第7話 「名前を奪われた男」
巨大な怪物が咆哮する。
無数の腕。
灰色世界を覆う影。
だが。
レインは怪物を見ていなかった。
見ていたのは記録者だった。
「お前も失ってるんだな」
その言葉。
記録者は明らかに動揺していた。
レインは確信する。
怪物じゃない。
記録者だ。
こいつを崩せば終わる。
記録者が低く呟く。
「黙れ」
空間が軋む。
怪物の腕が降り注ぐ。
だが。
レインは前へ出た。
「交換」
世界が震える。
対象。
怪物の腕。
代価。
左手の感覚。
次の瞬間。
怪物の腕同士が入れ替わる。
巨大な腕が互いを殴りつける。
轟音。
大地が割れる。
クロウが息を呑む。
「腕と腕を交換したのか……!」
レインは笑う。
「交換できるなら何でも使う」
これまでの交換とは違う。
敵同士を利用する。
初めての戦い方だった。
記録者が睨む。
「また失ったな」
レインは左手を見る。
感覚がない。
握れない。
だが気にしない。
「だから何だ」
記録者の眉が動く。
理解できない。
失うことを恐れない人間が。
その時。
リズが前へ出た。
「レイン」
「私にもやらせろ」
レインは頷く。
リズは怪物を見上げる。
そして。
三年前を思い出す。
逃げた日。
仲間を置いて。
泣きながら。
一人生き残った日。
ずっと。
ずっと。
あの日に縛られていた。
だが。
もう違う。
「私は逃げない」
リズが走る。
怪物へ。
恐怖へ。
過去へ。
真正面から。
拳を握る。
そして叫ぶ。
「見てろよ!」
轟音。
怪物の腕を吹き飛ばす。
初めてだった。
戦っているのではない。
前へ進んでいた。
その光景を見ながら。
クロウが小さく呟く。
「馬鹿だな」
誰にも聞こえない声。
そして。
自分自身へ向けた言葉。
昔。
クロウは命令を出した。
価値の低い者たち。
不要と判断された者たち。
その処分記録。
署名欄。
そこに自分の名前があった。
逃げた。
監査官を辞めた。
だが。
それだけだった。
何も償っていない。
妹が振り向く。
「クロウさん」
クロウは少し笑う。
「なんだ」
妹は真っ直ぐ言った。
「まだ間に合うよ」
クロウは答えられなかった。
その時だった。
レインはある違和感に気付く。
記録者。
怪物。
無数の腕。
全部が動いている。
だが。
一箇所だけ動かない。
胸。
怪物の中心。
そこだけが固定されている。
レインの脳裏に記録者の叫びが蘇る。
『言うな!』
名前。
本名。
レインは理解する。
勝ち筋だ。
記録者は記録している。
忘れられた者たちを。
だが。
自分自身の名前だけは捨てた。
いや。
捨てたのではない。
捨てられた。
だから。
名前に触れられることを恐れる。
レインはクロウを見る。
「知ってるんだな」
クロウが目を閉じる。
沈黙。
そして。
小さく答えた。
「ああ」
記録者が叫ぶ。
「言うな!」
怪物が暴走する。
世界が揺れる。
初めてだった。
余裕が消えた。
レインは笑う。
勝てる。
初めて。
明確にそう思えた。
しかし。
クロウは首を振る。
「まだ駄目だ」
「名前を知っただけじゃ足りない」
レインが眉をひそめる。
クロウは怪物の胸を見る。
「あそこだ」
「あそこに本体がいる」
空気が変わる。
怪物の中心。
妹が見た場所。
閉じ込められた人々。
その奥。
さらに深く。
記録者自身がいる。
クロウは続ける。
「記録者は怪物じゃない」
「怪物の中に閉じ込められている」
全員が息を呑む。
レインの思考が止まる。
記録者が。
被害者?
その瞬間。
記録者が静かに笑った。
先程までの焦りはない。
むしろ。
諦めたような笑み。
「やっぱりそこまで来たか」
空が割れる。
巨大な怪物の胸部が開く。
その奥。
闇の中。
鎖に繋がれた人影が見えた。
そして。
その顔を見た瞬間。
クロウの顔色が消える。
「嘘だろ……」
レインが問う。
「知ってるのか」
クロウの唇が震える。
そして。
絶望するように呟いた。
「処分したはずだ」
「二十年前に」
第二章最大の真実が。
ついに姿を現そうとしていた。
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