第7話「神聖書芸院、陥落」
世界の半分がドロドロとした白紙の奈落へと溶け落ちていく中、大陸の中央にそびえ立つ神聖書芸院の総本山、中央大聖堂は不気味なほどの静寂に包まれていた。
天を突く白亜の尖塔の周囲には、すでに世界の崩壊を食い止めるためのおびただしい数の神聖文字の防衛線が張り巡らされている。
「――全員、筆を構えろ! ページをめくるのは今だ!」
レオンの鋭い号令とともに、反逆のインクの精鋭たちが一斉に飛び出した。
彼らの手にするペンからあらゆる色彩の魔力インクが放たれ、大聖堂の城門を守る自動書記人形の軍勢へと襲いかかる。
爆音と文字が砕け散るマナの光芒が夜空を埋め尽くした。
「アルス、ここは俺たちが食い止める! お前はお前自身の約束を果たしてこい!」
レオンが銀の万年筆を振るい、3体の人形を同時に縫い留めながら叫ぶ。
彼の衣服もまた、世界の滲みによって肩のあたりがかすかに消えかかっていた。
「恩にきる、レオン! 死ぬなよ!」
「お前に追悼の詩を書かせるわけにいかないからな。行け!」
アルスはエルナの手を強く引き、大聖堂の重厚な正面扉を蹴り開けた。
大聖堂の内部は外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
高い天井へと続く大理石の柱には、これまで書芸院が人類から搾取してきた美しい言葉や歴史の記憶が、剥製のようにびっしりと閉じ込められて怪しく発光している。
「……よくぞ来ました、神に背く迷える羊たちよ」
大聖堂の最奥、世界という本の背表紙にあたる創世の祭壇。
そこに純白の法衣をまとい、両手に黄金の巨大な羽ペンを握った男が立っていた。
神聖書芸院の最高権力者、大司教マクスウェル。
その老いた顔には狂気的な笑みが張り付いており、彼の背後では空間そのものが巨大な白紙の本の形に裂け、世界を飲み込もうと渦巻いていた。
「マクスウェル。人々の言葉を奪い、世界を都合よく書き換えるお前の独裁もここまでだ!」
アルスが左手の錆びついた鉄ペンを突きつける。
「独裁? 違います、これは救済です。言葉の乱用、感情の暴走、それらが世界という本のインクを枯渇させた。私はただ無駄な頁を切り落とし、世界を最も美しかった最初の1ページへと戻すだけ。それのどこが罪ですか」
マクスウェルが黄金の羽ペンを優しく一振りすると、虚空に『跪』の文字が顕現した。
それだけで大聖堂内の空気が一変し、絶対的な神の威圧が襲いかかる。
「ぐっ……ああああっ!」
ただ一文字が描かれた瞬間、アルスとエルナの全身に数トンもの重圧がのしかかった。
アルスは膝をつき、床の大理石が重圧に耐えかねてひび割れていく。
左手の魔力回路があまりの重圧に悲鳴を上げた。
「アルス……!」
エルナもまた地に伏せるが、彼女は大司教を激しく睨みつけた。
「あなたがやろうとしていることは誰も望んでいない。私の中に流れるたくさんの声が、今を、この世界を生きたいって泣いているわ!」
「黙りなさい、器風情が。君に意思など必要ない」
大司教が冷酷に『奪』の文字を刻む。
アルスが手を伸ばそうとしたが身体が動かない。
大理石の床から伸びた不可視の光の腕がエルナの身体を強引に引き剥がし、大司教の待つ祭壇へと引きずり込んでいく。
「アルス!」
「エルナァァァッ!」
祭壇の中央、創世のシステムに組み込まれたエルナの背中の白紙の聖典が、マクスウェルの黄金のペンと完全に同調した。
エルナの身体が宙に浮き上がり、彼女の瞳から光が完全に消え去っていく。
世界の崩壊を司るシステムが大司教の手によって強制起動されたのだ。
大聖堂の天井が完全に崩落した。
そこから見える夜空はすでに星も月もなく、ドロドロとした白紙の闇に覆い尽くされていた。
世界のリセットがついに始まってしまった。
「さあ、偉大なる原初の神よ、世界に新たな定義を!」
マクスウェルが歓喜の声を上げる。
アルスは床に伏したまま、血を吐きながら己の右手を見つめた。
3年前の慘劇で焼け切れ、だらりと垂れ下がったままの動かない右腕。
左手じゃダメだ。
大司教の神聖文字を打ち破りエルナを救い出すには、不器用な左手じゃ文字の速度が足りない。
脳裏に残酷な世界のルールが過る。
俺の命をインクに変えれば世界は救える。
エルナの聖典を塗り潰せば崩壊は止まる。
だがそんな都合のいい結末、俺が認めるかよ。
アルスは不敵に笑った。
極限の絶望の中で彼の天才としての、そして代筆屋としての魂が完全に覚醒した。
「マクスウェル……お前は世界を綺麗に書き直すと言ったな。だがな……」
アルスはだらりと垂れ下がっていた右手を自らの左手で無理やり掴み、天へと掲げた。
「俺の右腕の回路は3年前に焼き切れたんじゃない。……あんたらの安っぽいシナリオに俺の魂が不服従を起こして、へそを曲げていただけだ!」
アルスは懐からポケットの奥底に隠していた最後の血墨を、自らの右腕の皮膚へと直接叩きつけた。
黒いインクが右腕に染み込み、血管に沿って禍々しくも神々しい紫紺の炎となって燃え上がる。
肉体が焼き裂けるような絶望的な激痛。
しかしアルスの右腕の魔力回路が3年の時を経て、今この瞬間に完全復活を遂げた。
いや、復活どころではない。
エルナへの想いと代筆屋としての誇りが、彼の右腕を神をも書き換えるペンへと昇華させていた。
「何だと。右腕の回路を自ら再構築したというのか。狂人が!」
マクスウェルが初めて顔を歪め、黄金のペンをアルスに向ける。
神の威光を乗せた『滅』と『絶』の言霊が襲いかかった。
だがアルスは右手にしっかりと錆びついた鉄ペンを握り直し、光の速度で虚空を切り裂いた。
「神様のあらすじなんてここで全面改訂だ。――斬!」
アルスの右手から放たれた紫紺の剣閃が、マクスウェルの放った文字を正面から一刀両断に切り裂いた。
その衝撃波は大司教を吹き飛ばし、彼の手から黄金の羽ペンが転がり落ちる。
「馬鹿な……神の言葉をただの鉄ペンが切り裂くだと……」
地面に這いつくばる大司教を無視し、アルスは宙に浮くエルナへと駆け寄った。
エルナの背中にある聖典は、すでに世界のリセットへ向けたカウントダウンを終えようとしていた。
彼女の身体が徐々に光の粒子となって消えかかっている。
「エルナ、待たせたな。今、お前の物語の続きを書いてやる」
アルスは右手のペンを構え、エルナの背中の白紙の聖典へ向かって己の魂のすべてを注ぎ込む体制に入った。
ここからが世界のルールを欺く、代筆屋アルスの命がけの大博打だった。




