7.大樹──①
(ザザーン……ザザーン)
波の音──。響いてる。明日は実力テスト。美世は関係ないからって言ってたけど。
山の麓にある実家の神社は、海面より少し高い位置にあるから、カーテンを開けると窓からは夕闇の海が見渡せた。いつもどおりに……。
(僕にだって意味なんて無い。けど、そろそろ決めなきゃ……。自分が、どうしたいのか。何処へ行きたいのか……)
夜と言うべきか、まだ夕方と言うべきか。部屋の窓の外が薄暗くて、夜になりきれずに薄明かりを帯びている。空──。
父さんと母さんが記念にって買った振り子時計の針が、下を向いて18時半になって重なり合う。僕は、居間から台所に行って、父さんが作り置きしてくれた昨日の夕飯の残りを冷蔵庫から取り出した。
(コトン……)
頼りない無味無臭な乾いた音。テーブルに置いたまま、僕は薄暗い台所でラップに掛けられた皿の中身を見つめていた。
「酷くカチカチだ。まるで凍りついているみたいに。僕の弾くピアノの音と同じだ……」
ラップに包まれた白米の残りを冷凍庫から幾つか取り出した。それでも、お腹は減る。それをテーブルの上に置く。
(コトン……)
レンヂで解凍するために三分ほど設定してスイッチを押す。最近、買い替えられた新しいレンヂ。母さんが居た頃には無かった。
(ウイィィ……ン)
レンヂの音が響く。カチカチに凍りついた白米が、オレンジのスポットライトを浴びたように解凍されて行く。
色のない世界──。音。僕の現実。無色透明な未来。特別な何か……。
それが、いつしか……このレンヂの中の様に、温かい色に包まれる日が来るんだろうか。三分だけでも。
(オレンジ……温かい色。なんだか、美世みたいだな……)
美世も皆も、学校では優しくしてくれる。有り難いことだ。ピアノだって、誰も批判したりはしない。皆が僕を支えてくれる。そんな風に、僕はピアノで誰かを支えるなんて事……出来るんだろうか。
(チーン……)
レンヂの扉を開けて、解凍された白米のラップに触れる。思わず僕は、指先を引っ込めた。
「熱っ……!」
加熱し過ぎ。上手く行かない。調整し損ねた旋律のよう……。なんて、考え過ぎかな。ピアノのこと。音楽のこと──。
それに、美世も時々こうなる。昔から……火傷しそうなほど熱くなって。
「夢……か。何言ってるんだろう。美世。火傷したら、元も子もないのにな……」
昼間の砂浜で言った美世の言葉を想い出す。
小さい頃──、まだ母さんが元気だった頃……。美世に、そんなこと言ったっけ。
(まだ覚えてたんだな……美世。小学生だっけ。お互い小さかったよな……あの頃は)
皿に掛けられたラップを剥がして、冷たいまま昨日の夕飯の残りを食べた。解凍したての白米が、火傷しそうなほど熱かった。極端かもしれないけれど、ちょうど調和が取れてる気がした。
◇
「ペトルーシュカからの第三楽章。ストラヴィンスキー……。高速のトリルからの大胆な跳躍。弦を打つ強さが求められる難関曲……か」
ストラヴィンスキーが、友人から依頼を受けて極限まで追い求めた傑作。人形でありながら、ペトルーシュカが抱いた叶わぬ恋。哀愁と冷たい感情……叫び。鮮烈なリズムと復調性、真骨頂──。どうして、この曲が、今……頭の中に。
(分からない……。何かを打ち破るため? 僕のピアノは、母さんとの想い出──。そんなもの、他人には聴かせられない……。とてもじゃ無いけれど)
いつものピアノの前で、椅子に腰掛ける。とても勇気が要る。どんな音が──、奏でられるんだろうか。
思い返せば、最近よく聴いていた気がする。ずっと、鳴り響いていた曲。ピアノの音──。確か母さんが、大樹にはまだ早いかなって言いながら……披露してくれた曲。その時は、作曲者の想いも譜面から奏でられる物語も意味も……よくは知らなかった。ただただ、衝撃的だった。けど──。
(弾ける……。今なら)
最難関曲の一つ──。でも、弾ける人は世間には沢山いる。世界は広い。弾けたからと言っても、聴いてくれた誰かの心を打つとは……必ずしも限らない。
感動──。人の心に訴えかける何か。カタルシス。それが出来たなら、それが……ピアニストとして本懐を遂げたとも言える。
そんなことが、僕に出来るんだろうか。恐ろしい……。
(母さん……)
幻影──。ずっと、この部屋で母さんと弾いて来たピアノ。天井の照明から見下ろす影……。母さんとの想い出。部屋の時計を見ると、ちょうど19時を指していた。テーブルの上に置いた携帯が、光っているのが見えた。
「誰かな……。美世?」
鍵盤の上で、触れかけた指先を戻す。椅子から立ち上がって、誰からのメッセージなのか確認した。
「ん? 悠真? 19時半に来る? え? どうして……」
急な連絡。悠真からの……。何かあったのかな?
