第2話 教会の笑顔
王宮の一室。豪華な天蓋付きの寝台には、右腕に真新しい包帯を巻かれた第二王子が、退屈そうに寝転がっていた。
「アンナ様、お待ちしておりました」
侍医に一礼し、アンナは王子の傍らへ歩み寄る。
「お加減はいかがでしょうか、殿下」
「もう痛くないよ。父上が、念のため聖女に診てもらえってさ」
侍医が包帯を外すと、そこにあったのは階段で転んだ拍子にできた小さな擦り傷だけだった。血も止まり、腫れてもいない。アンナがそっと手を添えると、柔らかな光が手首を包み、傷は数秒で跡形もなく消えた。
「すごい! 本当に消えた!」
「しばらくは、ご無理をなさらないでくださいませ」
「分かった」
返事をした王子は、もう元気よく寝台から降りようとしていた。
「夜分にもかかわらず、本当にありがとうございました」
「お気になさらないでください」
教会へ戻る馬車の揺れに、アンナの瞼が落ちる。十分でもいいから目を閉じたい。
「アンナ様」
向かいに座る若い神官の声に、ゆっくりと目を開く。
「第二王子殿下のお傷、大事に至らず本当によかったですね」
「そうですね」
「さすがはアンナ様です。王家の方々も、アンナ様がいらっしゃれば安心でしょう」
「……ありがとうございます」
満足そうに頷く神官との会話はそこで終わったが、一度開いた目は簡単には閉じなかった。
教会へ戻る頃、夜明け前の鐘が鳴った。午前四時。昨日アンナが目を覚ましたのと同じ時刻だ。結局、王宮から戻るまで一度も眠れないまま次の日が始まった。
せめて法衣を脱いでベッドへ横たわりたいと自室へ向かっていると、背後から声が届く。
「アンナ」
振り返ると、大司教ティッツェンが歩いてきた。
「お戻りでしたか。第二王子殿下のお加減は」
「小さな擦り傷でした。治療は終えております」
「それは何よりです」
ティッツェンは穏やかに微笑んだ。
「本日は巡礼祭です。各地から大勢の巡礼者が集まっております」
「……はい」
「夜明け前から大聖堂の前に並んでいる者もいるそうです」
閉ざされた窓の外からは、すでに人々のざわめきが聞こえ始めている。
「本日は、巡礼者への祝福をお願いいたします」
「承知いたしました」
いつものように微笑んで答えると、ティッツェンは満足そうに頷いた。
「支度ができましたら、祭壇へ向かってください」
それだけ告げて自室へ戻る背中を見送り、アンナは踵を返して祭壇へと向かった。眠る時間はなくなった。
日が昇る頃、大聖堂の前は王国中や隣国からの巡礼者で埋め尽くされていた。
「アンナ様!」
「聖女様!」
人々が笑顔で手を振る。アンナも笑顔で応え、一人ずつ祝福を授けていく。
「神のご加護がありますように」
「ありがとうございます!」
「これで安心して旅へ出られます!」
何百人に祝福を与えても列は短くならない。身体は重く、頭はぼんやりとし、人々の顔が二重に見える。それでもアンナは笑顔を崩さなかった。
目の前に進み出た老夫婦は、彼女を見て涙を流した。
「生きている間に、聖女様へお会いできるとは……」
「ありがたいことです」
「お二人に、神のご加護がありますように」
白い光が広がり、老夫婦は幸せそうに笑った。アンナも穏やかに微笑んだ。
*
教会の応接室では、地方貴族や有力商人がティッツェンを囲んでいた。
「今年は、昨年以上の人出ですな」
「王都の宿屋は、どこも満室だそうです」
「うちの商会も、聖女様のお守りが飛ぶように売れております」
商人の合図で、金貨が隙間なく詰まった木箱が運び込まれた。
「教会への寄付でございます。聖女様の活動へ、お役立てください」
「これはご丁寧に。神も、お喜びになるでしょう」
別の貴族も合図を送り、金貨の箱が次々と積み上げられていく。誰もが笑顔だった。
*
昼過ぎにようやく祝福が中断され、アンナは祭壇裏の椅子へ沈み込むように腰を下ろした。
「アンナ様、お昼をご用意しました」
修道女リオナがパンと温かいスープを運んでくる。
「顔色がよくありません。昨夜は眠れましたか?」
「……少しだけ」
「え?」
「昨夜、少し眠っただけです」
リオナの表情が曇った。
「祝福を再開するまで、少しでもお休みください」
「ありがとうございます」
食事を終え、椅子の背に身体を預ける。目を閉じ、意識が沈みかけた直後、ドアが勢いよく開いた。
「アンナ様! 南地区で、子供が馬車にはねられました!」
リオナが振り返る。
「治癒術師の方は?」
「重傷なのです! 聖女様でなければ助けられないかもしれません!」
アンナはゆっくりと立ち上がった。
「行きましょう」
「アンナ様。まともに眠っていないのでしょう?」
「今は、子の命の方が大切です」
部屋を出るアンナを見て、若い神官は安堵の息を吐いた。
「よかった。アンナ様なら、すぐに来てくださると思っていました」
アンナの右手が、わずかに法衣の裾を握り、すぐに開かれた。
南地区へ向かう馬車の外では、商人たちの声が飛び交っていた。
「百年ぶりの聖女様の祝福水!」
「巡礼祭限定のお守りだよ!」
アンナは壁に頭を預けた。
*
その頃、教会の地下保管庫では、寄付金の木箱が次々と運び込まれていた。
「今年は去年の倍を超えるかもしれません」
「巡礼者も寄付も、まだまだ増えそうですな」
嬉しそうに笑う神官たちの前で、ティッツェンは紅茶を飲んだ。
「聖女とは、人々へ希望を与える存在です。人々が救われ、教会が栄える。すべては、神のお導きなのでしょう」
神官たちは笑顔で頷き、誰一人としてその言葉に疑問を抱かなかった。
*
アンナが子供の治療を終えて戻った頃には、日は大きく傾いていた。それでも大聖堂の前には、多くの巡礼者が残っている。
「聖女様がお戻りになったぞ!」
「祝福を再開してくださるそうだ!」
歓声の中、アンナは重い足を引きずり、祭壇の前に立った。
「神のご加護がありますように」
一人、また一人。日が沈んでも祝福は続いた。
*
同じ頃、教会の地下には、また一つ金貨の箱が積まれていた。
「今年は本当に素晴らしい巡礼祭ですな」
「すべては聖女様のおかげです」
神官たちが笑顔で頷き合っている頃、アンナは最後の巡礼者へ微笑みかけていた。




