第12話「守りたかったもの
闇が揺れていた。
それは影ではない。
夜でもない。
黒という概念そのものが、そこに存在していた。
地下空洞の空気が重くなる。
呼吸をするたび肺の奥に泥が流れ込むようだった。
誰も動けない。
誰も声を出せない。
ただ、その巨大な存在を見上げるしかなかった。
「……なんだよ……あれ……」
俺の喉から掠れた声が漏れる。
隣のリズも青ざめていた。
「魔物じゃない……」
「なら何なんだ」
「分からない……」
リズが首を振る。
「こんなの……記録にもない……」
クロウでさえ笑っていなかった。
だが。
俺の視線は別の場所で止まった。
兄さん。
兄さんが震えている。
それを見た瞬間。
背筋が冷えた。
今まで兄さんが恐怖を見せたことなんて一度もなかった。
どんな敵を前にしても。
どんな絶望の中でも。
兄さんはいつも平然としていた。
その兄さんが。
今だけは違った。
「兄さん?」
返事はない。
兄さんは巨大な影を見つめたまま呟く。
「……来るな」
「え?」
「頼むから……来るな……」
その声は懇願だった。
俺は言葉を失った。
その時。
巨大な影が動く。
ズズズズズ……
空間そのものが軋んだ。
耳鳴り。
吐き気。
膝が震える。
立っているだけで精神を削られる。
そして。
影が口を開いた。
『久しいな』
男とも女とも分からない声。
頭の中へ直接響いてくる。
兄さんの顔色がさらに悪くなる。
『まだ逃げ続けていたか』
「黙れ」
『まだ諦めていないのか』
「黙れ!」
兄さんが怒鳴った。
その怒声に俺たち全員が驚く。
兄さんが感情を露わにする姿なんて見たことがなかった。
『哀れだな』
「黙れと言った!」
怒気が爆発する。
だが。
影は楽しそうだった。
まるで兄さんの反応を待っていたかのように。
「兄さん……」
俺は思わず問いかける。
「こいつは何なんだ」
「聞くな」
「でも――」
「聞くな!」
怒鳴られた。
すぐに兄さんは後悔したような顔になる。
沈黙。
重い沈黙。
やがて兄さんは目を伏せた。
「……昔の話だ」
◇
兄さんは昔から俺を守っていた。
転んだ時。
泣いた時。
怖い夢を見た時。
兄さんはいつも俺の前に立った。
『大丈夫だ』
その言葉だけで安心できた。
だから俺はずっと思っていた。
兄さんは絶対に負けない人なんだと。
だけど。
ある日から兄さんは変わった。
家を空けるようになった。
距離を置くようになった。
俺を避けるようになった。
理由は分からなかった。
ずっと。
今まで。
◇
「俺はお前を守りたかった」
兄さんは静かに言った。
「だから離れた」
「意味分かんねえよ」
思わず声が荒くなる。
「守りたいなら一緒にいればいいだろ」
兄さんが苦く笑った。
「近くにいるほど危険だったんだ」
その時。
巨大な影が笑った。
『守れたと思うか?』
兄さんの拳から血が滲む。
『結局見つけられたではないか』
「……」
『何年逃げても結果は同じだ』
「黙れ」
『無意味だった』
「黙れ!」
兄さんの叫びが響く。
俺は胸が痛かった。
こんな兄さんを見たくなかった。
『交換の器』
影がそう言った。
その瞬間。
俺の心臓が跳ねた。
交換。
俺たちの能力。
兄さんの表情が絶望に染まる。
「やめろ」
『なぜ隠す』
「やめろ!」
『真実はいずれ届く』
そして。
巨大な影の視線が俺に向く。
全身が凍り付いた。
『見つけた』
本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ。
今すぐ。
だが足が動かない。
影が一歩踏み出す。
それだけで地面が砕けた。
「下がれ!」
兄さんが叫ぶ。
リズが前へ出た。
「ダメ!」
「リズ!?」
