第1話 聖女の仕事
午前四時。夜明け前の教会の鐘の音で、アンナは目を覚ました。
法衣を脱いでようやくベッドに入れたのは午前一時過ぎ。睡眠時間は三時間にも満たず、背中から肩にかけて鉛を詰め込まれたような重い疲労がのしかかっている。それでも、聖女に休みはない。
「……今日も頑張りましょう」
純白の法衣に袖を通し、鏡に向かう。二十三歳の自分の目元に浮かんだ濃い隈を、手慣れた手つきで化粧で隠した。最後に聖女の証である首飾りを首へかける。病に苦しむ人々に、聖女が疲れた顔を見せるわけにはいかない。
静まり返る大聖堂へつづく廊下を歩く。閉ざされた扉の向こうからは神官たちの規則正しい寝息が聞こえ、アンナは胸の奥に湧き上がる感情をぐっと飲み込んだ。
大聖堂へ向かう途中、夜番の老神官が一人、椅子に腰掛けていた。
「ああ、アンナ様。もうお出かけですか」
「おはようございます」
「東地区でしたかな」
「はい。流行り病が広がっているそうです」
「そうでしたか。それは大変ですな」
老神官は眠そうに欠伸を噛み殺した。
「私はもうすぐ交代ですので、部屋へ戻らせていただきます。アンナ様もお気をつけて」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
これから眠るのだろう彼を見送り、アンナは一人大聖堂を後にした。
夜明け前の東地区の治療院には、すでに患者とその家族の長い列ができていた。
「聖女様だ!」
「アンナ様が来てくださった!」
「これでもう大丈夫だ」
「聖女様が来てくださったんだもの」
不安に沈んでいた人々の顔が明るくなる。その言葉に、アンナは疲労を隠して背筋を伸ばした。
最初の患者である高熱に苦しむ幼い少女の額に、優しく手を添える。
「大丈夫ですよ」
淡い光が少女を包み込むと、たちまち熱が引き、荒かった呼吸が落ち着いた。
「……苦しくない」
母親は涙ながらにその場に崩れ落ちた。
「ありがとうございます!」
「本当に、本当に助かりました……!」
「今日は暖かくして、ゆっくり休んでくださいね」
「はい!」
次々と患者を治療し、感謝の言葉に笑顔で応え続ける。重い瞼を引き上げながら気を張っていたが、列はなかなか途切れない。
「聖女様。昨夜から、胸が苦しくて……」
「大丈夫ですよ」
アンナが微笑みかけ、最後の患者を治療し終える頃には、朝日はすっかり高く昇っていた。
教会へ戻ると、神官たちが次々と起き出し、食堂からは焼きたてのパンとスープの香りが漂っていた。皆、午前四時からアンナが働いていることを知った上で、それを特別なことだとは思っていない。
「アンナ様、おはようございます!」
「もう東地区は終わったのですか?」
「今日も朝からご苦労様です!」
明るい声が飛び交う。
「アンナ様、朝食は召し上がりましたか?」
食堂から顔を出した修道女のリオナに問われ、アンナは足を止めた。
「まだです」
「でしたら、パンを取っておきますね。スープも温かいうちにどうぞ」
「ありがとうございます」
せめて椅子に座って温かいスープが飲める、と安堵した矢先だった。
「アンナ」
大司教ティッツェンが、食後の紅茶を手に姿を現した。
「おはようございます、大司教様」
「東地区の治療は終わりましたか」
「はい。先ほど、最後の患者の治療を終えました」
「それは結構」
ティッツェンは満足そうに頷く。
「流行り病が広がれば、巡礼を控える者も出てきますからね。早めに収まって何よりです」
「はい」
「では、そのまま南地区の大貯水槽へ向かってください」
「貯水槽へ、ですか」
「今朝、水にわずかな濁りが見つかったそうです。念のため、あなたの神聖力で浄化しておくべきでしょう」
「……承知いたしました」
「その後は、巡礼者への祝福式があります」
予定表を確認しながら、ティッツェンは続ける。
「昼過ぎには終わる予定です。その後は孤児院を訪問し、夕方からは王宮で王妃様への祈祷ですね」
今すぐ南地区へ向かえば、朝食の時間は無い。リオナが慌てて声を上げた。
「大司教様。アンナ様は、まだ朝食を召し上がっておりません」
「おや、そうでしたか」
驚いたように目を瞬かせた後、ティッツェンは穏やかに微笑んだ。
「では、馬車の中で召し上がれるよう、パンを包んで差し上げなさい」
「ですが、東地区から戻られたばかりで……」
「大貯水槽の浄化は、王都の安全に関わることです」
ただ当然の優先順位を語る声だった。
「神は、アンナの働きを見守っておられます」
「よろしく頼みましたよ」
「……承知いたしました」
アンナは布に包まれたパンを受け取り、温かいスープの香りを背に教会を出た。
南地区へ向かう馬車の一定の揺れに、アンナは強い睡魔に襲われていた。数分でも眠りたいと目を閉じかけた、その時。
「アンナ様」
向かいに座る神官が声をかけた。
「大貯水槽の浄化後なのですが、祝福式へ向かう前に、北地区の商人組合から面会をお願いされております」
「面会ですか」
「はい。巡礼祭へのご協力について、直接お礼を申し上げたいそうです」
「本日の予定にはありませんでしたが」
「短いご挨拶だけです。十分もかからないでしょう」
「……分かりました」
「ありがとうございます」
神官の安心したような笑顔に、アンナは窓の外へ顔を向ける。もう、眠気はすっかり飛んでいた。
大貯水槽の浄化、商人組合との面会、祝福式、孤児院訪問、王妃への祈祷。さらに予定外の貴族の治療を二件こなし、最後の仕事を終える頃には空は完全に暗くなっていた。
王宮を出る馬車の中で、付き添いの神官が大きく伸びをする。
「今日も一日、疲れましたね」
「そうですね」
「私は戻ったら、すぐに休ませてもらいます」
「明日は昼からの担当なので、久しぶりにゆっくり眠れそうです」
「それは、よかったですね」
「アンナ様も、今日は休めるといいですね」
「はい」
教会の自室に戻った時には、すでに日付が変わる直前だった。純白の法衣を脱ぎ、椅子に腰を下ろす。今日はもう呼ばれないだろう。四時間は眠れるかもしれない。
そう思いながら目を閉じると、アンナの意識はすぐに途切れた。
どれほど眠ったのだろう。
ドンドンドンッ!
激しいノックと共に、若い神官の慌てた声が響いた。
「アンナ様!」
「王宮より緊急要請です!」
「第二王子殿下がお怪我を!」
「……容体は?」
「夜中に目を覚まし、階段から転落したとのことです」
王族の負傷。聖女が断るという選択肢は最初から用意されていない。
アンナの胸の奥で、何かが大きく膨らんだ。朝まで眠った神官たち、紅茶を飲んでいた大司教、明日は昼まで眠れると笑った神官。彼らの顔が次々と浮かぶ。あと数時間もすれば、また午前四時の鐘が鳴るのだ。
アンナは奥歯を噛みしめ、数秒後には静かに答えていた。
「今、参ります」
法衣を整えて廊下に出ると、若い神官が安堵の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「夜遅くに申し訳ありません」
断られるとは微塵も思っていないその顔の前で、アンナの右手は密かに法衣の裾を握りしめていた。
誰にも気づかれることなく、彼女はいつもの微笑みを浮かべたまま王宮行きの馬車へと歩き出した。




