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五

 今日はよく働いたと自分で自分を褒めていた。残業のせいで家に着いた時間は二十二時を過ぎていた。同僚達の顔はまるでこの世の地獄を見たようだったが、私はそこまで残業が嫌いじゃない。

 もちろん、上司から今晩残ってくれと言われた時、快く了承した訳ではなかった。しかし、昨日三州大学に行くために、体調不良と言って半休を貰ったから断ろうとも思わなかった。一度自分のデスクで作業を始めると、案外楽しくなってくる。それに、残業代について考えたり、少数で職場に残って戦う時の雰囲気は好きだった。現在の仕事にやり甲斐を感じているのは、私が自認している長所の内の一つだ。ただこれは私が独身者だから感じる事だし、そもそも仕事が苦痛な人間にとって、残業は刑期が伸びた囚人の様な気分になるものだろう。

 自宅の月極駐車場に車を駐めて、すっかり真っ暗になったアパートを見る時は、流石にあまり良い気はしない。

 この時期の夜は気温が下がりきらず、湿度のせいかじんわり緩い。

 左ポケットから煙草のソフトケースを取り出した。ケースの上の封が空いていない方を、人差し指でとんとんと叩いた。するとその反動で反対側の封が空いている側から煙草が盛り上がって出てくる。そのまま一本を咥えて火を付けた。

 実は昨日三州大学で煙草を吸った時から、辞めていた喫煙生活が再スタートした。来週末に先生と会うが、どうせ先生はまだ煙草を吸っているから一緒に喫煙所に行けるな、とか。私は独身で迷惑をかける人は少ないし、職場の上司も喫煙者でそこまで風当たりは強くないな、とか。煙草を吸わない理由よりも、吸う理由を重視した結果だ。

 暗い中唯一光る街灯に向かって煙を吐いた。今吸っているピースは甘い味付けがされている煙草で、私好みの煙草であるが、実は私はこの銘柄以外の煙草をほとんど吸ったことがない。先生に教わってこの銘柄を買い始め、これまで他の煙草に浮ついたことはない。そうすると不思議と他の味付けの煙草を吸うと違和感を覚えてしまうようになり、もらい煙草や交換などはしないようになった。

 煙草を地面に落とし履いている革靴のつま先でぐるりと踏んだ。そのままアパートに向かい鞄から鍵を取り出しながら階段を昇る。扉を開いて部屋に入る。毎晩帰って真っ暗な部屋を見た時が一番いやな積み重ねを感じる。二番目は一人で夜ご飯を食べている時だ。

いやな積み重ねというのは、私の中での感覚でしかない話だ。確実に一人でいることが、習慣を超えて人生の要素になってきている。最近これに対してやけに焦りを感じるのだ。私はこれからもずっと一人でいるのだろうか。結婚することが幸せとは限らないというが、私はずっと一人でいることを考えるとたまらなくつらい。

一人でいること自体が苦であるわけではない、ただふとした時に、私がここで急死したら、と考えてしまう。毎日連絡を取る相手もいないし、見つかるのはしばらく先で、そのころには私は腐って異臭を放っているだろう。こんなこと考えても無駄だし、死後の世界は信じない。しかし、私の葬式に参列してくれる家族や同僚、上司や部下に数少ない友人知人が、私が死後の顔も見られず直接火葬された時、何を思うのかを考えると情けなくてたまらなくなる。

食事についてもだ。一人での食事に慣れるといけない。最近の私にとってはもう栄養摂取になってきている。一人での生活に慣れてきて段々食事の速度が速くなってきていると感じている。いつだかの牛丼屋で私より早く食べ始めたサラリーマン風の男が隣にいた。同じサイズのどんぶりだったが、私は彼より早く完食しお会計をした。その日に私は、確実に一人で暮らす人間として最適化されている事を痛感した。隣にいた男が結婚指輪を付けていた事もこの予感を裏付ける要素の内の一つになった。

