第5話 私の五年間に値段をつけろ
その日の夜、アンナは大司教と数人の神官を連れて再び王宮へ入った。突然の訪問に国王や宰相、数人の重臣が謁見の間へ集められていたが、彼らの前に立つアンナはもう、聖女らしい微笑みを浮かべてはいなかった。
「アンナ。大司教から話は聞いた」
国王は厳しい顔で玉座に座っている。
「聖女を辞め、国を出るというのは本当か」
「本当です」
「なぜ、突然そのようなことを」
「五年間、無給で休みなく働かされたからです」
重臣たちがざわめく。
「それだけの理由で、聖女の使命を放棄するというのか」
アンナの眉がぴくりと動いた。
「……それだけ?」
国王が重い声を出す。
「聖女の力は、そなた個人のものではない。王国と民のために、神から授けられたものだ」
「こんな奴隷みたいに働かされてるのを見たら、授けた神様も嘆いてるわ!」
「聖女を奴隷などと一緒にするな」
「奴隷以下の扱いしといて、名前だけありがたく飾ってんじゃねぇよ!」
アンナの声が謁見の間に響く。
兵士たちが動きかけたが、国王が手で制した。
「私は王族を何人治療した?」
「……」
「第二王子だけじゃない」
「王妃の病気」
「王女の熱」
「王太子の遠征で負った傷」
「貴族たちも何人治した?」
国王は答えない。
「王都の結界を維持して、魔物の侵入を防いだ」
「街道沿いを浄化し、農地の病気も治した」
「そのおかげで何が起きた?」
アンナは重臣たちを見回す。
「魔物被害が減った」
「街道が安全になり、商人が増えた」
「畑の収穫が安定した」
「巡礼者が国中から押し寄せた」
「税収、増えたよな?」
財務を担当する重臣が目を伏せる。
「答えろ」
「……増えました」
「どれくらい」
「近年では、類を見ないほどに」
「ほらな」
アンナは国王を見る。
「私が来る前と、来た後で、この国がどれだけ儲かったか」
「王様なら知ってるよな?」
「それは国民一人一人の努力によるものでもある」
「その努力が実る土台を誰が守った?」
「……」
「魔物に襲われる街道で商売できるか?」
「病気で枯れる畑から税を取れるか?」
「巡礼者は誰を見に来た?」
誰も何も言わない。
「私だろうが!」
アンナは玉座を睨む。
「私を五年間使って、教会も国も儲かった」
「なのに、私には一枚も払わなかった」
「今までの働きに見合った金を出せ」
国王の表情が険しくなる。
「払わぬと言ったら?」
「王都の結界を解除してから国を出る」
謁見の間がどよめいた。
「今のままなら二か月持つ」
アンナは動じない。
「二か月あれば、国も教会も対策を考えられる」
「でも、それは私が五年間働いた対価を払った場合だ」
「払わないなら、最後の働きまで無償で渡す理由はない」
「民を人質に取るつもりか」
国王が睨みつける。
「五年間、民を人質にして私を働かせた奴が何言ってんだ?」
国王が息を呑む。
「私は十八歳だった」
「聖女に選ばれたと言われて、拒否できると思ったか?」
「国と教会に囲まれて、家族から引き離されて、毎日働かされて」
「嫌だと言えば、民を見捨てるのかって責められる」
「ずっと民を人質にされてきたのは、私だ!」
アンナの声に、誰も言葉を返せなかった。
「私はもう辞める」
「これは決定だ」
「国を出ることも変えない」
「交渉してるのは、結界を残すか消すかだけだ」
アンナは国王を真っ直ぐ見据える。
「私の五年間に値段をつけろ」
*
話し合いは夜遅くまで続いた。教会の帳簿や国庫の収支記録が次々と運び込まれ、その内訳が確認されていく。
