第1話「兄の残響」
「……また、その顔」
リズの声で、レインは顔を上げた。
「どんな顔だよ」
「世界の終わりみたいな顔」
「してない」
「してる」
即答だった。
向かいの席で頬杖をつくリズは、呆れたように肩をすくめる。
「三時間」
「何が」
「レインが同じ紙を睨んでる時間」
「三時間も経ってない」
「二時間五十八分」
「ほぼ三時間じゃねぇか」
隣でクロウが吹き出した。
「安心しろ。お前は昔からそういう顔だ」
「昔から知ってるみたいに言うな」
「知ってるから言ってる」
「言い方が怪しいんだよ」
軽口を叩きながらも、レインの視線は再び机の上へ落ちた。
資料。
記録。
報告書。
勇者候補一覧。
記録者事件の後、回収された膨大な資料。
その全てを調べている。
理由は一つ。
違和感があった。
頭の奥に刺さった小骨のような違和感。
気のせいではない。
絶対に何かがおかしい。
「まだ探してるの?」
リズが聞く。
「ああ」
「何を?」
「それが分からない」
自分でも説明できない。
だが確かにある。
忘れてはいけない何か。
失くしてはいけない何か。
夢を見るのだ。
最近ずっと。
誰かの背中。
前を歩く背中。
少し大きな背中。
追いかけても追いかけても振り返らない。
なのに不思議と安心できる背中。
顔だけが思い出せない。
名前だけが思い出せない。
「変な夢でも見た?」
リズが首を傾げた。
レインは少し迷ったあと頷く。
「毎日だ」
「毎日?」
「ああ」
「恋じゃない?」
「違う」
「即答だ」
クロウが笑う。
「残念だったな」
「何が残念なのよ」
「いや、お前が」
「殴るわよ」
リズが拳を握る。
クロウが即座に距離を取った。
「待て待て。平和的に話し合おう」
「話し合う価値があると思う?」
「ないな」
「正解」
レインは思わず笑った。
ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
だが次の瞬間、視界の端に映った紙に手が止まった。
「……ん?」
勇者候補一覧。
何度も見た資料。
だが一か所だけ妙だった。
空白。
不自然な空白。
本来なら名前があるはずの場所。
経歴があるはずの場所。
戦歴があるはずの場所。
そこだけが削り取られている。
「リズ」
「何?」
「これ見ろ」
二人が覗き込む。
数秒。
沈黙。
最初に口を開いたのはクロウだった。
「……おかしいな」
「ああ」
レインも同意する。
「消されてる」
事故ではない。
破損でもない。
意図的だ。
まるでそこに誰も存在しなかったことにするように。
リズが眉をひそめる。
「こんな雑な消し方する?」
「普通はしない」
「つまり?」
「急いで消した」
クロウが低く言った。
空気が変わる。
誰かが隠した。
何かを。
いや。
誰かを。
その時だった。
資料の山から一枚の紙が落ちた。
ひらり、と。
床へ落ちる。
古びた紙だった。
端が焼け焦げている。
レインは何気なく拾い上げた。
そこに残っていた文字は一つだけ。
――レ
その瞬間。
心臓が跳ねた。
呼吸が止まる。
頭が真っ白になる。
「レイン?」
リズの声が遠かった。
胸が痛い。
理由も分からないのに。
懐かしい。
苦しい。
会いたい。
そんな感情が一気に押し寄せる。
「……なんだよ」
掠れた声が漏れる。
知らない。
知らないはずだ。
なのに。
どうして涙が出そうになる。
紙を握る。
すると脳裏に声が響いた。
『守れよ』
誰かの声。
『お前だけは』
そこで途切れた。
映像も。
記憶も。
何もかも。
残ったのは喪失感だけだった。
レインは立ち上がる。
「いる」
「え?」
リズが目を瞬かせた。
「いたんだ」
拳を握る。
「誰かが」
胸の奥が熱い。
理由は分からない。
でも確信だけはあった。
「世界が忘れてても関係ない」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「俺は探す」
沈黙。
リズがじっとこちらを見る。
何かを言いかけて。
やめて。
代わりに小さく息を吐いた。
「……なら私も行く」
「危険だぞ」
「今さら?」
呆れた声。
「誰と一緒に記録者と戦ったと思ってるの」
「それはそうだけど」
「それに」
リズは少しだけ視線を逸らした。
「放っておくと無茶するでしょ」
「しない」
「する」
「しない」
「する」
「しない」
「する」
「するな」
クロウが割って入る。
「夫婦喧嘩は後にしろ」
「違う!」
「違う!」
二人の声が綺麗に重なった。
クロウが腹を抱えて笑う。
「息ぴったりじゃねぇか」
リズの顔が少し赤くなった。
レインも何となく気まずくなる。
その時だった。
入口の方から小さな足音が聞こえた。
妹だった。
無言で立っている。
レインの手の中の紙を見つめている。
焼け焦げた紙。
一文字だけ残った紙。
妹の瞳が揺れた。
「……おにい、ちゃん」
かすかな声。
レインが振り返る。
「何か知ってるのか?」
妹は頭を押さえた。
苦しそうに。
何かを思い出そうとするように。
「わからない……」
震える声。
「でも……」
そこで言葉が止まる。
そして逃げるように部屋を出ていった。
残された沈黙。
クロウが低く呟く。
「妙だな」
「ああ」
全部が繋がっている気がした。
この紙も。
妹も。
消された記録も。
そして夢の中の背中も。
その直後だった。
轟音。
壁が吹き飛んだ。
石片が雨のように飛び散る。
「伏せろ!」
クロウが叫ぶ。
レインは反射的にリズを引き寄せた。
二人が床へ転がる。
爆風が頭上を通過した。
「っ!」
顔を上げる。
崩れた壁の向こう。
白い鎧。
価値監査官。
だが見覚えがない。
胸に刻まれた二重の円環。
異質な紋章。
監査官はレインを見た。
まっすぐ。
迷いなく。
「対象確認」
冷たい声。
「発見」
ぞくりとした。
何かがおかしい。
監査官は続ける。
「失われた勇者の関連個体」
空気が凍る。
レインの心臓が激しく脈打った。
失われた勇者。
その言葉。
知っている。
こいつは知っている。
「排除を開始する」
一歩。
監査官が前へ出る。
瓦礫が砕けた。
レインも立ち上がる。
震える拳を握る。
「待て」
監査官は止まらない。
「答えろ」
さらに一歩。
レインの声が強くなる。
「お前――」
胸の奥で何かが燃えた。
「兄さんを知ってるのか」
監査官の動きがわずかに止まった。
ほんの一瞬。
だが確かに。
そして。
無機質な声が響く。
「確認」
レインの瞳が見開かれる。
「お前は」
監査官が武器を構えた。
「やはり、あの男の弟か」
次の瞬間。
殺気が爆発した。
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