第4話 「出発前夜」
「……また聞いてるのか」
暗い部屋の中で、聞き慣れた声がした。
俺は端末から視線を上げないまま答える。
「悪いか」
『レイン。もしこれを聞いているなら――』
通信はそこで途切れる。
何度再生しても同じ。
何十回聞いても同じ。
それでも俺は再生をやめられなかった。
兄が最後に残した声だからだ。
「悪くないけどさ」
リズが隣に腰を下ろす。
「それ、何回目?」
「知らない」
「百回くらい?」
「盛ったな」
「じゃあ九十九回」
「誤差だろ」
リズはくすりと笑った。
だが次の瞬間、少しだけ真面目な顔になる。
「焦ってる?」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
焦っている。
怖い。
兄が生きている保証はない。
通信が罠の可能性だってある。
でも――。
「行くしかない」
ぽつりと呟く。
「うん」
リズは否定しなかった。
「だから無茶はするな」
「それは難しい相談だな」
「じゃあ死なないで」
軽い口調だった。
でも声は少し震えていた。
俺は初めて気づく。
リズも怖いのだ。
兄のためじゃない。
俺のために。
その時だった。
扉が勢いよく開いた。
「見つけたぞ!」
クロウだった。
相変わらず空気を読まない。
「壊れるぞ扉」
「そんなことより聞け!」
「聞いてる」
「重大発見だ!」
「お前の発見は毎回重大だろ」
「今回は本当に重大だ!」
クロウは机の上に端末を置いた。
地図。
複雑な線。
いくつもの警告表示。
俺は思わず身を乗り出した。
「見つかったのか?」
「ああ」
クロウが頷く。
「第零区画への侵入ルートだ」
部屋の空気が変わった。
ついに。
ここまで来た。
だがクロウの顔は晴れていない。
「ただし問題がある」
「監査官か」
「察しがいいな」
クロウは苦笑した。
「向こうも同じルートを掴んだ」
「どれくらい先だ」
「半日」
最悪だ。
たった半日。
されど半日。
兄の命を左右するには十分な時間だった。
「急げば間に合うか?」
「走るだけなら無理だ」
「じゃあ?」
「頭を使え」
クロウは地図を拡大する。
赤い網目が浮かび上がった。
「検知網だ」
「厄介そうだな」
「厄介だ」
「突破は?」
「できる」
クロウはニヤリと笑う。
「ただし力任せじゃない」
俺は息を吐く。
少しだけ安心した。
方法はある。
ならやるだけだ。
その時だった。
部屋の隅から小さな声が聞こえた。
「……お兄ちゃん」
妹だった。
俺はすぐに駆け寄る。
「どうした?」
妹は苦しそうに頭を押さえていた。
「黒い……扉……」
俺とクロウの視線がぶつかる。
第零区画。
「他には?」
「誰か……いる……」
「誰だ?」
「待ってる……」
妹はそこで首を振った。
「わからない……」
苦しそうだった。
無理に思い出させるべきじゃない。
そう分かっているのに焦りが出る。
兄に近づける手掛かりだからだ。
するとリズが妹の肩を抱いた。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
優しい声だった。
妹は少し安心したように目を閉じる。
「ごめんなさい……」
「謝る必要ない」
俺は妹の頭を撫でた。
「十分助かってる」
妹が小さく笑う。
その様子を見ていたリズがぼそりと言った。
「そういうところだよね」
「何がだ」
「モテる理由」
「は?」
「無自覚なのが一番タチ悪い」
「意味が分からん」
クロウが吹き出した。
「分かってないのは本人だけだな」
「お前ら何の話してる?」
「ほら」
リズが額を押さえた。
妹が不思議そうに首を傾げる。
「二人って付き合ってるの?」
「違う!」
「違うわよ!」
声が揃った。
クロウが爆笑した。
「ははははは!」
「笑うな!」
「いや無理だろ!」
妹は首を傾げる。
「でも手」
全員の視線が下に向く。
俺とリズの手が繋がっていた。
いつからだ。
誰も分からない。
数秒の沈黙。
そして。
「きゃあああああ!?」
リズの悲鳴が部屋に響いた。
クロウは机を叩いて笑っている。
妹は本気で不思議そうだった。
重かった空気が一気に吹き飛んだ。
久しぶりに笑った気がする。
兄のことを考えていると忘れてしまう。
俺たちはまだ生きている。
だから前に進める。
◇
夜。
出発準備は終わっていた。
俺は一人で外に出る。
冷たい風が吹く。
空を見上げる。
兄との記憶が浮かんだ。
転んだ時。
泣いた時。
初めて能力を使った時。
兄はいつも前にいた。
追いかける背中だった。
でも今は違う。
今度は俺が行く番だ。
「迎えに行く」
誰もいない夜に呟く。
すると後ろから足音が聞こえた。
「やっぱりここにいた」
リズだった。
「寝ろよ」
「それはお互い様」
隣に立つ。
肩が少し触れる。
不思議と嫌じゃなかった。
「怖い?」
リズが聞く。
俺はしばらく黙った。
そして答える。
「怖い」
初めて口にした。
「兄が死んでたらどうしようって思う」
「うん」
「助けられなかったらどうしようって思う」
「うん」
「全部遅かったらどうしようって」
言葉にすると少しだけ楽になった。
リズは何も否定しない。
ただ聞いてくれる。
それだけだった。
それだけで十分だった。
「でも行く」
「知ってる」
「止められても行く」
「知ってる」
リズは笑った。
そして。
そっと俺の手を握った。
「なら一緒に行く」
「……リズ」
「一人じゃないから」
胸の奥が少し熱くなった。
その温もりを忘れないように握り返す。
リズは少しだけ目を丸くした。
それから照れたように笑った。
◇
翌朝。
俺たちは出発した。
兄を救うため。
監査官より先に辿り着くため。
そして。
第零区画の真実を知るため。
境界線へ到達した時だった。
突然。
耳を裂くような警報音が鳴り響いた。
『警告』
『未認証個体を確認』
『封鎖システム起動』
赤い光が周囲を染める。
地面が震えた。
空気が張り詰める。
「まずい!」
クロウが叫ぶ。
「予想より早い!」
「見つかったのか!?」
「いや――」
クロウの顔が青ざめた。
「これは監査官も巻き込まれてる!」
その瞬間。
俺の端末が震えた。
通信。
未知の発信元。
全員が息を呑む。
鼓動が速くなる。
まさか。
俺は震える指で再生した。
ノイズ。
そして。
『レイン』
世界が止まった。
聞き間違えるはずがない。
兄の声だ。
生きている。
本当に。
生きている。
『急げ』
短い。
たった二文字。
だが次の瞬間。
通信の向こうから聞こえた。
知らない誰かの声。
そして――悲鳴。
通信は切れた。
沈黙。
俺は拳を握り締める。
血が出るほど強く。
兄は生きている。
だが。
時間がない。
赤い警報が鳴り響く中。
第零区画への巨大な黒い扉がゆっくりと姿を現した。
まるで。
俺たちを待っていたかのように。
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