第10話 「兄が残した代償」
「……兄さん?」
俺の声は自分でも驚くほどかすれていた。
闇の奥。
赤い目の群れの向こう。
確かに聞こえた。
何年も探し続けた兄の声が。
胸の奥で何かが弾ける。
だが返事はない。
ただ冷たい風だけが吹き抜けた。
「待て」
クロウの手が肩を掴む。
強い力だった。
「離せ」
「行くな」
「兄さんなんだぞ!」
思わず叫んでいた。
ここまで何度死にかけた。
何度諦めそうになった。
それでも進んできた理由。
兄を見つけるためだ。
その兄の声が聞こえた。
止まれるわけがない。
「だから止めてる」
クロウの声は低かった。
「お前は今、自分が何を見てるか分かってない」
「分かってる!」
「分かってない」
即答だった。
「今のお前は希望しか見てない」
その言葉に息が詰まる。
「希望の裏に何があるか考えてない」
「……」
「だから危険だ」
悔しい。
だが反論できない。
その時。
「二人とも」
リズが間に入った。
「ケンカは後」
「リズ……」
「クロウの言いたいことも分かる」
彼女は俺を見る。
優しい目だった。
だが甘やかす目ではない。
「でもケイの気持ちも分かる」
「……」
「だから一緒に確認しよう」
静かな声。
それなのに不思議と落ち着く。
「死んだら会えないよ」
その一言で頭が冷えた。
俺はゆっくり拳を開いた。
「……悪い」
「うん」
リズが微笑む。
その笑顔だけで少し救われた。
◇
探索隊は周囲の調査を開始した。
焦って突っ込むほど愚かなことはない。
頭では理解している。
だが心が追いつかない。
兄がいる。
その事実だけで胸が苦しかった。
「ケイ」
リズがしゃがみ込む。
「これ見て」
石壁の隙間。
そこに小さな金属板が落ちていた。
俺は息を呑む。
見覚えがある。
「兄さんの……」
震える指で拾う。
刻まれた印。
幼い頃、兄が自分で作った家紋。
間違えるはずがない。
裏返す。
文字が刻まれていた。
『見つけた者へ』
全員の空気が変わる。
兄のメッセージだった。
俺は唾を飲み込みながら読み進める。
『ここから先は地獄だ』
静寂。
誰も口を開かない。
『だが、それでも進むなら覚悟しろ』
『交換は願いを叶える力ではない』
『奪う力だ』
背筋が冷えた。
交換。
俺たちの力。
兄が追い続けた力。
『代償は必ず発生する』
『しかも等価ではない』
『俺はそれを知らなかった』
文字が乱れている。
焦り。
後悔。
恐怖。
兄の感情がそのまま刻まれていた。
『もし時間を戻せるなら』
『俺は交換を使わない』
そこで終わっていた。
俺はしばらく動けなかった。
兄が交換を否定した。
その意味が重すぎる。
◇
「交換を使わない、か」
クロウが呟く。
「何を失ったんだろうね」
リズも不安そうだった。
俺は答えられない。
命。
記憶。
感情。
未来。
交換は何を奪った。
その時だった。
ぐぅぅぅぅぅ。
盛大な音が響いた。
沈黙。
全員が振り返る。
リズだった。
「……」
「……」
「……忘れて」
真っ赤な顔で呟く。
「無理だろ」
「忘れて!」
「洞窟が鳴いたのかと思った」
「クロウ!」
「ははは!」
仲間たちも吹き出した。
重苦しい空気が一気に崩れる。
リズはしゃがみ込んだ。
「もう帰りたい……」
「いや帰る理由それかよ」
思わずツッコミを入れる。
「ケイまで!」
「ごめん」
「全然反省してない顔してる!」
久しぶりに自然に笑った。
こんな状況なのに。
それでも笑える仲間がいる。
その事実が少し嬉しかった。
◇
休憩後。
再び奥へ進む。
空気が変わっていた。
冷たい。
重い。
まるで洞窟そのものが呼吸しているようだった。
「気を付けろ」
クロウが剣を抜く。
直後。
前方の闇が揺れた。
「来る!」
黒い影が飛び出した。
