第32話 薬剤師の勉強会 その2
「それでは次のスライドです。こちらは、薬剤師による副作用報告の1例です。」
この人の話はわかりやすい。葵は素直にそう思った。すでに30分ほど経過し、副作用報告制度ができるまでの歴史や制度についてをよく理解できた。
この制度は、HIVに汚染された血液製剤を使用し続けたおかげで、エイズ感染症が拡大したため、1997年に副作用の報告が義務付けられたそうだ。ちなみにこれだけで義務付けられたのではなく、森永ヒ素ミルク事件やサリドマイド事件など一度は聞いたことのある事件も関係しているらしい。とにかく、副作用の報告が遅れたため、被害が拡大したのでこの制度ができたということだ。このため、少しでも副作用の可能性があれば報告することが医療関係者や製薬企業等に義務付けられた。
ちなみにこれは薬の副作用かどうかわからない場合も報告する必要がある。とにかく可能性が1%だろうが0.1%だろうが0でない限りやる必要がある。報告するには、医薬品医療機器総合機構、通称PMDA(美夜先生はなぜかパンダと呼んでいる)のサイトにあるファイルに記入し、提出する。昔は報告期限なんて医療関係者に対してはなかったらしいが、今では病院や薬局の規模が大きければ企業と同じく、発生から15日以内(状況によっては例外もあるらしいけど)にしなければいけないらしい。
ちなみに私は実習生にしては珍しく、この副作用報告をやったことがあるんだけど…。うう、あんまり思い出したくない…。
②❾〇
(数日前)
「松尾 壮太さん、お薬の準備ができました!」
名前を呼ぶと、中太りの男が近づいてきた。まだ27歳だが、仕事で心を病んでしまい、精神薬を10種類ほど飲んでいる人だ。今は休職中だが、どうやら医療関係者らしい…。まあ、出ている薬は特に変わりはないから、説明は難しくないからいいけど。私はどんどん薬を説明していく。
「…それではお薬は以上となります。何か気になることはありますか?」
「え、あの…。やっぱりいいです…。」
えっ! 何か言いかけたけど…。もしかして私が頼りなさそうに見えたのかな…。
「どうしたの? 松尾君、何か気になることあるんなら言ってよ。この子の勉強にならないでしょ?」
美夜先生が助け舟を出してくれた。でも、まだ言おうかどうかは迷っているらしい。
「で、でも我流先生、今ってセクハラとかに厳しいじゃないですか?」
私はその言葉を聞いても意味が分からなかった。だけど、美夜先生は今の言葉で何か分かったようだ。
「え、どういう内容なの?大丈夫大丈夫。たとえあなたが何を言おうと私は気にしないから。」
少し楽しそうな顔をしながら松尾先生に聞いている。あの表情からあまりよくないってことは想像できるけど…。
「じ、実は、最近出ないんですよ。」
彼は小さな声で言った。私はそれを聞いても全然意味が分からない。
「で、出ないって何が?」
美夜先生は少し笑いをこらえながら聞いている。
「あの、男の白い…」
「ぶふっ!」
美夜先生はこらえきれず笑い始めた。松尾さんの顔は真っ赤だ。これ、どっちがセクハラなんだろう?
「先生! 笑わないでくださいよ! こっちは必死で悩んでるんですから!」
「ふふっ!はあ~。ごめんごめん。そうよね。20代だと日に1回は必要よね。そうよね…」
「…あの、先生さっきから何の話なんですか?」
私はさっきから気になってたことを聞いてみた。
美夜先生は少し驚いた顔をした。え、そんなに当たり前のことなの?