いやな積み重ねなんてものはこの程度のことだが、私にとっては深刻な悩みである。毎日毎日これらを繰り返すことで、私の生涯独身の予感が完成されていく。懐くことのない虎の子供に毎日餌を与えている気分だ。

三十代独身の中ではよく自炊をするタイプだと自負している。インターネットで調べたレシピをその通りに作ると、簡単に八十点程度のものができる。そこに自分なりのアレンジを加えて、自分なりの百点に近づけることが私の満足感を刺激する。

しかし、もうこんな時間だし、疲労感もある。いくらレシピの見様見真似でも今から料理しようという気にはならなかった。棚から即席麺を取り出して、電子ケトルで湯を沸かす。

テレビの電源を付けると何処か既視感があるテレフォンショッピングが放送されていた。寝心地が良いらしい枕に女性が頭を乗せると、大げさに反応して枕を褒めちぎっている。きっとこの放送枠で昔の商品を取り上げた再放送なんかを流していても、全国の誰にも気づかれないだろう。

テレビのリモコンでチャンネルをカチカチと変えていく。深夜のバラエティが目に留まったのでリモコンから手を離した。大人になると幼少期に出来なかったことが当たり前にできるようになる。もうこの時間のテレビにそこまでの魅力を感じられないが、今は惰性で眺めている。

完成した即席麵の味はあまりはっきりしなかった。麺は劣化した輪ゴムの様だし、スープは熱さと少しの香り以外どうもぼんやりしていた。

疲労感が酷くなってきている。明日は土曜日で予定も無いし、今日は少し夜更かししてやろうかと思っていたが、早めに寝てしまおうと思う。学生時代は朝から始めて二度晩を迎える様な遊び方をしていたが、今は一度目の晩でもう駄目だ。

布団に入ってスマートフォンを開くが、明るい画面を見る気が起きなかった。大人しく部屋の電気を消して目を閉じた。

インターフォンの音で目が覚めた。寝た気はしないが朝の十時だ。休日とはいえ十時には訪問してもいい、という世間の風潮は嫌いだ。何故休日なのに起床していないと非常識だと思われるのか不思議だ。休日なのだから何時に何していてもいいだろう。

インターフォンの画面には黒いスーツを着た中年の男二人が映っていた。なんだか怪しいなと思って、一度眺めて放置した。画面が暗くなってすぐにまたインターフォンを鳴らされたので、しょうがなく通話ボタンを押した。

「もしもし?」

 インターフォン越しの会話の始め方はこれで間違いないか気になった。もし違ったとしたら、安易に話し始めた自分が間抜けな気がして恥ずかしくなってきた。

「六橋(むつはし)警察署の柿沼です。鈴木ユウタさんのお宅ですね。竹井ユキオさんの件についてお話伺いたいのですがよろしいですか?」

 どうやら彼らは警察らしく、私はひどく動揺した。勿論罪に問われる心当たりは無い。しかし、警察官がわざわざ私に会いに来ている事実が酷く私を動揺させた。

 声も出せずにいると、彼は警察手帳の様な物をインターフォンに近づけて見せてきた。

「少しでいいのでご協力お願いします。」

「ちょっと、待っててください。」

 ご近所の目もあるし、とりあえず部屋にあがってもらおうと思った。テーブルの上に置いてある食べ終わった即席麺のごみなんかを軽く片付ける。まさかほぼ初めてのこの自宅への客が、警察官になるとは思わなかった。定期的に部屋を片付けて見られる状況くらいにしておいてよかった。ところであの警察官は、竹井ユキオについて聞きたいと話していたが、一体彼がどうしたというのだろうか。

「お待たせしました。」そう言いながら扉を開いた。

中年の片方、柿沼と名乗った彼は、よく見ると私くらいの年齢で、ポマード頭をしている。隣にいたもう一人は五十代くらいだろうか、太い眉が特徴的だ。対して私は髪もぼさぼさで寝間着姿だ。いかにもさっきまで寝ていました、という具合ではないか。スーツ姿の彼らを見るとどんどんと恥ずかしくなってきた。

