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四

 翌日、半日休暇をもらって昼からアキフミ君が通う大学に来た。通っている大学は随分前に聞いた。三洲大学というカトリック系の大学だ。

 駅のすぐ近くの立地で、キャンパスも広い。かなりの伝統がある私立大学で、私も大学入試の際は滑り止めに受験したことを思い出した。

 講義を行う講義棟と研究を行う研究棟、図書館や事務、教授が在中している総合管理棟。どれも大きな建物だったが、カトリック系の大学特有の礼拝堂がなにより大きかった。私はそれを見上げ唖然とした。

 今は学生も昼休憩の時間なのか、多くの生徒達がキャンパスを歩いている。

 キャンパス近くのコンビニは学生達でごった返していた。

 そのコンビニの灰皿に屯っている男子学生が今回のサブターゲットだ。

 さっそく見つけた。三人組の大学生。一人は金髪で残り二人は黒髪だ。全員、煙草を吸っているが、金髪だけは紙巻煙草だった。

 気分を二十代に戻して煙草を取り出した。随分前に辞めた、銘柄はピース。この銘柄は先生が愛煙していた物だ。

 ソフトケースの内の一本を口に咥えて、両手をズボンの右ポケットと左ポケットに入れた。

 二、三秒の時間を置き、手を出して、三人組の金髪に話しかけた。

「すいません、火、借りてもいいですか?」

 そう言うと金髪は自分の左ポケットに手を突っ込んでフリント式ライターを手に取った。

「いいっすよ。」

 そう言って金髪がライターを渡してきたので、それを受け取り煙草に火を付けた。

「ありがとうございます。」

 ライターを返して煙草を吸った。咽せないように慎重に、まるで吸い慣れている人間の様に。

 煙草は随分前に辞めたし、久々に吸うとやはりあまり美味しくない。

 勿論、ライターを借りるために話しかけた訳ではない。少しの緊張を煙草で紛らわして口を開く。

「そういえば、吉永アキフミ君って知ってます? ここの学生なんだけど。」

 その三人は顔を見合わせて、しばらくした後、首を傾げた。

「すんません、多分聞いたことないっす。」

 金髪が言った。他二人の黒髪を見たが全員首を傾げたままだ。喫煙者同士のつながりにかけたがあっけなく駄目だった。

「そっか。それじゃあ、アリサさんは?」

 やはり三人ともだんまりだ。タバコミュニケーションと揶揄される喫煙所での会話は、初対面でのハードルを少し下げる。アキフミ君達の知り合いなら、二人とまた会えるかなと浅い考えだったが失敗した。彼ら以外に灰皿を囲む人はいなかったのでもうここに用はない。