僕は、ピアノの前に戻って来た。まだ時間がある。ほんの少しだけ……悠真が来るまで弾いていたい。僕は、そのまま椅子に腰掛けて──、時間を惜しむようにピアノを弾き始めた。
◇
(ピンポーン……)
律儀にも……悠真が、玄関のベルを押していた。携帯を鳴らしてくれれば良いのに。玄関の引き戸の磨り硝子から、真っ暗になった外の様子が見えた。オレンジに灯った門灯が明るい。そこに悠真が立っていた。けど、なんで鞄? 手にしているのは──。
(ガラガラ……)
「ご、ごめん! 大樹、こんな夜分遅くに……」
「? 別に良いけど? 父さんも、今日は居ないから」
「そ、そうなんだ? アハハ……。いやぁ、アレから大樹のピアノの音を聴いて、触発されちゃって」
「え? そうなの?」
悠真が玄関先に腰掛けて、鞄を開けようとした。中には、オーボエが入っていた。そのまま悠真が、オーボエを組み立てようとしたもんだから、僕はピアノを弾いていた自分の部屋に悠真を案内した。
「相変わらず、〝和〟って感じの部屋と雰囲気だね?」
「ハハ……。ウチ、神社だから」
「なんか旅館みたいだな……。良いよね?」
「いや、美世の家なら本物の旅館だよ? 民宿だけど」
「に、新浜さん?!……の家か。い、行ったこと無いな。た、大樹は──?」
「? あるよ? 幼馴染みだし。付き合い長いし」
「つ、付き合い……って?!」
悠真が、どういう訳か驚いていた。組み立てかけたオーボエを落としそうになって、慌てて拾い上げていた。悠真のオーボエに何かあっては、いけない。ヒヤヒヤする……。
「だ、大丈夫? 悠真?」
「い、いや、別に……」
何だか悠真が、素っ気なく俯いた。口にしたリードの具合を確かめている。オーボエって、手間暇が掛かる繊細な楽器だ。リードだって毎回、自分が削って作らなきゃいけない。それでも、オーボエを大事にしている悠真には、頭の下がる想いがした。
「良いの? 悠真? 明日の実力テスト」
「ん? あぁ、今さら足掻いたって……どうにも。まぁ、そんなに進路や成績には直接響かないだろうし」
「悠真は……音大志望、なんだよね?」
「? 大樹は? てっきり僕と同じかと思ってたけど?」
オーボエを組み立て終えた悠真が、僕の部屋の和式の照明の下で……スッと立ち上がった。黒く光るオーボエの管体──。銀色の金属キーに軽く触れた悠真の指先。
悠真は、深呼吸した後……。リードに唇を軽く触れさせた。音が鳴る──。
(この曲は──。サン=サーンスのオーボエソナタ、ニ長調……作品166。第一楽章か……)
温かく包み込むような旋律から始まる……美しい音色。それが、まるで僕に寄り添うように響く。どうしてだろう……。僕は、悠真のオーボエの音色に誘われるようにして……気がつけばピアノの音を奏でていた。
サン=サーンスが最晩年に作曲した極めて純度の高い、オーボエのための曲。純粋な音楽への回帰……。感情に溺れず、時代遅れと言われても尚、貫かれた意志。洗練された哀愁と透明感のある心境──。
(この曲は、オーボエの表現力が鍛錬される名曲とも知られている。けど、どうして……悠真? なんで今、わざわざ……こんな時間に、僕の部屋で演奏してるの? 悠真──)
第一楽章の色彩感あふれる表情豊かな冒頭から始まり、第二楽章の自由な形式で哀愁と優しさが漂う……。
悠真、上手いな……。とっても。鍵盤の上の僕の指先が滑らかに導かれる──。
(とても背中が熱くなるような……。なんなんだろう……この感覚。まるで悠真の音に背中を押されて、支えられているような──)
──第三楽章に入った。ここは、軽快かつオーボエの基礎力が試されるパッセージが特徴。悠真が、この曲をとても熱心に練習したのが伝わる。前に一度だけ悠真とのアンサンブルで弾いたけど……。
(ザザーン……ザザーン)
悠真との演奏を終えると──、すっかり暗くなった窓の外で……波の音が静かに響いていた。
「ハァハァ……。いやぁ、ブラボーッ! 大樹っ!! リハ無しのほぼ初見で完璧に僕に合わせてくれるだなんて!! 流石っ!! 見事としか言いようがないよね?」
「いや、前に一度だけ悠真と演奏したことあるし。それを言うなら悠真の方だよ。更に腕を上げたね? 聴き惚れたよ……」
悠真が演奏を終えた後、服の袖で額の汗を拭っていた。とっても嬉しそうな満足気な表情をしていた。良いな……悠真。僕も、悠真みたいな演奏が出来たら……。
「あぁ、やっぱり大樹とのアンサンブルは最高だよ。いつだって、そう想う。藤堂さんも斉明寺さんも……きっと、そう思ってるんじゃないのかな?」
「ふふ。そうなのかな……。そんな風に想ってくれてたなら……良いんだけどね」
僕の演奏が目指すべきもの。ピアノ──。忘れたくはない、大事なもの……。
それが、いったい何なのか。答えようのない夜の静けさが、家の外に広がる。……波の音が静かに響いている。
(ザザーン……ザザーン)
昼間言った美世の言葉を想い出す。僕の夢──。僕は、いったい何処へ行くんだろうか。