「汚いですが、中にどうぞ。」

「どうも、お邪魔します。」

二人を自宅にあげてテーブルの位置に座ってもらった。こういう時はお茶か何かを出さないといけないのだろうか。

「ここに来る前お電話差し上げたのですが、お気付きには?」

 柿沼さんが早々に口を開いた。電話なんか無いと思っていたが、スマートフォンを確認すると、朝の九時過ぎ頃に着信履歴があった。すっかり眠っていたようだ。その画面を柿沼さんに見せる。

「この電話番号ですか? すいません、気付いてなかったです。」

「あ、その番号です。何から何まで急で申し訳ありません。」

 彼は紳士的で礼儀が良かった。横にいる太眉の警官も、喋りはしないが不愛想という感じもせず、ベテランの雰囲気を出していた。

私は台所に話しながら向かい冷蔵庫にあった緑茶をコップ二つに注いで、テーブルに座る彼らに出した。

「それで、竹井さん、何かあったんですか?」

 昨日得た協力者がまさか警察の厄介になった、なんてことは竹井ユキオに限って無いだろうが、彼について話すことなんて私には思いつかない。私の問を聞いて柿沼さんが言いづらそうに話し始めた。

「実はですね、竹井さん、昨日お亡くなりになりました。」

 そう言う柿沼さんに冗談を言っている様子は無い。彼は私の目をしっかり見て続けた。

「昨日、講義を終えた竹井ユキオさんは大学内の研究室に入ってずっと出てこなかったそうです。深夜、見回りの方が見つけた時にはすでに亡くなっていました。…彼の死体は左の脇腹から太腿にかけて半円状に抉れていて、死因は失血死だったそうです。」

 柿沼さんの喋りは段々と熱を帯びていったが、横にいる年配の方の警官に喋り過ぎだ、と指摘を受けて、少し萎びてしまった。

「それで、ですね、その研究室には沢山の資料があったのですけれど、それに紛れて机から鈴木さんの名刺が見つかりまして。一昨日に竹井さんを訪問している様で、…そういった経緯で今日はお話を聞きに伺いました。改めて、急な訪問、申し訳ありません。」

いまいち、納得できないまま無理やり脳に内容を詰め込まれている感覚だ。もしくは寝起きで受けた歴史の授業の様に掴みどころがない。竹井ユキオが死んだ。体が抉れて。話す言葉が思いつかない。自分でもかなり混乱していることが分かる。

「鈴木さん。疑っているわけではありません。昨日何をしていたか聞かせてください。ゆっくりでいいです。」

 柿沼さんが手のひらサイズのメモ帳を取り出した。ああ、何かしゃべらないと。少し話を聞いていただけなのに口がやけに乾燥している。

「…ええっと。…昨日は、朝から仕事をしていました。…職場は柳町の方です。帰りは遅くて、二十二時は過ぎていたと思います。…それで、すぐ寝て、…お二人が来て、起きました。」

「それを証明することはできますか?」

 本当に警察はこんなことを聞くのだなと思ったが口に出すほどの余裕はなかった。

「…そうですね。…すぐには無理ですけど、会社の勤怠の打刻とか確認してもらえば。…車はドライブレコーダーがありました。それを確認していただければ…。」

 あまりうまく話せない。私の拙い喋りに、「はい、はい。」と相槌を打ってくれながらメモをしている柿沼さんの横の、寡黙な年配刑事の雰囲気が私は苦手だ。後ろめたいことは一つもないが、彼の太い眉の下から伸びる目線が、私を貫いているようにすら感じた。急に大きな声で、「お前がやったんだろ!」なんて言われたら私はきちんと否定できないと思う。これは冗談ではない。