「私が止める!」
杖が輝く。
幾重もの結界が展開される。
だが。
影が指先で触れた。
パリン。
ガラスのように砕け散った。
「うそ……」
リズの顔が強張る。
クロウが舌打ちした。
「笑えねえぞ、それ」
ナイフが飛ぶ。
影へ向かう。
しかし。
消えた。
触れる前に。
存在そのものが。
「反則だろ……」
クロウの額に汗が流れる。
初めて見る表情だった。
勝てない。
誰もが理解していた。
だからこそ。
俺は考える。
必死に。
どうすればいい。
どうすれば皆を助けられる。
そこで気付いた。
影は俺しか見ていない。
なら。
利用できる。
「兄さん!」
「何を考えてる!」
「時間を作る!」
「やめろ!」
「聞け!」
俺は叫んだ。
「兄さんは俺を守ろうとした!」
「……」
「今度は俺が守る番だ!」
兄さんの目が見開く。
俺は走った。
影の真正面へ。
囮になるために。
「バカ!」
リズが叫ぶ。
「後で怒るからね!」
「生きてたらな!」
「絶対生きるの!」
こんな状況なのに。
思わず笑いそうになった。
影が俺を追う。
その瞬間。
クロウがニヤリと笑った。
「なるほどな」
ナイフが飛ぶ。
リズの補助魔法が重なる。
兄さんも踏み込む。
三方向同時攻撃。
轟音。
爆発。
衝撃波。
黒煙。
そして。
ほんのわずか。
影が後退した。
「効いた!」
リズが叫ぶ。
『面白い』
影が初めて反応した。
だが。
次の瞬間だった。
影の腕が伸びる。
速すぎる。
見えない。
死ぬ。
そう思った。
だが。
ドンッ!!
誰かが俺を突き飛ばした。
「――兄さん!!」
兄さんだった。
影の攻撃が兄さんを直撃する。
身体が吹き飛ぶ。
岩壁へ叩き付けられる。
嫌な音が響いた。
「兄さん!!」
俺は駆け寄った。
血。
血。
血。
止まらない。
リズが必死に治癒を始める。
「お願い……お願いだから……!」
兄さんは苦笑した。
「間に合ったか」
「何やってんだよ!」
涙が溢れる。
止まらない。
「何でだよ!」
「それは……こっちの台詞だ」
兄さんは弱々しく笑う。
そして。
震える手で俺の頭を撫でた。
昔みたいに。
「お前だけは……」
「喋るな!」
「巻き込みたく……なかった……」
俺は唇を噛む。
「勝手に決めるな」
「……」
「俺は弱い」
涙が落ちる。
「でも」
拳を握る。
「逃げない」
兄さんの目が少し開く。
「絶対助ける」
「……」
「何があっても」
兄さんは微かに笑った。
「ああ」
その時だった。
巨大な影が動きを止める。
初めて驚いたような声を出した。
『やはり』
空気が震える。
『お前だったか』
俺を見る。
まっすぐに。
『第二の器』
胸が熱い。
嫌な熱だ。
激痛。
「ぐあああああああっ!!」
胸を押さえる。
皮膚の下を何かが這う。
服が裂けた。
そして現れた。
黒い紋章。
兄さんと同じ紋章。
リズが息を呑む。
クロウが笑みを消す。
兄さんは絶望した顔でそれを見ていた。
「そんな……」
『ようやく見つけた』
影が満足そうに笑う。
『長かった』
闇が膨れ上がる。
地下空洞全体を飲み込むほどに。
そして。
影は最後に告げた。
『次は迎えに来よう』
その言葉だけを残し。
巨大な存在は消えた。
静寂。
誰も動けない。
俺は胸の紋章を見つめる。
嫌な予感しかしない。
だが。
本当に恐ろしかったのは。
紋章そのものじゃなかった。
その紋章を見た兄さんが。
まるで全てが終わったかのような顔をしていたことだった。
そして兄さんは。
震える声でこう呟いた。
「間に合わなかった……」
その言葉の意味を。
俺たちはまだ知らなかった。
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