 それから二口煙草を吸った後、灰皿に火種を押し潰して大学キャンパスの講義棟へ向かった。

 ここからはしらみつぶしだ。こうなるくらいなら、アキフミ君の連絡先を聞いておけばよかった。

 講義棟前の広間で暇そうな大学生を一人捕まえた。小太り眼鏡で、ずっとスマートフォンを見つめていたので違いない。と、思う。

 不審人物にならないように話かける。昔からこういった所の行動力は周りから評価されてきたし、自分も長所だと自負している。

「急でごめんなさいね、吉永アキフミ君ってここの学生なんだけど、知ってる?」

 やはりこの男子大学生も首を傾げてしまう。

「うーん、それじゃあアリサさんって知ってるかな?」

 なんとはなしに、アリサさんもここの学生なのではと思っていた。アキフミ君と同じくらいの年齢に見えたし、何より元は親密そうだったからだ。

 目の前の男子大学生の口角が上がった。

「アリサさんって学生課のアリサさんですかね? 美人で気さくでいい人ですよねえ。」

 どうやら二人目にして網にかかった様だ。

「その人の場所、教えてくれないかな?」

「いいですけども、目の前の総合管理棟に行けば直ぐにわかると思いますけど。」

 その男子大学生は左手で眼鏡を上げて、右手で総合管理棟を指差した。けどけどって、なんだかユニークな子だ。

「そっか。ありがとう。」

 男子大学生にお礼を言って私は直ぐに総合管理棟に向かった。

 総合管理棟に入ると、壁にそれぞれの課がフロアマップによってわかりやすく表されていた。

 学生課は一番奥の様だ。別に急いでいる訳ではないが少し早歩きになっている気がする。

 希薄な関係だが、知らぬ場所でもちょっとした顔見知りに会いたいという思いが自分にもあるのだろう。

 学生課はもうすぐ目の前だ、そう歩を進める。すると右斜め後ろから肩を叩かれた。

 振り返るとそこにはアリサさんが居た。

「何してるんですか? まるで不審者ですよ。」

 疑問の念を示す様なアリサさんの表情を見て、私の心は緊張を解いてしまった。

 アリサさんは私を学生課の奥の面談室の様な場所に招いた。面談室と言ってもパーテーションで区切られたところだが。

「昨日ぶりですね。アリサさん。」

「そうですね。鈴木さん。」

 ぎこちない雰囲気を感じた。ここは年長者としてきちんと状況を伝えなくてはと思った。

「アキフミ君を探してここに来たんだ。ここの学生に聞いたけれど、アキフミ君よりも先に君の名前が出たんだ。だからここに訪ねた。」

 アリサさんは顔に出やすいタイプの様だ。直ぐに緊張を解いて話してくれた。

「なるほど、そういうことだったんですね。」

 アリサさんはどうやらこの大学の職員で、学生のサポートなどを行う学生課に勤めている様だ。

 アキフミ君の話をするのが憚られるのも事実だ。彼女は私の目の前に唐突に現れて、アキフミ君を平手打ちした。

 そのインパクトは話すと薄まりはしたが、彼女とアキフミ君との間で未だにしこりがあるような気はする。

 しかし、私にあるアキフミ君への手がかりが彼女しかないのも事実だ。

「アキフミ君から連絡来たりしてないよね。」

 来ている訳ないと言いたげな顔でアリサさんは俯いてしまった。

 そうだよな、と思いながら私も自分の膝に目線を落とす。

 しかし、こんなことをしている間にもアキフミ君は何か危険な事をしているのではないだろうか。

 あの黒い本を見てしまったので、嫌でも頭をよぎる。

 彼は今にもあの化け物に、恐怖のどん底へと叩き落とされてしまっているのではないだろうか。

 そう考えると居ても立っても居られない。どんな手段を取ってもアキフミ君は助けてやりたい。少しだけだが同じ恐怖を共有しているからだ。

「それじゃあさ、アキフミ君が所属してる研究室とか、友達とか、そういうとこで心当たりは無い?」

 そういうとアリサさんは、うーんと口を尖らせて上を見つめた。

「アキ君はまだ二年生で、あの人歴史学部なんですけど、ゼミの開講が三年生からなんですよね。」

 手がかりやとっかかりが無いなと思っていると、アリサさんがそういえばと言って、何やら資料を持ってきた。

 どうやらその資料には、この大学で開講されている講義の時間と対象の学部、教室の場所などが記されている。

 それを見ながら彼女が口を開く。

「あと三十分くらいで大学全体の昼休みが終わるんですけど、それから歴史学部二年生の必修の講義があるんですよ。アキ君は勿論ですけどその友達もきっと受けていると思いますよ。」

