第3話 は?
巡礼祭の最後の一人へ祝福を授け終える頃には、すでに夜が更けていた。
ようやく仕事が終わったと思った矢先、東地区の治療院から緊急の知らせが届く。巡礼者で満員となった宿屋で集団食中毒が発生し、二十人以上が高熱と嘔吐に苦しんでいるという。
アンナは休む間もなく馬車に乗り込み、東地区へ向かった。
治療を終えて教会へ戻った頃には、すでに夜が明けていた。二日、まともに眠っていない。数え切れない巡礼者への祝福、事故に遭った子供の治療、そして集団食中毒への対応。身体は酷く重かった。
ようやく休めると法衣の留め具へ手を伸ばした時、扉が叩かれた。
「アンナ様。王宮より使者が参っております」
「王宮から?」
「西門の結界に乱れが見つかったそうです。至急確認していただきたいと」
アンナは、皺もない白い布団を見つめた。
「……承知しました」
西門の城壁外には、朝早くから商人たちの馬車が長蛇の列を作っていた。
アンナが王都と主要街道を覆う結界を築いてから、魔物の被害は激減し、少人数の護衛でも安全に交易ができるようになっている。
結界の要石には、亀裂のような光が走っていた。
「結界自体は維持されていますが、念のため補強をお願いしたいと」
「……結界に問題はありません。要石が神聖力に耐えられなくなったようです」
要石へ両手を添えた瞬間、鋭い頭痛が走った。
「アンナ様?」
「問題ありません。要石を交換してください。その後、結界を張り直します」
兵士たちが予備の要石を運び込み、劣化した要石と交換する。
アンナは新しい要石へ両手を添え、結界を張り直した。
「さすが聖女様だ」
西門の確認を終えたアンナは、結果を報告するため、そのまま王宮へ向かった。
王宮へ向かう馬車の中、アンナはいつの間にか意識を失いかけていた。
「アンナ様」
向かいの神官の声に目を開ける。
「王宮へ到着しました」
「……ありがとうございます」
自分がどこにいるのかも一瞬分からなかったが、何事もなかったように姿勢を正して馬車を降りた。
王宮の執務室では、国王と財務官が歓談していた。
「今年の交易税も、昨年を大きく上回る見込みでございます」
「五年前と比べれば、どれほど増えた?」
「およそ三倍でございます。街道沿いの宿場町も栄え、王国全体が以前とは比べものにならないほど豊かになりました」
アンナが執務室に案内されると、国王は満足そうに視線を向けた。
「王国は平和だ。そなたの結界のおかげだ」
「王国の民が安心して暮らせるのであれば、私も嬉しく思います」
「うむ。これからも王国のため、力を尽くしてくれ」
「はい」
話はそれだけで終わった。
アンナが執務室を出ると、二人は増えた税収の使い道、離宮の建設や広場の改修、騎士団の装備について話し始めた。
廊下では、一人の若い侍女が目を輝かせて近づいてきた。
「今年も王国の税収が大きく増えたそうです。アンナ様の結界のおかげだと、皆様がおっしゃっていました」
「皆様が安心して街道を使えるようになった結果です」
「きっとアンナ様にも、たくさんの褒賞やお給金が出るのでしょうね」
アンナの足が止まった。
「アンナ様は、お給金で何を買われるのですか?」
「……」
聖女となって五年。教会からも王国からも、給金など受け取ったことはない。奉仕に金銭を求めてはならないと教え込まれてきたからだ。
同行していた神官が穏やかに笑った。
「聖女様は神に選ばれたお方です。神への奉仕に、俗世の報酬を求めるような方ではありませんよ」
失言に気づいた侍女が慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません、アンナ様。私、そんなつもりでは……」
