第5話 「黒い扉の向こう側
黒い扉は、まるで世界そのものに開いた傷口のようだった。
光を吸い込むような黒。
触れれば消えてしまいそうな黒。
だが、その存在だけは異様なほど濃かった。
「……これが」
俺は思わず息を呑む。
「第零区画」
リズも隣で声を失っていた。
クロウだけがいつも通り端末を操作している。
「正確には第零区画の最終封鎖装置だな」
「入口じゃないのか?」
「入口だったら開けて終わりだ」
クロウは肩をすくめる。
「これは開けてからが地獄」
「安心材料が一つもないな」
「安心したいなら帰るか?」
「兄さんがいるなら帰らない」
即答だった。
クロウが小さく笑う。
「だと思った」
俺は黒い扉へ近付いた。
指先を触れる。
冷たい。
だがその奥に、奇妙な鼓動のような振動を感じた。
生きている。
そんな錯覚さえ覚える。
そして脳裏に妹の言葉が蘇った。
――黒い扉の向こう。
――お兄ちゃんを待ってる人がいた。
拳を握る。
兄さん。
本当にそこにいるんだな。
「怖い?」
リズが静かに聞いた。
「ああ」
嘘をつく意味はなかった。
「めちゃくちゃ怖い」
「そっか」
「でも」
俺は笑う。
「やっとここまで来た」
長かった。
何度も諦めそうになった。
兄は死んだと言われた。
忘れろとも言われた。
それでも追い続けた。
だから。
ここで立ち止まるわけにはいかない。
その時だった。
温かい感触。
リズが俺の手を握っていた。
「なら半分こ」
「何が?」
「怖いの」
少しだけ照れたように笑う。
「一人で抱えるなって言ったでしょ」
心臓が少し跳ねた。
「……ありがとな」
「どういたしまして」
俺たちは自然に手を繋いだまま立っていた。
そこへ。
「おい」
クロウが真顔で言った。
「夫婦漫才は終わったか?」
「違う!」
「違います!」
声が重なる。
クロウが吹き出した。
「そこまで息ぴったりだと逆に怪しいぞ」
「黙れ」
「照れてる」
「照れてない」
「照れてるな」
リズの顔は真っ赤だった。
俺も否定できないくらい顔が熱い。
だがそのおかげで。
少しだけ緊張がほぐれた。
「さて」
クロウが端末を掲げる。
「仕事の時間だ」
黒い扉に赤い光が走る。
複雑な紋様。
警告表示。
耳障りな機械音。
「封鎖システム確認」
「突破できるのか?」
「できる」
「成功率は?」
「五十二パーセント」
「微妙だな!」
「さっきより二パーセント上がった」
「誤差だろ!」
リズが吹き出した。
だが笑いはすぐに消える。
作業が始まった。
俺は指定位置へ。
リズは周囲警戒。
クロウは解析。
三人での突破作戦だった。
十分。
二十分。
三十分。
封鎖は崩れない。
赤い光だけが不気味に明滅している。
「くそ……」
焦りが募る。
兄さんが待っている。
監査官も迫っている。
時間がない。
「もう少しだ」
クロウが言う。
「待て」
だが待てなかった。
俺は一歩前へ出る。
直接触れれば。
何か分かるかもしれない。
「おい!」
クロウが叫ぶ。
遅かった。
扉が真紅に染まる。
次の瞬間。
轟音。
衝撃波。
「ぐっ!」
身体が吹き飛んだ。
背中から床へ叩き付けられる。
肺から空気が抜けた。
「かはっ……!」
視界が揺れる。
「バカ!」
リズが駆け寄る。
「何やってるの!」
「すまん……」
「すまんじゃない!」
怒っていた。
本気で怒っていた。
「一人で何とかしようとしないで!」
胸が痛む。
図星だった。
兄を追う時もそうだった。
全部自分で背負おうとした。
誰も巻き込みたくなかった。
でも。
「私たちは仲間でしょ」
リズの言葉が胸に刺さる。
「頼ってよ」
俺は目を閉じた。
情けない。
また同じ失敗をした。
「……悪い」
「次は?」
「ちゃんと頼る」
「よろしい」
ようやくリズが笑った。
その笑顔に救われる。
クロウも近付いてくる。
「反省会終了」
「突破できそうか?」
「できる」
「本当に?」
「今度は八十九パーセント」
「急に上がったな」
「お前が余計なことしたおかげでヒントが見えた」
「結果オーライか」
「結果だけな」
クロウは壁の一角を指差した。
「こっちだ」
俺たちは移動する。
そこには小さな傷があった。
古い。
だが人工的な傷。
誰かがここを通った痕跡。
「これ……」
「お前の兄貴だと思う」
心臓が大きく跳ねた。
さらに。
その下に文字が刻まれていた。
『生きている』
呼吸が止まる。
見覚えのある筆跡。
忘れるはずがない。
兄の字だった。
膝から力が抜けそうになる。
「兄さん……」
生きている。
本当に。
本当に生きている。
ずっと信じていた。
でも。
心のどこかで怖かった。
もし死んでいたら。
もし何も残っていなかったら。
だが違った。
兄はここに来た。
そして生きている。
リズが肩へ手を置く。
「見つかるよ」
優しい声だった。
「絶対」
俺は頷いた。
涙が出そうになる。
でも今はまだ泣かない。
会うまでは。
絶対に。
「行くぞ」
クロウが言った。
「今しかない」
俺たちは同時に動いた。
認証装置へアクセス。
光が走る。
警告音。
振動。
重い音が響く。
そして。
黒い扉がゆっくりと開き始めた。
長い年月閉ざされていた墓標のように。
暗闇が姿を現す。
「これが……」
リズが呟く。
「第零区画」
俺たちは足を踏み入れた。
空気が違う。
静かすぎる。
音が死んでいる。
誰もいないはずなのに。
誰かに見られている感覚だけが消えない。
「気を付けろ」
クロウの声も自然と小さくなる。
通路を進む。
黒い壁。
黒い床。
黒い天井。
どこまでも続く闇。
まるで巨大な棺の内部だった。
その時。
俺は足を止める。
「……なんだ」
壁だった。
だが普通の壁じゃない。
無数の名前が刻まれている。
何百。
何千。
いや。
それ以上。
そして。
その中に見覚えのある文字を見つけた。
兄の名前。
間違いない。
だが。
問題はその隣だった。
俺の名前。
「な……」
頭が真っ白になる。
リズも息を呑む。
クロウでさえ言葉を失った。
あり得ない。
俺は初めてここへ来た。
それなのに。
なぜ俺の名前がある。
なぜ兄の隣に刻まれている。
その時だった。
暗闇の奥から。
誰かの笑い声が聞こえた。
低く。
楽しそうに。
待ち続けていた者のように。
俺たちは同時に振り返る。
だが誰もいない。
暗闇しかない。
次の瞬間。
壁の文字がゆっくりと変化した。
俺たちの目の前で。
新しい文字が浮かび上がる。
『ようやく来たな』
さらにその下へ。
新たな一文が刻まれた。
『次は、お前が交換する番だ』
空気が凍り付いた。
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