 そういうことなら早速行こう。アキフミ君本人に話を聞けるならそれが一番だ。

「教室の場所、何処かな。」

 アリサさんの動きが固まる。

「行くんですか? 教室に。」

 私が頷くと彼女はため息を吐いて、困った様な顔をした。

「あのですね、本当に不審者になっちゃいますよ。うちの大学、講義棟は許可無しに外部の人入れないんですよ。」

「それはしょうがないな。困った。」

 先程までのアキフミ君探しによる熱が頭からじんわり引いていくのが分かる。

 気持ちが冷めた訳では無いが、さっきまでの自分がいかに気分で勢いづいていたのかが分かった。危うく警備員さんのお世話になる場所まで行くところだった。

 そんな私を見てか、そうだ、とアリサさんが席を立ち、ネックストラップを持ってきた。

「入館許可証を持ってくるので少し待っててください。首に掛けてたら基本的に何処にでも行ける様になりますよ。」

 まるで鶴の一声だ。

「ほんとに? 助かるよ。」

「まあ、私だってアキ君が何してるか気になるので。」

 心強い仲間ができた。大学のことはそこの大学職員に聞けば間違いない。餅は餅屋だ。

 アリサさんがおそらく自分の机である所に向かおうとしているので、そういえばと言ってもう一つ要件を伝えた。

 竹井ユキオという教授にアポイントメントを取ってほしいという要件だ。竹井ユキオは三州大学に所属している二人の民俗学教授の内の一人で、この地方の怪異研究に精通している。黒い本に記述があった化け物についての伝承を何か知らないか聞いてみようと思った。今回のメインターゲットである。

 何故二人いる内から一人、その竹井ユキオという人物なのかというと、それは彼の経歴にある。

 当県で民俗学を学ぶことができる大学は三校存在し、それぞれ教授の数は二、三人程度だ。しかし、当県出身の教授はその中でも一人だけで、それが三州大学の竹井ユキオである。

 なぜこんな絞り込みの仕方をしたかは単純で、古本屋吉永で見つかった本だからだ。文の中で共通する、山という記述はきっとこの辺りの山なのだろうと考えた。

 竹井ユキオについて調べると妖怪、怪異、精霊について、彼が執筆した論文や著書を見つけることができる。対象とするフィールドも当県やその隣県ばかりで、この怪異なのか異常生命体なのかも分からぬ化け物の相談にぴったりであると思った。

 私の様な素人が一人で調査を行うよりも、専門家に聞いて何らかのヒントを得た方が良いという考えだ。餅は餅屋だ。何度でも言おう。

 アリサさんには黒い本の内容を言うつもりは無いので、怪異や妖怪について聞きたいことがあると言っておいた。

 彼女は黒い本をパラパラ見たと言っていたが、この様子だと内容や読んだ時の時間感覚の歪みを知らないだろう。

 これ以上この黒い本を読む人間は居なくていい。アキフミ君の無事が確認できたら、本も燃やしてしまおう。

 アリサさんが机に置いてある固定電話機で二本程電話を済ませて戻ってきた。

「お待たせしました。アポ取れましたよ。十五時から講義があるけど、それまでならいつでも研究室に居るそうです。」

 そう言いながら彼女は置きっぱなしのネックストラップに入館許可証を挟んだ。

「ありがとう。何から何まで本当に助かるよ。」

 早速ネックストラップを首にかけて席を立ち、教室に向かおうと促した。アリサさんも乗り気になってくれている。

「教室は四〇五という、講義棟の四階の教室です。ご案内しますね。」

 そう言うと彼女はすたすたと歩いて私を先導してくれた。

「そういえば、まさかここの職員さんとは思わなかったよ。」

 ふと思い出したことを話す。てっきり大学生かと、と言いかけたが堪えた。もしも、何故? と聞かれたら、アキフミ君と仲が良かった様に見えたから、としか言えなくなってしまうからだ。

 二ヶ月程前に二人の関係は破綻した様に見えたが、若い子の人間関係は進展が早い。二ヶ月もあれば関係の改善も更なる悪化も可能であろう。

 事実、彼女はアキフミ君から黒い本を直接渡されたと言っていたので、つい最近会っているはずだ。しかし、今は連絡先が無い。

 勝手な推測だが妥当なところは、二人は恋人同士であった、と言ったところか。それであれば私の様な部外者は黙っておいたほうが良いだろう。若者の色恋に首を突っ込むおじさんにはなりたくない。