四足の怪物。
だが以前とは違う。
全身が黒く染まり。
目だけが真紅に光っている。
速い。
異常な速度だった。
怪物は一直線に俺へ突っ込む。
反射的に横へ飛ぶ。
轟音。
怪物が壁へ激突した。
「今だ!」
クロウが斬り込む。
だが怪物は体を捻った。
剣が空を切る。
「なっ!?」
次の瞬間。
怪物の爪がクロウへ迫る。
俺は叫んだ。
「右!」
クロウが飛ぶ。
爪が鼻先を掠めた。
危なかった。
だが終わらない。
怪物は標的を変えた。
リズだ。
「リズ!」
まずい。
距離がある。
間に合わない。
俺は走る。
全力で。
だが足りない。
届かない。
失敗した。
そう思った瞬間。
「甘い!」
リズが自ら飛び込んだ。
避ける。
転がる。
怪物の腹下へ潜る。
短剣が閃く。
狙いは赤い目。
一撃。
命中。
怪物が絶叫した。
「そこだ!」
クロウが跳ぶ。
仲間たちが続く。
俺も剣を振り抜いた。
連撃。
血飛沫。
咆哮。
そして。
怪物は崩れ落ちた。
静寂が戻る。
「大丈夫か!」
俺はリズへ駆け寄る。
「へへ」
リズが笑った。
「私だって守られるだけじゃないから」
その笑顔が眩しかった。
そして少しだけ悔しかった。
前なら俺が守っていた。
でも今は違う。
リズは自分で戦える。
仲間たちも強い。
俺一人で抱える必要はない。
それが分かった。
それだけでも大きな成長だった。
◇
さらに奥へ進む。
そして見つけた。
巨大な石扉。
高さ十メートルはある。
表面には無数の刻印。
そして中央。
兄の紋章。
「ここだ……」
確信した。
兄はこの先にいる。
扉の前。
一つの記録装置が置かれていた。
俺は震える手で起動する。
光が浮かぶ。
映像。
兄だった。
痩せている。
目の下には深い隈。
まるで別人のようだった。
『もしこれを見ているなら』
兄が話し始める。
『俺はもう手遅れかもしれない』
全員の表情が凍る。
『交換は人を変える』
ノイズ。
映像が乱れる。
『俺は大切なものを交換した』
『その代償で』
『俺は――』
映像が止まった。
何度再生しても続かない。
だが最後の一瞬。
兄の目が見えた。
真っ赤だった。
怪物と同じ色。
俺の背筋を冷たい汗が流れる。
その時。
ゴゴゴゴゴゴゴ……。
巨大な石扉が勝手に動き始めた。
誰も触れていない。
ゆっくり。
ゆっくり。
闇が開いていく。
その奥。
一人の男が立っていた。
長い髪。
見慣れた背中。
忘れるはずがない。
兄だった。
「兄さん……」
俺は一歩踏み出す。
兄が振り返る。
そして笑った。
懐かしい笑顔。
幼い頃と同じ。
何度も見た笑顔。
だからこそ。
違和感が恐ろしかった。
両目が赤い。
人間の目じゃない。
「やっと来たな」
兄が言う。
その声は確かに兄だった。
だが温度がない。
まるで別人だった。
「会いたかった」
俺は震える声で言う。
兄は少しだけ目を細めた。
ほんの一瞬だけ。
懐かしそうに。
寂しそうに。
だが次の瞬間。
感情は消えた。
兄はゆっくり剣を抜く。
金属音が洞窟に響く。
「なら証明してみろ」
冷たい声。
凍り付くほど冷たい声だった。
「お前がまだ人間だということを」
ゴゴン。
背後で石扉が閉じる。
退路が消える。
誰も動けない。
兄は剣先をこちらへ向けた。
そして静かに笑う。
「失敗したら」
赤い瞳が細くなる。
「お前も俺と同じになる」
洞窟の闇が蠢いた。
まるで兄の言葉に反応するように。
俺は剣を握る。
震える手で。
兄を見つめながら。
そして初めて理解した。
俺が探していたのは救出じゃない。
これは。
兄を取り戻すための戦いなのだと。
読んでいただきありがとうございます。
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