そのまま城壁を越えた。
王都の外。荒れた街道を進んでいた商隊が、足元を走る光に気づく。
「何だ、これは!」
光は馬車を通り抜け、街道に沿って遠くへ伸びていく。魔物に追われていた旅人の前にも、光が走った。光の境界へ飛び込んできた魔物が、見えない壁に弾き飛ばされる。
「結界だ!」
「街道に結界が!」
別の街道では、倒れかけていた結界柱が再び輝きを取り戻す。村へ続く分かれ道、宿場町、橋、森を横切る交易路。光は次々と繋がり、王都を中心に巨大な網のように広がっていった。
噴水広場では、空を見上げた人々が言葉を失っていた。王都上空、巨大な光の膜がゆっくりと形を作る。しかし、それは王都だけを覆う半球ではなかった。光は城壁の外へ、さらにその先へ、街道に沿って何十キロも伸び、王都と周辺の町や村をつなぐ道を守っていく。
誰かが呟いた。
「王都だけじゃない……」
噴水から吹き上がる光の中で、アンナは立っていた。以前なら、すでに膝をついていた。毎日の仕事で神聖力は空だった。食事も足りず、眠ってもいなかった。結界を張るたびに視界が暗くなり、それでも次の仕事へ向かわされた。
だが、今は違う。アンナは片手を噴水に置いたまま、もう片方の手を空へ向けた。
「毎日使い切ってた頃とは違う」
声が、広場全体へ響く。光がさらに強くなる。大噴水の水が天へ届くほど高く吹き上がる。王都を覆う光が、街道の先まで一気に広がった。
「神聖力なら、たっぷりある!」
アンナが手を振り下ろした。
「これが最後の結界だ!」
轟音とともに、光が弾けた。王都、城壁、街道、周辺の宿場町、村へ続く道。すべてが一つの巨大な結界で結ばれる。
そして、光は魔物を防ぐだけではなかった。
広場にいた人々の体を、淡い光が包んでいく。転んで膝を擦りむいていた子どもの傷が塞がり、杖をついていた老人の腫れた足から痛みが引いていく。熱に浮かされながら母親に抱かれていた幼子も、苦しそうだった呼吸をゆっくりと整えた。
「傷が……」
「痛くない……」
驚きの声が、広場のあちこちから上がる。
それは王都だけではなかった。結界の光が走った街道でも、宿場町でも、村でも、傷ついた者や病に伏していた者たちの体を、柔らかな光が包んでいた。
重い病をすべて治すほどではない。だが、傷は塞がり、熱は下がり、苦しんでいた者たちの症状が目に見えて和らいでいった。
それは、結界が完成した瞬間だけ、その光が届いた土地へ広がった、アンナからの最後の治癒だった。
広場にいた神官たちは、誰一人声を出せなかった。王家の者たちも同じだった。自分たちが五年間使い潰していた聖女が、本来どれほどの力を持っていたのか。今になって、初めて理解した。
ティッツェンが震えながら呟く。
「なぜ……これほどの力が……」
アンナは噴水から手を離した。
「当たり前だろ」
息も乱れず、顔色も変わっていない。
「お前らに使い潰されてた頃と違って、今は毎日飯食って寝てるんだよ」
民衆の中から、笑いとも泣き声ともつかない声が漏れた。やがて一人が拍手をした。次にもう一人。それは広場全体へ広がり、歓声へ変わった。
「聖女様!」
「ありがとうございます!」
「傷が……治ってる!」
「これで街道を使える!」
「村へ帰れるぞ!」
歓声の中、王家と教会の者たちは安堵した顔を見せた。アンナはそれを見逃さなかった。
「喜ぶのはまだ早い」
声を張る。広場が再び静まった。
「この結界は一年もつ」
国王が顔を上げる。
「一年……」
アンナは国王とティッツェンを見る。
「今はどっちも金がないんだろ」
「この結界の代金は、国を立て直してから王家と教会で払え」
アンナは念を押すように続けた。
「必ず徴収するからな」
国王は深く頭を下げた。ティッツェンも、何も言わず頭を垂れる。
「この一年で、結界魔道具を作れ」
アンナは国王を見る。
「職人を集めろ。材料を確保しろ。私一人がいなくても国が回る仕組みを作れ」
次に教会を見た。
「治療院を増やせ。治癒術を使える神官を育てろ。寄付集めの祭りより先にやることがあるだろ」
ティッツェンは何も言えない。
「一年で立て直せ」
アンナは、王家と教会を見渡した。
「国を挙げて、民を守れ!」
そして、はっきりと言った。
「私は二度と戻らない」
誰も引き止められなかった。アンナは背を向け、そのまま歩き出す。民衆が、自然に道を開けた。その中から、誰かが声を上げる。
「聖女様!」
アンナが足を止める。
「ありがとうございました!」
一人の声だった。だが、すぐに別の声が続く。
「ありがとうございました!」
「今まで、本当に……!」
「どうか、お元気で!」
声は広場全体へ広がっていった。アンナは振り返らない。ただ、片手を軽く上げた。
後に、この日の出来事は『聖女の奇跡』として、長く語り継がれることになる。
だがアンナにとっては、ただ王都での最後の仕事を終えた日だった。
*
数週間後。
王都から戻る途中で家族に出した手紙の返事が届いた。近いうちに、みんなこちらへ引っ越してくるらしい。
その日も、治療院にはいつものように患者が並んでいた。
「はい、次」
アンナは子どもの擦り傷を治した。
「今日はこれで最後だ」
「ええー、まだ外に三人いるよ?」
「重傷じゃないなら、明日来いって伝えてきな」
アンナは外に掛けてある札を裏返した。
『本日の営業は終了しました』
そして、治療院の扉を閉めた。
「聖女なんだから、もっと働けって?」
アンナは欠伸を一つした。
「知るか。私は寝る」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
第19回ファンタジー小説大賞に参加しています。
もしアンナの物語を面白いと思っていただけましたら、ページ最下部の「第19回ファンタジー小説大賞で投票する」から投票いただけると、とても嬉しいです!