「実は今年の春までここの大学生だったんですよ。」

 アリサさんは前を歩きながらでも、喋る時は振り返って目を合わせる人のようだ。

「アキ君とは仲良くやってたと思ってました。」

 そんな彼女が振り返らずに前を向きながら話し始めるので、黙ってその話を聞くことにした。丁度気になっていたんだよ、とは言わなかった。

 総合管理棟を出て目の前の建物が講義棟らしく彼女はそこに向かっており、勿論私もその後ろをついて歩く。

「二人でよくいろんなところに遊びに行ったし、雨の日はお家で過ごしたりもしました。アキ君も私に甘えてきたりしてくれて、二人でいる時は何と言うか、…すごく幸せでした。」

 講義棟の中に入った。とても立派な建物で、学生も多い。目の前にエスカレーターがあり、学生達は皆列になって乗っていた。私達も列に加わり、目的の教室を目指してエスカレーターで昇る。

「三ヶ月くらい前、アキ君に私達の関係を聞いたんです。はっきりさせたいなって、自分なりに勇気出して。そしたらアキ君、君とはそういうのじゃないと思ってたって言ったんです。…どうやら私以外にも沢山他の女の人と関係があるらしくって。…私だけ本気になっちゃって馬鹿みたいですよね。」

 どうやらアキフミ君は所謂女の敵というやつだった。

 彼の端正な顔立ちを見ると不思議なことではないのかもしれない。私は彼が五歳程度の頃を店で見たことがあるが、まさかこう成長するとは思わなかった。

 四階に着いた。どの階も多くの学生で賑わっていたが、一見、四階の学生数は比較的少ない。

「だけど私、…多分まだ嫌いになれてないんですよ。アキ君のこと。…だからもう一回くらい引っ叩いておこうかなって。」

 アリサさんが笑顔で振り返った。一階から四階に昇っている間の、ほんの少しの時間だけなのに、久しぶりに顔を見た様な感覚があった。

 彼女は私が思っていたよりも強い女性で、それ以上にアキフミ君にとって都合の良い女性なのだと分かった。

 教室に向かい廊下を歩く彼女に引き続き付いていく。

「いいと思うよ。」

 無難に流しておこうと思ってこう言った。これ以上は聞く必要もないな、とも思った。

 私は彼女達とは一回り歳が離れている。これ以上二人の関係を聞いたら気持ち悪いなと思われてしまう。今回はアリサさんが急に話し始めたが、これを当たり前と思ってはいけない。会話にだって身の丈というものがある。それを見誤るとハラスメントに引っかかってしまう。

 それに今回はアキフミ君にこの黒い本の中身を聞き、登場する化け物について竹井ユキオという教授に聞くことだけが目的だ。二人の色恋話は、解決し本を燃やして、それでも時間があったらその時に聞こう。

 アリサさんが立ち止まった。目の前の教室の扉には四〇五と書いてある。一つ進んだ扉にも四〇五と書いてあるので、二教室分の大きさはありそうだ。かなり広そうだ。

「着きましたよ。ここにいるはずです。」

 扉越しに教室を覗く。四階は人が少ないと思っていたが、どうやら皆ここに来ているようだ。二百人程度だろうか、多くの学生が席に座って過ごしている。スマートフォンを眺めていたり、おにぎりやお弁当を食べていたり、友人と話しながらプリントにペンを走らせていたりなど様々だ。

 この中からアキフミ君を見つけるのはやはり難しいだろうということで、適当な学生に聞いてみようと考えた。アリサさんに話すとあっさり同意してくれた。

「なんだか探偵みたいですね私たち。それか不審者かも。」

 そうは言っているが、彼女の口角が少しだけ上がっているので多少楽しんでくれているのだろう。

 そう思っていると教室に入ろうとする女子学生がこちらに向かって来た。アリサさんもそれに気づいたようで、私をちらりと見てからその女子学生に声を掛けた。

「すいません、ちょっといいですか。」

ふと、私は何故今見られたのか気になった。ただ声を掛けますというアイコンタクトなら良いのだが、もしかしたら、私では成功率が低いのではと思われたのだろうか。確かに入館許可証を首に下げているが、三十を過ぎたおじさんに違いは無く、そんな人間が女子大学生に突然声を掛けたらその時点で事案になってしまうのではないだろうか。アリサさんはその心配をしてくれたのだろうか。おそらく男性が行くよりも、女性が行った方が良いと思ってのことだろうが、彼女は気が回りそうなので必要ないことまで考えてしまう。