アンナは何も答えず、いつもの微笑みを浮かべた。
「北の村へ急ぎましょう。病に苦しんでいる方々が待っています」
歩き出した彼女の右手が、法衣の裾を強く握りしめていた。
北の村までの二時間、アンナは瞼が落ちるたびに揺れる馬車の窓枠へ頭をぶつけ、その痛みで目が冷めた。
また目を閉じた直後、神官が書類を取り出す音が響く。
「そういえば、村での治療が終わりましたら、王都へ戻る前に東の農村へ寄っていただきたいそうです」
「東の農村ですか?」
「はい。今年の豊作を願う祈願祭が行われます。それから、夜の祈祷にも間に合うようにとのことです」
「……承知しました」
北の村では、病に倒れた多くの住民がアンナを待っていた。
感謝されるたびに微笑み、重い身体を引きずって一人ずつ治療していく。
すべての治療を終えて立ち上がった瞬間、視界が暗転して身体が傾いた。
「アンナ様!」
村人の手を借りる前に自力で踏みとどまり、笑顔を作る。
「大丈夫です。少し立ちくらみがしただけですから」
「急ぎましょう。東の祈祷所を経由しなければ、夜の祈祷に遅れてしまいます」
「はい」
急かす神官の声に頷き、アンナは馬車へ乗り込んだ。
教会へ戻った頃には、夜も深くなっていた。
祈祷と最後の祝福を済ませ、自室の扉へ手をかける。
二日以上、一睡もしていない。次の朝の鐘まであと数時間。法衣のままベッドに倒れ込んでもいい。
扉を開こうとした、その時だった。
「アンナ様!」
廊下を走ってきた神官の声に、アンナの手が止まった。
「北墓地から緊急の知らせです」
「墓地を覆う鎮魂の術式に乱れが見つかり、埋葬区画の一部から穢れが漏れ出しているそうです」
「このままでは、死霊が現れるおそれがあると……。アンナ様に、すぐ来ていただきたいとのことです」
「……」
閉じたままの扉を見つめ、無言の間が落ちる。
やがて、ゆっくりと手を離し、振り返った時にはいつもの聖女の微笑みが浮かんでいた。
「分かりました。参りましょう」
北墓地へ着いた頃には、夜もかなり更けていた。
墓地の周囲には白い石柱が並び、その一部に黒い染みのようなものが広がっている。石柱を結ぶ淡い光はところどころで途切れ、墓標の間には冷たい霧が漂っていた。
「数日前から術式が弱まっていたようです」
墓守の神官が説明する。
「今夜になって急に穢れが濃くなり、奥の区画から声を聞いた者もおります」
アンナは墓地の中央へ進み、地面に刻まれた鎮魂の術式へ膝をついた。
「術式そのものが傷んでいます」
「修復できますでしょうか」
「はい」
両手を地面へ添え、神聖力を流し込む。
淡い光が地面の紋様を走り、墓地全体へ広がっていく。途切れていた石柱の光が一つずつ繋がり、墓標の間を漂っていた霧が薄れていった。
だが、神聖力を注ぐたびに、鋭い頭痛がアンナを襲う。
眠気で意識が遠のきかけ、身体が前へ傾いた。
「アンナ様?」
「問題ありません」
即座に姿勢を戻し、いつもの微笑みを作る。
最後の石柱に光が灯ると、墓地を覆っていた冷気が消えた。
「これで、しばらくは問題ありません」
墓守たちが安堵の息をつく。
「ありがとうございます、聖女様」
「これで死者も安らかに眠れます」
眠れる。
その言葉に、アンナは一瞬だけ目を伏せた。
「……それは、よかったです」
墓地を出る頃、空はまだ暗かった。それでも今教会に戻れば、朝の祈祷まで一、二時間は眠れるかもしれない。
アンナは、その時間だけを期待に馬車へ乗り込んだ。
教会の廊下は静まり返っていた。
自室に入ってようやく笑顔を消し、重い法衣を脱ぎ捨ててベッドへ腰を下ろす。
横になる。ただ、それだけでいい。
枕元へ手を伸ばした、その時だった。
ドンドンドンッ!