「それとですね、竹井さんへの訪問についてなんですが、どんな要件だったのですか?」

 柿沼さんはメモ帳から目を離し、再び目線を挙げて私に質問を投げかけた。彼にとっては何気ない質問だったろうが、私にとってはそうではない。考える必要もなくなり、昨日の多忙と今日の驚きで薄れつつあった黒い本の恐怖について、思い出し語らなくてはいけない。特に隠す必要もないが、客観的に信用されない話であることも分かっている。だから、この話をすることは私にとって言い知れぬ重圧がある。

 なので、私は慎重に話し始めた。話初めには時間がかかって、不自然な間ができてしまった。竹井ユキオやテルフミさんに対して語っているので、人に話すのはもう二回目だ。それでも慎重に話した。柿沼さんは相変わらずの様子で相槌をしてくれながらメモを取っている。まだ名前も知らない年配の警官は、初めて興味深そうに私の話を聞いてくれた。

「…それでは、竹井さんは亡くなる直前に、その本について調査していた可能性があるということですか?」

「そうですね…。」

柿沼さんは私の回答を聞いてメモを閉じた。やはり、対して信頼されていない様子だ。確かに読書速度の低下や、不思議な化け物についてなんて警察には一切関係ない。しかし、隣でずっと黙っていた年配の警官が質問してきた。

「…その、…化け物、というのは、どんな風にスケッチされていましたか?」

 なんだかその質問をしている彼は少年のような顔をしていた。一見五十代程だがそんな顔ができるとは思わず、すっかり先ほどまで感じていた圧迫的な雰囲気を忘れてしまった。生粋の警察官っていうのは謎が深まるとわくわくするのだろうか。

 彼の期待に応えるために私は一枚の紙とペンを持ってきた。化け物の絵を再現しようとしたのだ。初見の衝撃のせいか、真っ白な紙を目の前にすると思い出す必要もなくすらすらと描くことができた。

太く長い足に、細い胴。太い首に犬のような小さい頭。とてつもなく長い牙に、黒く塗りつぶされた目。目。目。私が描いた絵は、黒い本に描いてあったものとほとんど変わりは無いだろう。

描き終わって見返すと、本当に自分が描いたものなのか疑うほどの嫌悪感だった。しかし、年配の警官はその絵を見て感激していた。満足そうに自分の太い眉を上げて、私が描いた四足歩行の化け物を鑑賞していた。

「ありがとうございます。この絵はいただいても?」

「もちろんです。」

 こんな風に喋るのだったら最初から会話に参加してほしかった。そう思うくらいには浮足立った様子だった。おそらく上司である彼が急に話し始めたせいか柿沼さんが恐る恐る口をはさむ。

「…その黒い本については、調査の完了次第こちらの住所に郵送する形でよろしかったですか。」

 どうやらあの黒い本は竹井ユキオの研究資料から、事件の証拠品に代わってしまったようだ。それに伴い、彼らが持ってきた用紙に簡単な個人情報を書いて渡した。

 そして彼らは名刺を置いて、駐車場でドライブレコーダーに入っているメモリを回収した。その後、私に礼を言って帰っていった。このアパートを借りてから初めて招いたお客さんの滞在時間は三十分程度だった。

 さっきまで人がいた形跡のあるテーブルを一人で片付けることは初めての経験だったが、うら寂しい気がした。彼らに出したお茶の入った二つのコップは両方飲み干されていた。外はやけに熱いのだから不思議ではない。

 部屋が急に静かになるとまた駄目な考え事をしてしまう。竹井ユキオが、もしも黒い本によってこんな理不尽に見舞われたとしたら。と、考えてしまう。体を抉るなんてどうやったらできるのか見当もつかない。もしかしたら記述にあった化け物に? なんて考えてしまうのは、やはりまだ疲れているからだ。充分な時間寝てはいたのだが、寝た気はしないもう少し眠っておこう。

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