どうやら無事に会話ができているみたいだ。アリサさんの横に立って不審者ではないことをアピールしておこう。

 この女子学生はアリサさんに話しかけられて少し戸惑っていた。しかし、アキフミ君の名前を出すとなるほどと言いそうな顔で友人を呼びに行った。

「吉永君と仲良い人連れてきます。ちょっと待っててください。」

 そう言って教室に入るので本人はまだ来ていないのかと思った。ここでの講義はあと十五分程度で始まってしまうが、男子大学生なんてものは時間丁度に来るものだ。私も学生時代はそうだったし、アキフミ君もそうなのだろう。

「早速当たりみたいですよ。」

そう言ってこちらを見るアリサさんは、もうすっかり人探しのプロの様な顔付きだ。

待っているとすぐに真っ赤な髪をした長身の男が、先程の女子大学生と一緒に教室から出て私達に向かってきた。

「ほんとにアリサさんじゃん。すげえ。…はじめまして。」

 その男子学生がアリサさんを見て驚いている。思い出した様な挨拶が初々しい。

「もしかして、アリサさんって有名人だったりする?」

 なんとなく浮かんだ疑問を口に出してみる。そうすると男子学生が食い気味に答えてくれた。

「有名も有名っすよ。去年のミス三洲で無双して、そのまま学生課で働いてるんで、二年生以上は殆ど知ってんじゃないですかね。」

「なるほどそうなんだ。」

 ミス三洲という響きは愉快だが、アリサさんの顔立ちを見て納得した。当の本人は誇らしげな反応をしている。

「それで、アキフミ遂にやっちゃったんすか。」

「そういう訳じゃなくて、とりあえず探してるんだよね。今日まだ大学来てない?」

 やっちゃったとは何を指すのか気になるがとりあえず否定しておいた。アキフミ君の名誉のためだ。それに黒い本の事も話す必要は無い。とにかく、今はアキフミ君を探しているという事だけを伝えよう。

「今日も何も、しばらくあいつ見てないですよ。」

 男子学生はそう言うと、横に居た女子学生に顔を向けた。女子学生もそれに頷いてしまう。

「それっていつから?」

「二ヶ月くらい前っすね。そこら辺から電話も既読も一切付かないですね。」

彼が斜め上を見て思い出しているような顔でそう言う。

なんとなく、心のどこかでそんな気がしていた。理由は無い。本当になんとなくだ。

二ヶ月前というと黒い本を店で見つけた時に重なる。やはりアキフミ君は何かしている。

この黒い本には一体何が書かれているのか。手元にはあるのにもう一度中身を見ようとは思えない。アキフミ君は僕が店に来ることを自分の予定のように知っていた。絶対に何かがある。しかし読むことが怖い。

昨日はお店までお休みにして彼は何かをやっている。そういえば、そのお店はどうなっているのだろう。実際あそこは彼の自宅でもあるようだが、今はアキフミ君の祖父である店主一人で店を切り盛りしているのだろうか。

「もうそろそろ行かないとですよ。」

アリサさんに言われてはっとした。どうやらもうすぐ昼休み明けの講義が始まる時間のようだ。もう少し聞きたいことがあった気がするが、学生の学びの場を邪魔するわけにはいかない。

