第16話 「勇者の背中」
山が揺れた。
轟音が空を裂き、黒い衝撃波が森を薙ぎ払う。
木々がなぎ倒される。
岩壁が砕ける。
空気そのものが震えていた。
「うわっ!?」
レインはとっさに身を伏せた。
目の前では、巨大な影と兄が激突していた。
剣が振られる。
ただ、それだけだった。
それだけなのに。
巨大な影の腕が吹き飛ぶ。
「……は?」
レインは言葉を失った。
リズも呆然としている。
「今の見えた?」
「見えない……」
「俺もだ」
クロウまで真顔だった。
兄は静かに歩く。
巨大な影は咆哮した。
地面が割れる。
木々が倒れる。
それでも兄は止まらない。
「強すぎるだろ……」
レインが呟く。
自分が必死に戦ってきた敵。
何度も死にかけた相手。
それを兄は一人で押している。
まるで格が違う。
巨大な影が拳を振り下ろした。
山を砕く一撃。
しかし。
兄は横へ半歩。
たった半歩だった。
巨大な拳が空を切る。
次の瞬間。
閃光。
影の胴体が斜めに裂けた。
黒い血が噴き出す。
「終わった……?」
リズが呟く。
だが。
違った。
裂けた胴体から黒い霧が溢れ出す。
影が笑ったように見えた。
そして。
肉体が膨張する。
「まずい!」
クロウが叫ぶ。
「第二形態だ!」
「第二形態!?」
「お前それ先に言え!」
「俺も今知った!」
「役立たねぇ!」
リズが思わずツッコんだ。
一瞬だけ空気が緩む。
しかし次の瞬間。
絶望が降りた。
巨大な影は二倍以上に膨れ上がっていた。
六本の腕。
無数の目。
頭部から伸びる黒い角。
もはや怪物だった。
「なんだよ……あれ」
レインの背筋を冷たい汗が流れる。
兄ですら眉をひそめた。
初めて見せた表情だった。
影が突進する。
轟音。
爆風。
兄が初めて吹き飛ばされた。
「兄さん!」
岩壁に叩きつけられる。
土煙が舞う。
リズが息を呑んだ。
「怪我……」
「いや」
クロウが首を振る。
「まだ終わってねぇ」
土煙の中から兄が歩いて出てくる。
口元から血を流しながら。
それでも立っていた。
「化け物かよ……」
レインが呟く。
すると。
兄が笑った。
本当に少しだけ。
「そう思うか」
遠く離れているのに。
なぜか声が届いた。
レインの胸が震える。
兄の声。
ずっと探していた人の声。
生きている。
本当に。
生きている。
探していた。
何年も。
死んだと言われても信じなかった。
憧れていた。
追いかけていた。
泣きながら探した夜もあった。
その兄が今、目の前にいる。
それだけで胸が熱くなった。
その瞬間だった。
巨大な影が兄の死角へ回り込む。
「危ない!」
レインは飛び出していた。
「レイン!」
リズの叫び。
だが止まれない。
交換。
それしかない。
兄の位置と岩を交換する。
そうすれば。
そう思った。
「交換!」
能力が発動する。
しかし。
動かない。
「なっ!?」
影の周囲だけ空間が歪んでいた。
交換が阻害される。
失敗。
その一瞬。
巨大な腕が迫った。
「しまっ――」
死。
それを覚悟した。
だが。
世界が反転する。
気づけば。
レインは数十メートル後方へ移動していた。
「え?」
目の前には兄。
レインの代わりに攻撃を受け止めている。
轟音。
地面が陥没する。
兄は片腕で影を止めていた。
「兄さん……」
「余計なことをするな」
静かな声だった。
「でも!」
「死ぬところだった」
その一言が胸に刺さる。
反論できない。
実際に死にかけた。
「まだ早い」
兄は振り返らない。
「お前はまだ届いていない」
胸が痛んだ。
悔しい。
悔しくてたまらない。
兄を助けたかった。
やっと会えた兄を。
守りたかった。
なのに。
助けられたのは自分だった。
昔と同じように。
「……くそ」
拳が震える。
弱い。
まだ全然足りない。
「レイン」
リズがそっと隣へ来た。
震える拳を握る。
「一人で背負わないで」
「……」
「悔しいのは分かる」
優しい声だった。
「でも私は、あなたが無事でよかった」
胸が少しだけ軽くなる。
レインは小さく笑った。
「ありがとな」
一瞬。
リズが固まった。
そして顔を赤くする。
「べ、別に普通だから!」
「何が?」
「な、なんでもない!」
クロウがニヤニヤする。
「おいレイン」
