6.陽菜──①
(音──。大樹のピアノ……。まだ余韻が頭の中に響いてる……)
昼下がりの校舎内。音楽準備室で大樹や美世、皆が帰った後──。一人で俯いて廊下を歩いていた。
(コツコツ……)
廊下に響く私の足音。静かだ。遠くから他の生徒たちの声が聞える。部活に勉強──、皆は何処へ行くんだろうか。
凪と悠真君は、音大……。みたいなこと言ってたけど。
「あ! 陽菜っ! 一人? 学食行くんだけど、陽菜も来ない?」
「え? いや、今は良いかな? お腹空いてないし? お昼からレッスンとか予定あるから……」
「ふぅ~ん? 陽菜……音大志望なんだよね? 大変そう……。じゃっ!」
何だか、クラスメイトの後ろ姿が、青春? ──みたいな。そんな風に感じた。
(教室……まだ誰か居る。明日は実力テストだけど、なんか楽しそう。机とか、くっつけたりして……)
廊下から見える教室の窓から青い海と空が見える。東京から転校して来てから二年。
本当は──、皆と楽しく過ごしたい。最後の高校生活。勉強とか部活とか。友だちとか、恋愛?……とか。
だけど、音楽の道を選ぶなら……そんな生温いこと言ってられない。演奏家としてプロを目指すなら、今だって時間を大切にしたい。練習、練習。けど──。
時々、想う。本当の幸せって、何だろう……って。
(そう言えば、大樹……。どうするのかな、進路。出来れば、大樹と──。そうだ……)
少し立ち止まる。廊下から階段へ降りようとして、振り返ってから、そのまま──。四階にある音楽準備室まで駆け上がった。
(美世と大樹……。仲良さそうだったな。幼馴染みだもんね……。けど、大樹だって、きっと……今のままじゃ居られない。だって、大樹は──)
音楽準備室──。さっきまで、私たちが居た場所。入り口の扉の前に立つと、シーンとして居る。誰も居ない。息を切らせながら、少し深呼吸をしてから胸の鼓動が治まるのを待った。私は音楽準備室の扉を開けた。
(ガラガラ……)
ピアノ──。さっきまで大樹の弾いていたピアノが、まだ光の粒を放ってる。
窓は開けたままで、カーテンが風に揺れる。
青い海と空のような……何処までも続く大樹のピアノの音が、まだ音楽準備室に満ちていた。
「大樹……。進路とか、どうするのかな。……バッハのインベンション。ピアノ練習曲なのに、とても良かった。私はサックスだけど、もっと大樹と──」
窓からの光に反射するグランドピアノ──。開けると、鍵盤の上に大樹の流れる指先が見える。キラキラとした音の粒も。聴こえる──。
(……大樹。実力は本物。天才。なのに、コンクールにも出てない。どんな音色も大樹が奏でる音には勝てない。なのに──)
あんな風に、いつも惚けてボーッとしているのに。眼鏡の奥の目は、いつも眠そうなのに。ベートーヴェンの肖像画みたいに、いつも頭ボサボサなのに。大樹は、大樹の音が、私の頭の中から離れない。初めて聴いた時から、ずっと──。
そっと、大樹が腰掛けていた椅子に座る。そのまま、鍵盤に指先で触れる。副科ピアノだけど、私だってバッハのインベンションは一通り弾ける。
(ターン……)
うっ……。一音めからして、既に大樹とは音の響きが違う。一通り、弾いてみたけれど。何とか試験にパス出来そうなレベルであって、とても大樹のように聴かせられるレベルじゃない。
「ハハ……。まぁ、仕方がないよねー? 私の専攻はピアノじゃなくって、サックスだし? 大樹とのデュオなら……」
(ガラ……ガラガラ)
その時──、音楽準備室の扉が急に開いた。私は指先が固まったまま、振り向いた。
「ハァ……。やっぱり。先客あり。大樹君の音、上書きされちゃったか……。陽菜、大樹君の音が恋しくて、音楽準備室に戻って来たんでしょ?」
「え? 凪……。なんで、ここに?」
「同じ理由。悔しいけど」
窓から吹き込む風に、凪のツインテールにした黒髪が揺れる。私は、凪と凪が手に持っていたフルートを見つめた。
「フルート?」
「そ。練習用。大樹君の音が崩れない内にね。感覚を研ぎ澄ませるために」
どうも凪は、何本かフルートを所持しているみたいだった。流石は名家のお金持ち。お嬢様……。
凪が、そっとフルートに唇を当てると──、可憐な恋のような花咲く音色が響いて来た。上手い──。けど、こっちも何だか妙に胸が高鳴ってしまうような? ドキドキする。こうしては、居られないような……。凪は、大樹の弾いたバッハのインベンション……第一番に完全に合わせて来た。大樹が弾いていたイメージどおりに。
凪が最後の音色に息を吹き込むと、そのまま音楽準備室にフルートの美しい音色が響き渡った。窓のカーテンが風に揺れている。
「どう? 陽菜、ご感想は?」
「へぇ~。凪、上手いよね? 相変わらず? けど、何だか……言って良いのかな」
「何? ダメ出し?」
「うーん、えっと。その……」
「遠慮なく言えば?」
「凪……恋? してる?」
「えっ?!」
誰かに……とまでは言いたくなかった。それが、もしも、大樹なら? いや。けど、でも……。今は、聞きたくなかった。凪みたいに今、私がサックスを吹けば──、どんな音色になるんだろうか。なんだか恥ずかしい……。