「それじゃあ、お話ありがとうね。」

 学生二人に礼を言って帰ろうとすると、赤髪の学生が敬礼のような動作をした。

「お疲れ様です! 刑事さん。頑張って下さい!」

 どうやらとんでもない勘違いをされてしまっているらしい。何だか恥ずかしくなってきたので、急いで下りのエスカレーターを探す。ふと自分が黒のスーツを着ていることを思い出した。

下りのエスカレーターに乗るとアリサさんはため息を漏らした。

「何処行っちゃったんですかね。アキ君。…あの黒い本、ちゃんと見てなかったですけどやっぱり何か書いてあるんじゃないですか。…よかったら、見せてください。」

 少し、ぎくりとした。私だってきちんと中身を見ている訳ではない。それでも、駄目だ、と返事してしまった。この黒い本に対して、漠然とした恐怖がある。そして何より、この本の中身を他の誰かに知られない方が良いと思ったのだ。アリサさんは残念そうな返事をした。彼女も薄々黒い本が原因であると気付きつつあるのだろうか。

 エスカレーターで一階まで戻ってきた。講義の始まりを伝えるためのチャイムが放送された。

「それでは私もそろそろ戻りますね。…それと、竹井教授は研究棟の六階に部屋を持ってるんですけど、扉に名前が書いてあるので行ってみたら分かると思います。」

 そう言ってアリサさんは学生課がある総合管理棟に歩き始めた。

 竹井ユキオに話を聞いて、その後にでも古本屋に向かおう。それでも今日一日何も手掛かりが得られなければ、黒い本を読み進める覚悟をしよう。

 研究棟は全体的に白い内装だった。上階にはエレベーターか階段で行くようだ。六階まで行くならエレベーターだろうと、上矢印ボタンを押した。

 エレベーターの中は新車の様なにおいがした。六階に着き扉が開くと、まるで病院かと思わせる場所だった。廊下は二本有って、両側に扉がついている。竹井ユキオ教授の部屋を探すには少し手間取りそうだと思ったが、案外すんなり見つかった。

 扉には竹井ユキオ、と書いているので間違いないが、私は少し躊躇していた。幼い時から職員室等は苦手で、入るのには時間がかかったが、今もその癖は健在の様だ。私は何も悪いことはしていないし、アポイントメントも取っているのだから、この扉をたたくことはとても自然であると、自分に言い聞かせながら扉に向き直した。右手を猫の手のようにすこし丸めて、中指の第二関節で三回ノックすると、こんこんこん、と小気味良い音が鳴った。

「どうぞ。」

 想像よりも若そうな男の声が聞こえた。全く重くない扉だが、ゆっくりと押した。

「失礼します。先程アポイントメントした鈴木と言います。」

 何だか久しぶりに凄く緊張している気がする。民俗学の教授というから勝手に還暦は過ぎた人物だと想像していたが、どうやら四十代程に見える。

 逆に、部屋の中身は予想通りであった。対して広くはない部屋にある、壁一面の本棚に収まりきらない資料。床にまでとはいかないが、置く予定がなかったであろう机の上にも積みあがっている。私も大学生時代に大学教授の研究室に何度か入る機会があったが、それとあまり変わらない。違う点が一つあるとするなら、机に積まれた資料の横に年季の入った手帳の様な物が数点置いてあることだ。これは民俗学を研究する人物特有のものであろう。

「学生課から聞いていますよ。どうぞ、座って下さい。」

 彼は学生との面談用のためのものか、自分が座っているものの前に置いてある椅子に私を案内した。

 竹井ユキオという男についても想像との違いは若いというだけであって、他に大したことは無さそうだった。民俗学を学んでいるからといって、その研究者が怪異に似た雰囲気を持つ事は無い。ハキハキと喋り、短髪で、雰囲気も良い。爪は均等に整えられ、着ているスーツの丈はきちんと体に合っている。教授というとちょっとした変人を想像する人もいるが、案外殆どがそうでもない。つまり、信頼に足る人物である、と私は思った。