「なんだ」
「今のはポイント高かったぞ」
「何のだよ」
「天然って怖ぇな」
「だから何の話だ!」
リズの耳まで赤くなった。
だが。
その時間は長く続かなかった。
兄が再び影へ向かう。
圧倒的だった。
六本の腕を斬る。
突進を躱す。
首を落とす。
再生する首を再び落とす。
まるで戦い方そのものが違う。
そしてレインは気づく。
兄は力で勝っていない。
先を読んでいる。
相手の動きを。
癖を。
弱点を。
全部。
「違う……」
レインは呟く。
「何が?」
リズが聞く。
「兄さんは強いんじゃない」
「え?」
「戦い方を知ってるんだ」
そこで初めて気づいた。
自分は能力に頼りすぎていた。
交換が通じなければ終わり。
そんな戦い方だった。
兄は違う。
能力がなくても勝てる。
だから強い。
それが今の自分との決定的な差だった。
数分後。
巨大な影は膝をついた。
勝負は決していた。
兄が剣を振り上げる。
その時。
リズが突然レインの腕を掴んだ。
「え?」
「動かないで」
声が震えている。
「もう無茶しないで」
握る力が強い。
本当に心配していたのだと分かる。
「……悪い」
「反省してる?」
「してる」
「本当に?」
「してる」
「次やったら?」
「やらない」
「よろしい」
ようやく手が離れる。
クロウが吹き出した。
「完全に尻に敷かれてるな」
「違う!」
「違います!」
見事に重なった。
「息ぴったりだな」
「黙れ!」
また重なる。
クロウは腹を抱えて笑った。
兄がこちらへ歩いてくる。
三人は息を呑む。
ついに。
再会だった。
兄はレインの前で止まる。
数年ぶり。
ずっと探していた人。
「兄さん」
兄は少しだけ目を細めた。
「大きくなったな」
その一言で。
涙が出そうになった。
「探したんだ」
「知っている」
「帰ろう」
兄は首を振った。
「帰れない」
「なんでだよ!」
叫ぶ。
「生きてるじゃないか!」
兄は空を見上げた。
「守るためだ」
「何を?」
沈黙。
そして。
兄は低く呟く。
「守るためには捨てるしかないものがある」
その言葉は。
どこか悲しかった。
「兄さん」
「レイン」
兄が初めて真剣な表情になる。
「北へ行くな」
レインは息を呑んだ。
「北?」
「絶対に近づくな」
「理由は?」
「言えない」
「なんで!」
「まだ早い」
それだけだった。
兄は背を向ける。
「待て!」
レインが叫ぶ。
だが兄は止まらない。
その時だった。
倒れたはずの巨大な影が震えた。
黒い肉塊が蠢く。
そして。
ゆっくりと顔を上げた。
無数の目が兄を見る。
次の瞬間。
影が口を開いた。
『勇者よ』
全員が凍りつく。
喋った。
怪物が。
言葉を。
兄だけが表情を変えた。
初めて。
本当に初めて。
驚愕していた。
『まだ生きていたのか』
兄の顔色が変わる。
レインは理解した。
兄はこの存在を知っている。
そして。
それは兄ですら予想していなかった事態だ。
巨大な影が笑う。
『北で待つ』
空気が震える。
『勇者よ』
黒い霧が空へ消えていく。
静寂。
誰も動けない。
兄は拳を握り締めた。
血が滲むほど強く。
そして。
低く呟く。
「最悪だ」
その声には。
初めて恐怖が混じっていた。
レインの背筋が冷える。
兄が恐れるもの。
それが北にある。
「兄さん……北には何がある?」
兄は答えない。
長い沈黙。
やがて。
小さく呟く。
「世界の終わりだ」
レインたちは息を呑んだ。
だが次の瞬間。
兄は自嘲するように笑う。
「だから来るな」
夕闇の中へ歩き出す。
「兄さん!」
叫ぶ。
兄は止まらない。
ただ一度だけ。
右手を軽く上げた。
それが別れの合図だった。
レインは拳を握る。
追いつく。
必ず。
兄が隠している真実に。
その背中に。
そして――北に。
世界の終わりが待つ場所へ。
兄の背中が闇に消えた瞬間。
レインの胸に浮かんだ感情は恐怖ではなかった。
決意だった。
兄を取り戻す。
真実を暴く。
そして北へ行く。
何が待っていようとも。
その決意を嘲笑うように。
遠い北の空が黒く脈動した。
読んでいただきありがとうございます。
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