第6話「世界の輪郭が滲む夜」
反逆のインクの隠れ家である廃鉱山へと逃げ込んだアルスたちを待っていたのは、息を呑むような絶望の光景だった。
「……ひどいな。想像以上だ」
アルスは隠れ家の作戦室に広げられた地図を見つめ、拳を強く握りしめた。
地図のあちこちがまるで水をこぼしたようにドロドロに溶け、地名や国境線といった文字が完全に消失している。
それだけではない。
洞窟の岩肌、木製の机、さらには自分たちの手足の先までもが時折チカチカとノイズを発するようにその輪郭を曖昧にさせていた。
世界を形作っていた神の言葉のゲラ刷りが根底から崩壊を始めているのだ。
「世界の文字の約4割がすでに機能を停止している」
レオンが深刻な面持ちで銀の万年筆を机に置いた。
「文字が消えた地域は存在そのものが白紙へと還る。このままではあと数日で世界は完全に消滅するだろう」
「それを止める方法が大司教の言う、エルナの回収による世界のリセットってわけか」
アルスが忌々しげに吐き捨てる。
「そうだ。だがそれだけじゃない」
レオンはエルナを見つめた。
「神聖書芸院の最深部には、世界という本の背表紙にあたる創世の祭壇がある。そこでエルナの白紙の創世聖典を起動すれば、世界は再び最初の1ページ目から書き直される。……ただし今を生きるすべての生命の記憶と存在は、インクの塵となって消え去るがね」
「そんなこと絶対にさせない」
アルスが遮るように言った。
「エルナは世界を消すための道具じゃない。俺たちの言葉でこの今ある世界を守る方法が必ずあるはずだ」
その時だった。
部屋の隅に座っていたエルナが、突然小さく悲鳴を上げてその場に倒れ込んだ。
「エルナ!」
アルスが駆け寄り、彼女の身体を抱き起こす。
彼女の身体はまるで高熱に浮かされているかのように激しく震えていた。
その背中が服を透過して禍々しいまでの純白の輝きを放ち始めている。
「熱い……背中が壊れちゃう……! 何かが私の中に無理やり書き込まれていく……!」
「くそっ、服を破るぞ!」
アルスは躊躇なくエルナの背中の衣類を引き裂いた。
レオンや周囲の義賊たちからも一斉に声が漏れる。
エルナの白い肌に刻まれたあの白紙の聖典。
これまで空白だったその中央に、まるで不可視の神の筆が猛烈な速度で動いているかのように、新しい鮮血の文字列が生々しく深く刻まれつつあった。
それは世界の崩壊が最終段階に達したことで、世界のシステムが自動的に刻み込んだ最後の宣告だった。
アルスは元特級書術士の知識を総動員し、激痛に歪むその古代神聖文字を必死に読み解いた。
「……読めるか、アルス」
レオンが尋ねる。
アルスの顔からみるみるうちに血の気が引いていった。
その目に激しい動揺と絶望が走る。
「こんな残酷な書き込みがあるかよ……!」
「何て書いてあるの、アルス……」
エルナが涙の浮かぶ青い瞳でアルスを見上げる。
背中に刻まれたのは、術者が自らの魂をインクとして捧げ、聖典の命を塗り潰す時、世界の崩壊は停止し、既存の頁は永遠に固定されるという残酷な掟だった。
「……つまり」
レオンが絶望を噛み殺してつぶやく。
「世界のリセットを拒み、この世界をそのまま残すための方法はただ一つ。アルス、お前が自らの命のすべてをインクに変えて、エルナの存在ごと文字を完全に消去すること。……お前たち二人の命がけの心中が条件というわけか」
部屋に重苦しい静寂が満ちる。
世界を救う方法は二つ。
一つはエルナが世界をリセットし自分以外のすべてを消し去ること。
もう一つはアルスがエルナの命を奪い自らも命を捧げて世界を固定すること。
どちらを選んでも、二人で共に生きる未来はこの世界のシナリオには最初から用意されていない。
「……そっか」
エルナがぽつりと言った。
彼女は自らの背中に流れる血のようなインクをそっと指で触る。
そしてどこか吹っ切れたような美しい微笑みを浮かべた。
「私、アルスと出会えて本当によかった。代筆屋さんのあの錆びたペンが、私の白紙だった心にたくさんの温かい言葉を書いてくれたから。……だから私、世界なんて消したくない。アルスが生きるこの世界を守れるなら私――」
「バカなことを言うな!」
アルスは激昂し、エルナの肩を強く掴んで揺さぶった。
「俺がそんな結末を認めると思うか。お前の命と引き換えに生き残る世界なんて俺にとってはただの落書きだ。そんなページ、俺がこの手で破り捨ててやる!」
アルスは左手で錆びついた鉄ペンを強く握りしめた。
その指先から血がにじむほどに。
「神様が書いたあらすじが何だ。世界のシステムが何だ。俺は最高の代筆屋だぞ。依頼人の望む結末を書いてみせるのが俺の仕事だ!」
アルスの魂の叫びが廃鉱山の窮屈な部屋に響き渡る。
レオンはそんな親友の姿を見て不敵に笑った。
「全くだ。お前が大人しく運命に従うような弾丸なら、3年前に俺が追い抜いて見せたさ。……決まりだな」
レオンは作戦室のドアを勢いよく開け放った。
外に控える反逆のインクの団員たちに向かって剣を掲げる。
「野郎ども、筆の準備をしろ! これから世界の最高権力、神聖書芸院の総本山へ殴り込みをかける! 神様が書いたプロットを俺たちのインクで盛大に書き換えてやるんだ!」
地鳴りのような団員たちの歓声が廃鉱山の壁を震わせた。
アルスはエルナに向き直り、今度は優しく彼女の手を握った。
「エルナ。俺を信じろ。二人で生きて新しい旅の手紙を書くぞ」
エルナは涙を拭い、力強く頷いた。
その夜、世界の輪郭がドロドロに滲む暗闇の中、反逆者たちの軍勢は大司教の待つ中央大聖堂へと向けて進軍を開始した。
運命の最終決戦まで残されたページはあとわずか。