 私は通勤用のバッグの奥の奥に入れていた黒い本を引っ張って取り出した。

「急な訪問で恐縮ですが、こちらの本に記述がある化け物についてお聞きしたいのです。」

 彼は眉をひそめた。いきなりな申し出だし、いかにも信用されなさそうな事だとは分かっている。

 予め、あの化け物の絵が描かれているところに付箋を貼っておいたのですぐに見せることができた。長く太い手足、犬を思わせる頭に、アンバランスな牙。そして塗りつぶされた目元。

そのページを見せながら、事の経緯を話し始めた。古本屋吉永で偶然黒い本を見つけた事。二ヶ月後の昨日、それを持っていた店員で、且つここの大学の学生が人伝で私にこの本を渡してきた事。この本を読んでいる間、体感時間がおかしいということ。そして今日、どうやら二ヶ月間その学生が音信不通であることが分かったという事。

 全てを話している間、竹井ユキオは一点を見つめていた。開かれた本の下の方、あの化け物の絵が描かれていた辺りを、惚けたように見つめていた。はっとするように彼はこちらに向き直った。

「中々不思議な体躯の怪異です。…このような四足歩行で、何より足より長い牙を持つ怪異なんてものは…始めて見ました。」

 彼にもこの恐ろしさが伝わったのだろうか。私は経歴や容姿から彼をなんとなく信頼しているが、彼は私の事を信頼できるだろうか。唐突にやってきて妙な本を読ませ、妙な話をした私を。竹井ユキオは、今も目の前で開かれている本を見ながら口を開いた。

「民俗学というのはそもそも、化け物について研究する学問ではないんですよ。」

 もちろんそれは知っているが、やはり、駄目かと思った。急に見せられたこんな本の記述を、すぐに信じられるはずない。私だって、何故ここまでこの本の中身を疑わないのか自分で説明できない。

 しょうがないし帰ろうかと思った。何処にでもいるような、伝承の怪異ではない事がわかった。それだけで十分だ、と何故か少しだけ焦っている自分を、なんとか納得させようとしていたが、私の「帰る」よりも、彼の「しかし」の方が早かった。

「しかし、…この本が古い物であって、当時の生活者達の言葉が書かれているようなら、それは民俗学的に価値がある物です。…それに最近少し時間ができるようになりまして。一週間程こちらをお借りしてもよろしいでしょうか。」

 私は感激して、彼に直ぐにお願いした。電話番号とメールアドレスを私の名刺の裏側に書いてそれを渡した。

 心の広さなのか、学者としての柔軟さなのか、私には分からないが、とにかく彼には世話になる。こんな事でも協力者を得られるというのは心強い物だ。

 彼には何卒お願いしますと伝えて研究室を後にした。今日は中々収穫がある一日だったと思う。

 なんだかすっかり探偵気分で浮かれている自覚がある。それでもアキフミ君が音信不通になる原因を突き止めたいという気持ちは変わらない。あの商店街からまたお気に入りの店が無くなってしまうのは、私にとってのアイデンティティの喪失で、それは可能な限り防ぐべきだと感じている。

 三州大学を後にし、商店街の方に車を走らせた。古本屋吉永を経由して、店が閉まっていたらそのまま家に帰ろうと思っていた。案外アキフミ君とすんなり会えるかもしれないという薄い望みもあった。

 駐車場に車を駐めて、商店街を歩いていく。相変わらずのシャッター街だ。

 古本屋吉永が見えるところまで来ると、店前のベンチに老齢の男女二人が腰かけて座っているのが見えた。七、八十代に見える。女性の方は高級フレンチのディナーに行くような立派な服であったが、やけに細い煙草を吸っていた。男性の方は、おそらくここの店主、つまり、アキフミ君の祖父に当たる吉永テルフミさんだ。