「いやぁ、女の子って感じで、とっても艶っぽいって言うか色っぽいって言うか……。い、良い演奏だったよ? わ、私も凪を見習おうっかなぁ……なんて」
「えっ?! えぇっ?! こ、恋っ?! そ、そんな……。私、そんな風に演奏してたんだ……」
いつもは冷静沈着なクールビューティーな凪が、フルートを持ったまま顔を赤くして俯いていた。
「ふふっ。まぁ、良いんじゃない? 凪、なんか壁越えて、表現力っていうのかなぁ……? そういう音、出せるようになって」
「ちょ、ちょっと、陽菜っ! な、なんか恥ずかしいんだけどっ?!」
私も、サックス持って来れば良かったかな。凪のフルートみたいに。同じ演奏家として、まだ高校生だけど、凪からは気概を感じる。誰かさんへの恋心も。言いたくは、無いけれど……。
「あ、そうそう。それでさぁ……」
「ん? 何、なに?」
凪が、音楽準備室に置いてあったパイプ椅子に腰掛けて近寄って来た。テーブルにフルートを、そっと置いてから……鞄の中から学食で売ってるハム卵サラダサンドを取り出した。気前良く凪は、私に二個もくれた。ちょうど、お腹が空いてた。
「陽菜……ってさ。ユーレイとか、信じる?」
「えっ?! ゆ、ユーレイっ?!」
何だか、急に話題がガラッと変わった。高鳴っていた心臓の鼓動が、今度は演奏で変調した時みたいに急に変わる。違う意味で、ドキドキしていた。
「いや、あのね? その……美世がね?」
「美世? うんうん。なんか、目の下のクマとか? しんどそうだったよね?」
「それも、そうなんだけど……」
凪が、手に持っていたハム卵サラダサンドを少し見つめた。それから、パクッと一口。凪がモグモグと食べながら、窓の外を見つめていた。私も少しサンドイッチを見つめてから、パクッと一口……頬張った。
「うーん。陽菜って、霊感とか。ある?」
「無いない! けど、うーん。いや、凪は?」
「それが……ね?」
「いや、〝ね?〟って! さっきから、もったいぶりすぎっ!」
「ごめん、ごめん。ちょっと、気のせいかなって想った程度だったんだけど」
そう言った凪は、余分に買っただけだからって言ってペットボトルのお茶を一本……気前良くくれた。ありがとうって言ってから、蓋を開けてゴクリと飲み干す。窓から吹き込む春の風が気持ち良いのに、私は凪の言葉をドキドキとしながら待っていた。
「聴こえちゃったんだよね」
「ふーん。何が?」
「声……が」
「えっ?!」
何だろう。声? ユーレイと掛けて声と来れば──、し、心霊現象っ?!
いや。私も凪も、演奏家なんだから耳は良い。自信ある。音楽での初見の聴音の試験とか、耳コピ出来るくらいには。
「な、何なにっ?! み、美世とユーレイと……な、何か、関係あるのっ?!」
「ちょ、ちょっと! 落ち着きなよ……陽菜」
「うん……」
私は大樹が座っていた椅子から身を乗り出して、立ち上がった。びっくりした凪の目の前で、口にしたサンドイッチの欠片が手元から床にポロリと落ちた。
「な、なんて? 声……」
「私たちとは住む世界が違うって」
「そ、それって、美世の声?」
「ううん。違う声……。ハッキリ聴いた。それに、美世も頷いてた。気のせいかなって、最初は思ってたけど。陽菜も聴こえたんじゃないかって」
「そ、そう……なんだ」
私は、あの時──。時々、誰かの影みたいなのが美世と重なって居るように見えてた……気がした。けど、本当に気のせいだって、気にも留めてなかった。ほんの一瞬だったし……。ここのところ、レッスンとか勉強で疲れていたから。それに、霊感なんて今まで全く無かったし。
「美世……大丈夫なのかな?」
「うーん。どうだろ? 大樹の家、神社だし? 今度、お祓いでも……」
「あ、そうそう! なんかお祓いの話のついでに、大樹君……と、悠真君も岬さくら祭りに誘っちゃう? 試験が終わったら」
「い、いや、ついでって……。当然、美世もでしょ? 話が何か、目茶苦茶……」
「良いんだって! 高校生活、最後だし? もう、レッスンとか音大の準備とかで……忙しくなるから」
「う、うん……。そうだよね……」
何だか、凪って時々──破茶滅茶で明るくなる時がある。私以上に。
私は、意識して明るくなるようにしてるけど……。凪のは、天然のジェットコースター。明るくなったかと思えば、時々、直ぐに冷静沈着になってドキッとさせられる。まるで凪のフルートの演奏そのままに──。
「大樹君……とっても、勿体ない。ピアノ──、私たちで大樹君を押し上げてあげなきゃ。ね、陽菜?」
「あぁ……。うん。そうだね? 凪と……ね。大樹……確かに、このままじゃ勿体ないよね」
「うん……」
確かに大樹の弾くピアノが、このまま世間に知られずに埋もれてしまうのは勿体ない。けど、凪と?
そうしてあげたいのは、山々だけど……。私は私のことで精一杯──。けど……。
明日は、実力テスト。その前に、個人レッスンもある。サックスの。凪との話は楽しいけれど、そろそろ帰らなきゃ……。大樹は、何処へ行くのかな……。