「もしかして葵ちゃん…。ま、まあ男の子には一生ついて回るさがというか習慣というか、とりあえず、副作用報告のやり方教えながら説明するわ!」
「あの、先生僕は?」
「あなたはとりあえず…、この薬飲まなくていいようになるまで持ち直しなさい!」
そう言うと、美夜先生はある1つの薬が入った薬袋にマジックでしるしをつけていた。
②❾〇
松尾さんが帰って行ったあと、美夜先生は副作用報告の方法を教えてくれた。まずPMDAのサイトにある専用の報告ページにアクセスした。そこで患者情報、副作用、副作用を起こしたと思われる薬の使用状況などを詳細に記入する。
ちなみに昔は一度ワードファイルに入力した後、メールでPMDAに送る必要があったけどそれも解消されたらしい。なんでも、PMDAの安全性部門の仕事の多くが副作用報告などのメール等の情報整理なので、そこに時間をかけるより、別のところにかけろ!と医療関係者や製薬企業たちから批判を食らったので、ちゃんとシステム作りを行ったそうだ。おかげで、このサイトで送った情報はコンピュータが自動で整理して保管してくれるらしい。
「そういえば、松尾さんって結局何が悩みだったんですか?」
「ああ、射精障害っていう副作用よ。」
「射精?何ですか、それ?」
「…とりあえず、男の子にはそういう病気があるってことよ。」
美夜先生が教えてくれた副作用の名称を添付文書から探すが見つからない。
ちなみに松尾さんは薬を10種類も飲んでいるので特定は不可能だと思ったけど、美夜先生はなぜかセルトラリンという薬を疑っていた。これはうつ病の薬で、副作用はたくさんある。でも…。
「添付文書にそれらしきことは書いてないですけど…。」
「ああ、昔知り合いが飲んでてそれで1時間くらいいじっても全然出ないって言ってたから多分それよ。みんな報告したがらないんでしょうね。」
「えっ、いじるって?」
「あっ。」
美夜先生が少ししまった!という顔をした。
「葵ちゃん…。今から言うことはあくまで医療用語だから、ね?実は…」
その後、私の顔は赤いままだった。
②❾〇
「…ということで今日の説明は以上となります。ご静聴、ありがとうございました。」
説明が終わり、拍手が起こった。
『村本さん、ありがとうございました。それでは質疑応答に移りたいと思います。質問のある方は挙手をお願いします。』
ちらほら手が上がるのが見えた。こういう勉強会で質問をするのは珍しいらしい。
②❾〇
無事に勉強会も終わり、今日はこのまま美夜先生とご飯を食べに行くことになった。
「あの…。我流さんですよね?」
見知らぬ女性が話しかけてきた。髪は黒のショートで明るそうな人だ。
「えっと…。確か大学の時、1個下の…」
「祠堂です、祠堂 智栄美ですよ。お久しぶりです。」
だが、美夜先生ははっきりとは覚えてなさそうだ。名前を聞いても全然ぴんと来てなさそうな顔をしている。
「ん~、祠堂さんって髪くろだっけ?」
「元々黒で染めたことは一度もありません。」
「あ、あれ?急にコンタクトになったかと思ったらなぜか胸も大きくなったあの?」
「それは別の人です! ほら、我流さんがいらっしゃった研究室の隣の研究室にいました。」
「あ~、そうだったような気がする…。っで、どうしたの?」
「実は、我流さんが一人で薬剤師やられてるって聞いて少しお話が聞きたくて…。この後、お暇でしょうか?」
「今日はこの子と約束してるから無理。」
美夜先生は私を抱き寄せながら答えた。
「じゃあ、その子も一緒にどうでしょう?それにその子にも聞いてほしいですし。」
美夜先生は、少し考える表情をすると、私の方を見た。
「どうしよっか? 葵ちゃんが嫌なら断るけど?」
「私は、別に…」
「じゃあ、行きましょう!ぜひ!」
うわ、この人ぐいぐい来るな…。美夜先生を見るとやれやれという表情をしている。
「ま、しょうがないわね。行きましょうか、葵ちゃん。」
美夜先生は少しめんどくさそうな顔をしながら言った。
「先生、すみません…。私がはっきり断れば…。」
「まあ、これからよ。それにしても…。まあいいわ。」
美夜先生の言葉が気になりながらも、私は祠堂さんの後をついて行った。
更新が遅くなりすみません。最近ようやく野良猫が見られる季節に…。