巡礼者からの莫大な寄付金に、聖女の名を冠した祝福札や聖水の売上。王都への訪問者から徴収した税や交易の増加分に加え、魔物被害の激減によって浮いた防衛費まで。アンナ自身も正確な額を知っていたわけではなかったが、帳簿を開けば開くほど、教会と王国が彼女の犠牲の上に得た利益は底知れず膨れ上がっていった。
目を疑うような数字を前に、大司教は滝のような汗を拭いながら何度も苦しい言い訳を口にした。
「これは教会の運営に必要な資金で……」
そのたびに、アンナは答えた。
「そればっかりだな、私には一枚も使ってねぇだろ」
財務官が国庫の事情を語れば、
「五年分タダで使った相手に、金がないで済むと思うな」
と切り捨てた。
結局、教会は地下金庫から大量の金貨を出し、王国も国庫から相応の額を支払うことになった。次々と謁見の間へ運び込まれる金貨の入った箱の一つを開け、アンナは中身を確認した。
「これで全部か?」
財務官が震える声で答える。
「教会と王国、それぞれが用意できる限りの額です」
アンナは箱を閉じた。
「まあいい」
大司教が恐る恐る尋ねる。
「では、結界は……」
「二か月は残す」
室内に安堵の息が広がった。
「ただし、私は一切維持しない」
「二か月後に消える」
「その前に、自分たちでどうにかしろ」
「アンナ」
国王が呼び止める。
「本当に、考え直す気はないのか」
「ない」
「待遇を改めることもできる」
「五年前に言え」
「今後は十分な休息と報酬を――」
「もう遅い」
アンナは金貨の箱へ手を置く。
「私が怒ったから払うんだろ?」
「結界を消すって言ったから休ませるんだろ?」
「私を人間だと思ったからじゃない」
「聖女がいなくなると困るからだ」
国王も大司教も、何も言えなかった。
「今日でもう四日目だ」
「私はもう四日近く、一睡もしていない」
「そういう扱いをしてきたのはお前らだ」
「だから辞める」
アンナが指定した商会の主人も王宮へ呼び出され、金貨は一部を手元に残しその場で商会へ預けた。
アンナは五年間、外すことを許されなかった聖女の証である首飾りを外すと、大司教の前へと投げ捨てた。硬い音を立てて、首飾りが冷たい床を滑っていく。
「今日から私は、ただのアンナだ」
*
王宮を出た頃には、空が白み始めていた。
アンナは教会へは戻らず、法衣の上に外套を羽織り、金貨の一部だけを持って王都の宿屋へと向かった。
訪ねてきたアンナの顔を見るなり、宿屋の主人は驚きに目を見開いた。
「せ、聖女様……?」
「今日から違う」
「え?」
「部屋を一つ」
「は、はい。何泊でしょうか」
アンナは少し考える。
「分からない。とりあえず三日分払う」
金貨を一枚、受付へ置いた。
主人は慌てて両手を振る。
「き、金貨! 多すぎます!」
「じゃあ、一番いい部屋」
「それでも、お釣りが……」
「誰が来ても起こさないでくれたら、全部やる」
宿屋の主人はアンナの顔を見た。目の下の濃い隈に青白い肌、立っていることすらつらそうなその姿に、主人は事情を何も聞かず、静かに鍵を差し出した。
「分かりました」
「誰が来ても、絶対に起こしません」
アンナは鍵を受け取る。
「ありがとう」
階段を上がって部屋に入り、扉を閉めて鍵をかける。そこには誰もいない。扉を叩く神官も、次の予定を告げる者もいなかった。アンナは外套を床へ落とし、法衣も脱ぎ捨て、靴も適当に蹴り飛ばしてベッドへと倒れ込んだ。柔らかな布団が身体を包み込む。しかし、目を閉じた瞬間、アンナはまた目を開ける。
「……」
静かな天井を見つめ、それからゆっくりと口元を緩めた。
「行かなくていいんだ」
聖女なのだからと、何かを押しつける者もいない。
「もう、寝ていいんだ」
アンナは布団を抱きしめる。
五年ぶりに、誰にも起こされる心配をせず、目を閉じた。
そして、そのまま深い眠りへ落ちていった。




