第7話 「足音の主」
――ドン。
重い音が響いた。
まるで巨大な心臓が脈打つような音だった。
誰も喋らない。
第零区画の闇は、生き物の腹の中みたいに不気味だった。
湿った空気。
鉄錆の臭い。
遠くで軋むような音。
そして。
――ドン。
――ドン。
確実に近付いている。
「……来る」
クロウが低く呟いた。
その一言だけで、全員の背筋が強張る。
俺は無意識に拳を握った。
兄の端末。
『来るな』
『もう遅い』
あの言葉が頭から離れない。
だけど。
ここまで来て引き返せるわけがなかった。
兄は生きている。
そう信じたい。
「ねえ」
隣から小さな声がした。
リズだった。
「顔色悪いよ」
「こんな場所で顔色良い奴がいたら逆に怖いだろ」
「それもそうだね」
くすっと笑う。
その笑顔だけで少し肩の力が抜けた。
次の瞬間。
柔らかい感触が手に触れた。
見ると。
リズが俺の手を握っていた。
「……おい」
「ん?」
「なんで握る」
「落ち着くかなって」
「俺よりお前の方が落ち着いてるだろ」
「それはそう」
「認めるのかよ!」
仲間の一人が吹き出した。
「こんな場所でいちゃつく余裕あるのか、お前ら」
「違う!」
「違わない」
リズが即答した。
「お前な!?」
「ほら、顔色良くなった」
「それはムカついてるだけだ!」
周囲から小さな笑いが漏れる。
張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
だが。
クロウだけは笑っていなかった。
「静かにしろ」
全員が口を閉じる。
彼は床にしゃがみ込んでいた。
「足跡がある」
俺も近付く。
床には厚く埃が積もっている。
その上に、不自然な跡が残されていた。
「人間か?」
「途中まではな」
「途中?」
クロウが眉をひそめる。
「歩き方が変わっている」
「どういうことだ」
「まるで身体が壊れながら歩いているみたいだ」
嫌な想像が頭をよぎった。
その時。
――ドン。
今までで一番近い音が響く。
全員が武器を構えた。
暗闇の奥。
何かが動いた。
ゆっくりと。
足を引きずるように。
そして。
姿を現す。
誰かが息を呑んだ。
それは人間だった。
正確には。
人間だったものだ。
片腕は異常なほど膨れ上がり。
灰色の皮膚には裂け目が走り。
顔の半分は崩れていた。
それでも。
目だけは人間のままだった。
「交換失敗者……」
クロウが呟く。
怪物の濁った瞳がこちらを向く。
ぞわりと背筋が冷えた。
その瞬間。
怪物が床を蹴った。
速い。
想像以上だった。
「散れ!」
クロウの声。
全員が飛び退く。
轟音。
怪物の腕が壁を叩き潰した。
コンクリートが砕け散る。
「なんだよあれ!」
「正面に立つな!」
クロウが叫ぶ。
「右足が遅い!」
俺は横へ回り込む。
怪物が俺を追う。
その隙に仲間が攻撃する。
しかし浅い。
刃が通らない。
怪物は痛みを感じていないようだった。
「くそっ!」
仲間の一人が弾き飛ばされる。
床を転がった。
怪物の腕が振り上がる。
直撃すれば終わりだ。
俺は反射的に飛び出していた。
「やめろ!」
リズの声。
だが足は止まらない。
仲間を見捨てられるか。
兄ならどうする。
そんなことを考えるより先に身体が動いていた。
次の瞬間。
後ろから強く引かれた。
「落ち着いて!」
リズだった。
「離せ!」
「駄目!」
「でも!」
「ちゃんと見て!」
俺ははっとした。
怪物の視線。
俺を見ていない。
転がった鉄片を見ている。
「……音?」
クロウが叫んだ。
「そうだ! 音に反応している!」
全員が理解する。
怪物は視覚ではなく音を追っている。
仲間が瓦礫を投げる。
怪物が振り向いた。
「今だ!」
俺たちは一斉に動く。
左右から挟む。
脚を狙う。
怪物がよろめいた。
さらに攻撃。
連携。
誘導。
攪乱。
力では勝てない。
だから頭を使う。
怪物が再び暴れようとした瞬間。
俺は瓦礫を遠くへ投げた。
怪物が反応する。
背を向ける。
その隙。
全員で集中攻撃。
脚が砕ける。
怪物が崩れる。
そして。
俺は最後の一撃を叩き込んだ。
怪物が倒れた。
大きな音を立てて。
静寂。
荒い呼吸だけが残る。
やがて。
怪物の身体が崩れ始めた。
灰になるように。
消えていく。
「終わった……のか」
誰かが呟く。
だが。
俺の視線は別の場所へ向いていた。
怪物の胸元。
何かが落ちている。
俺は近付いた。
金属片。
そして。
汚れた手帳の切れ端。
そこに書かれていた文字を見た瞬間。
心臓が止まりそうになった。
見覚えがある。
何度も見た字。
兄の字だった。
震える指で拾う。
掠れた文字。
それでも。
間違いない。
「兄さん……」
声が漏れる。
リズが隣へ来た。
「本当に?」
「ああ……兄の字だ」
胸が熱くなる。
絶望しかなかった場所で。
初めて掴んだ希望だった。
その時。
「……あ……」
声がした。
全員が凍り付く。
消えかけた怪物の口が動いている。
濁った目が俺を見る。
「……あいつ……」
誰も喋れない。
怪物は苦しそうに続けた。
「……もっと……下……」
下。
第零区画のさらに奥。
兄はそこにいる。
俺がそう確信した瞬間。
怪物は完全に崩れた。
灰となって消えた。
静寂。
誰も動かない。
そして。
――ドン。
地面が揺れた。
全員が顔を上げる。
――ドン。
――ドン。
今度は違う。
さっきとは比べ物にならない。
もっと重い。
もっと大きい。
もっと恐ろしい。
通路の奥。
闇のさらに向こう。
何かがいる。
クロウの顔色が変わった。
初めてだった。
あいつが恐怖を見せたのは。
「……逃げた方がいいかもしれない」
その言葉で全員の血の気が引く。
俺は手帳の切れ端を握り締めた。
兄は生きている。
この先にいる。
だったら。
進むしかない。
その時だった。
巨大な足音と共に。
闇の奥で、何かが赤く光った。
まるで目だった。
こちらを見ている。
明確に。
確実に。
俺たちを見つけていた。
そして。
闇の中から。
低く、濁った声が響く。
「――見つけた」
全員の呼吸が止まった。
読んでいただきありがとうございます。
感想・評価励みになります。