 近くまで歩くとあちらも私に気付いた様で、二人とも口を縦に開けて手を振ってくれた。店主であるテルフミさんとは二十年は付き合いがあるが、隣の老婦人は始めて見る。

「ご無沙汰しています。」

 ベンチに腰掛けている二人のちょうど真ん中辺りに目線を向けて話した。老婦人が目の前の灰皿に煙草を押し付け、煙を吐きながら喋り始めた。

「どうも初めまして。三丁目の鈴木さんですよね? お母様はお元気かしら。」

「ええ、もう引っ越してしばらく帰れていませんが、変わらず元気だと思います。」

 この商店街のようなコミュニティでは、こんな風に知らない誰かに一方的に知られているというのは不自然ではない。と言っても、大学を卒業し社会人になった頃にはこんなことも減ったので、なんだか少し懐かしい気もする。

 それは良かった、と言って、老婦人は横に置いていたポーチから煙草を取り出して火をつけた。ケントの一ミリのメンソールだ。

 店の扉は開きっぱなしだが、覗いてみてもお客さんは居ない。恐らく今唯一のお客さんであるこの老婦人と、テルフミさんは世間話でもしていたのだろう。そんな中でアキフミ君の話を始めるのは少しばつが悪いが、私もこの世間話に混ざってしまったら帰る時間が遅くなってしまう。それに駐車料金もただではない。申し訳ないが雰囲気を壊すことを覚悟で本題を話そう。

「アキフミ君の事なんですけどね。個人的に探してて。」

 そう言って事の経緯を話し始めた。先程三州大学で竹井ユキオに話したように。テルフミさんは口を挟まずに私の話を聞いてくれた。時にはうなずきもしてくれた。

「アキフミか。」

 テルフミさんがゆっくりと話し始めた。今はおおよそ七十代だろうか。しかし、声がやけにかすれている。それに喋りもゆっくりで長く、中身は時間に対して薄い話だった。お湯を足したぬるいラーメンみたいな話だった。それでも彼は、私に対して誠実に答えてくれた。体感は長い時間だったが、私も、横にいる老婦人も、割り込むことはせず、ただ、黙って聞いていた。

 まず、テルフミさん曰く、アキフミ君は毎日昼頃にこの店の二階部分にある自室に帰ってきているらしい。現在もいるようだ。何度も顔を合わせているが、特に変わった様子はないらしい。店番をする頻度はかなり落ちたが、それでも一度もしなかった週は無かったと言う。また、アキフミ君はほぼ毎晩、十九時頃になると何処かに出かけてしまうらしい。

それと、黒い本についてはよく知らない様子だった。古本屋としての買い取りでは、買い取る本に混ざった、客の手帳等の私物や値段のつかない本等は、持ち主である客の了承の後、古紙回収に出してしまう。だからこういった事は、何らかの珍しいミスだと言っていた。もしくは、知らない内に客の誰かが自分たちの目を盗んで本棚の奥に私物を隠した可能性もある、とも彼は言っていた。

かいつまむとこんな内容だったが、実際はもっと脱線が酷く、聞き終わるころには一時間弱が経過していた。ただ、それでもアキフミ君の無事が確認できたし、少しすっきりした気分だ。黒い本の謎や、アキフミ君が夜中外出して何をしているかは、話を聞いても見当はつかないが、それでも気持ちは晴れている。

そのまま一冊、テルフミさんお勧めの、三百円程度で買える小説を購入した。このまま車で家に帰り、本でも読んでぐっすり寝ようと思ったからだ。その内容が面白かったら、来週末に先生に話すことが一つ増やせるなとも思った。先生は昔からそういう話が好きだった。先生に勉強を教わっていた頃も、ただ遊んでいた頃も、私と先生は最近読んだ本の話をよくしていた。思えば最近読書の習慣が抜け落ちていたので、いい機会だ。

 テルフミさんと老婦人に挨拶して帰宅した。せっかくの半休を取り戻そうとしている。中々に遠回りをした気がしたが、それでも最後に良い話が聞けた。すっかりこの探偵ごっこにも満足できた。

それから二日後、警察が私の家にきた。竹井ユキオが死亡した状態で見つかり、死体があった部屋の机には、私の名刺と開かれた黒い本があったらしい。

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