「アンナ様!」
「アンナ様、お戻りですか!」
居留守を使おうかと考えた直後、再び扉が叩かれる。
「急ぎのお願いがございます!」
アンナはゆっくりと目を閉じ、二度深呼吸をしてから床の法衣を拾い上げた。
いつもの微笑みを浮かべて扉を開ける。
「お待たせしました」
若い神官は安堵したようだった。
「申し訳ございません。本日の巡礼者が、予定より五百名ほど増える見込みです」
「五百名ですか」
「はい。昨日の祝福を受けられなかった方々が、近隣の宿場から大勢いらしているようでして」
「配布する祝福札が足りません。朝までに追加で五百枚、祝福をお願いできますでしょうか」
一度も横たわっていないベッドを一瞬だけ見つめ、アンナは頷いた。
「承知しました」
「ありがとうございます!」
机に積まれた白紙の札一枚一枚に手を触れ、祈りを込め続ける。
五百枚を終えた頃には朝になっていた。
そのまま巡礼者への祝福が始まる。
「あなたに、神の……ご加護が、ありますように」
「聖女様?」
疲労で口がうまく動かない。
神官たちは心配そうに囁き合った。
「あとで少し休んでいただいた方がいいのでは?」
「そうだな。午後の予定が始まるまで、少し座っていただこう」
午後の予定を減らすという発想は、誰の頭にもなかった。
二十分の休憩は食事で半分が消え、目を閉じた直後、西の貴族家から令嬢の婚約を祝福してほしいとの依頼が届いた。
「本日ですか?」
「先方は、できれば本日中にと」
「午後は孤児院訪問があると伺っています」
「その後であれば間に合います。先方も、百年ぶりの聖女様から直接祝福を受けられることを楽しみにしております」
「……承知しました」
孤児院訪問と貴族家への祝福を終え、教会へ戻る馬車の中で、神官は満面の笑みを浮かべた。
「御当主も大変お喜びでした。教会へ多額の寄付もしてくださるそうです」
「……それは、よかったですね」
「ええ。アンナ様のおかげです」
夜の祈祷、聖水への祝福、祭具の確認を終えた頃には日付が変わっていた。
最後の報告のため、大司教の執務室へ向かうと、中から話し声が聞こえた。
「アンナ様は、少しお疲れのように見えました」
「それはいけませんね。もし倒れられでもしたら、王国全体が困るでしょう」
「くれぐれも無理をしないよう、私からも伝えておきましょう」
二人は本気で心配していたが、明日の予定を減らす話は一度も出なかった。
自室へ戻り、ようやく布団へ身体を滑り込ませた直後、また扉が叩かれた。
「明朝、王宮で急遽、祈願式が行われることになりました! 祭壇と祭具への祝福を、今夜中にお願いしたいとのことです!」
休んでいるならなぜ扉を叩くのか。眠っているならなぜ起こすのか。
込み上げる疑問を押し殺し、アンナは法衣を着直した。
「参りましょう」
三日続けて、一睡もできないまま。
王宮での祈願式が終わったのは、昼を過ぎてからだった。
限界を迎えた足の震えを隠し、アンナは王侯貴族たちへ祝福を与えた。
すべてを終えて教会へ戻ると、大司教は新たな予定を告げた。
「今夜は南地区の貴族邸で晩餐会です。ぜひ聖女から祝福をとのことです」
予定表に空白はない。深夜の祈祷、翌朝の結界確認と続く。
「……大司教様」
「なんでしょう」
「申し訳ありませんが、今夜は休ませていただけませんか」
「……三日以上、眠っておりません」
周囲の神官たちが驚きに目を見開いた。だが、ティッツェンは困ったように眉を下げただけだった。
「それは大変でしたね」
「ですので、今夜だけでも」
「ですが、先方は聖女の祝福を楽しみにしております」
「明日では、他の神官では駄目でしょうか」
「先方は聖女を望んでいます。あなたがどれほど疲れているかなど、先方には関係ありません」
ティッツェンは、何を今さらと言わんばかりに微笑んだ。
「聖女なんだから当然でしょう?」
アンナは動かず、大司教を見つめた。
五年前、十八歳で突然聖女に選ばれ、家族から引き離された。聖女らしくあれと教え込まれ、嫌でも眠くても微笑んで、感情を殺して働き続けた。
けれど、もう何も飲み込めなかった。
「……は?」




