三
古本屋吉永で掘り出し物探しをしてから、つまり、アキフミ君が唐突に現れた女の子に頬を叩かれてから二ヶ月後、私はまた休暇を利用して店を訪ねた。
気づけばすっかり夏で、特に昼間は暑さと湿気ですぐに汗が吹き出す。お盆手前のこの時期は、夏休みの期間中の子供達とよくすれ違う。
この暑さの中で、汗でぐしょぐしょになりながら自転車を漕いでいる子達を見ると、こちらまで暑くなる気がする。あんな元気はもう私には無いな。
古本屋前のベンチが見える位置まで来ると、一人で座っている若い女性がいた。目の前の灰皿に用事があるわけでもなさそうで、ただ足を組んでスマートフォンを見つめていた。
黒く短い髪と対照的な白い肌が印象的な女性だった。こんなに暑いのに汗ひとつかいていない。
女性が顔を上げてこちらを見ると、ハッとして唐突に立ち上がり、私に頭を下げてきた。
「この前は申し訳ありませんでした!」
改めて見ると彼女は、二ヶ月前にここでアキフミ君の左頬を叩き上げ、終始一言も発さずに帰ったあの子ではないか。髪が短くなっていて気が付かなかった。
「あの時の子だよね? 俺に謝る必要は無いよ。」
急な謝罪に少したじろいだ。
「目の前で人ぶって黙って帰っちゃったんで。きっと困っただろうなって思って。」
そう言いながら彼女は、緊張した顔で斜め下を見て口を尖らせている。普段から人をぶっている訳ではなさそうな雰囲気だ。
「まあね。何があったかは聞かないけどさ、色々、程々にね。」
こんなふんわりとした事を言うために歳をとった訳ではないが、こんなことしか言えなかった。それに正直、彼女とアキフミ君の関係を聞きたい。ただ、そこまで足を踏み入れるのは、あまりに配慮に欠けると自制した。
「ありがとうございます。」
彼女の表情が緩んだように見えた。
「あとそれと、アキ君からなんですけど。今日は用事があってお店はやってないって言ってました。」
アキ君とはきっとアキフミ君の事だろう。よく見ると確かに店の入り口には、本日閉店の字が書かれた紙が貼ってあった。
「そうだったの。…じゃあ、君はここで何してたの?」
「あ、私アリサって言います。あの、そのこと伝えるために待ってました。それと、これ、アキ君からです。」
そういうと彼女は、座っていたベンチに置いてあった黒い本を持ってきて、私に差し出した。それには覚えがあった。二ヶ月前にここで見つけた日記のようだ。
「アキフミ君は俺が来る事知ってたの? …それとこれは。」
事態が飲み込めなかった。
「はい? 今日の昼頃この時間に来るってアキ君が…。てっきり約束してたものかと…。」
そんな約束は勿論していない。今日は商店街での買い物前に、なんとなく寄っただけだ。
「…あとこれは鈴木さんが持ってた方いいらしいですよ。」
なんのことだかわからなかった。アキフミ君が未来予知して、人伝で私に日記を渡してきたみたいだ。急に名前を呼ばれて驚いたのもあるが頭が真っ白だ。アキフミ君が教えたのだろうか。
「それはなんでなのかな? 理由は聞いた?」
そう言いながら彼女から日記を受け取った。変わらず黒い表紙は、昼間の日光に照らさられて焦げてしまったようだった。
「アキ君は、読めばわかるとしか。私もパラパラ読んではみたんですが、いろんな人の日記? みたいな感じでよくわかんなくて…。それに、それを受け取ったのは一昨日だったんですが、あんまり話した訳じゃなくて…。すいません。」
彼女は申し訳なさそうに話す。別に謝らなくて良いのだが。
「アキフミ君の連絡先とか知らない? ちょっと俺にもよくわかんなそうだし。」
「あ、今はちょっと持ってなくて。すいません。」
今は、とはどういうことだろうか。やっぱり気になってしまう。しかし今はそれどころではない気がする。
「…そっか、一度帰って目を通してみるよ。」
色々腑に落ちない事ばかりだが、一度落ち着いて考えようと思った。
来た道を戻り、駐車場に駐めていた車のエンジンをかけて自宅に戻る。
暑さで喉が渇き、到着後すぐ冷蔵庫からペットボトルに入った飲みかけの冷えた水を取った。ペットボトルも凹ます勢いで水を飲み干し、もう一本と思ったところ、すっかり空いている冷蔵庫を見て、買い物を忘れた事を思い出した。
はあ、とため息が出たところで日記が目に入る。まだ昼間を過ぎた頃だし、買い物はまた後でにしよう。
そう思って、日記を開いた。
「日っきをつけるのははじめてだし何を書いたらいいのかむずかしいので、一日で何をべんきょうしたかと何してあそんだかを書いていく。今日は雨で学こうでびしょびしょ。算すうはむずかしいけどできたらたのしい。けんじとたかとだい二公えんで雨やどり。六月十二日」
「六月十三日。サッカーのむずかしさ。公えんの近くの山は広くてたのしい。ママのカレーはおいしい。」
「日記を忘れてた。二日書いてない。でも書くことないからしょうがない。今日のきゅう食はあげパンだった。六月十六日」
「けんじとはじめとたかと一っしょにひみつき地を作った。だい一公えんのよこにある山をのぼって、ちょっとはじにずれた所。ばれないようにわなを作ったらけんじがひっかかった。明日はひみつき地を広くする。六月二十一日」
「六月二十二日。今日もひみつき地に行った。雨も風もなかったのにひみつき地がぐちゃぐちゃになってた。だれかにやられたのかな。少しずつひろくなってきた。」
「六月二十三日。ひみつき地でカードした。はじめはつよい。今日きゅう食で食べたスープがおいしかった。運どう会のれん習。リレーのせん手にえらばれた!」
「六月二十四日。ひみつき地におじさんが来た。しゃべりづらそうな口してた。のら犬が増えてきたから気をつけろって言ってた。おかしとコーラかってくれた。」
「もうひみつき地には行けない。犬がいた。大きい犬だった。ブランコくらいのたかさがあって、目があった。けんじとはじめとたかしとバラバラになった。六月二十八日」
「六月二十九日。学こうでは犬の話をたくさんした。みんなしんじてくれないけど。たかしもけんじもはじめもこわがってる。先生もそんな大きい犬はいないって言ってた。今も見られているような気がする。あの犬に。くるしい。」
「アルバイトが終わると帰り道全てが誘惑と化す。きっとこの街の夜が私を甘やかしにきている。」
文章が変わった。先ほどまで幼い子供の文字だったのが、これは女性が書いたような丸みのある文字に見える。内容も日記から詩のようなものに変化した。
「体の重さや体積が増えるというのはネガティブな事ではない。地球上にある有限の内の少しを体内に格納しているだけである。」
「化け物に出会った時人は恐怖するのだろう。それに似た体験をした私は、その後毎日許しを乞うようになった。」
「化け物というのはただの我々のエゴである。彼はただその場にいて、自分のありのままであるだけなのだ。」
「彼を崇める集団は彼を神と呼んでいる。彼を恐れる人々は彼を化け物と呼んでいる。私は彼に許されるために彼を探した。」
「彼の目を見た時私の身体は固まった。蛇に睨まれた蛙のように。息すらも許可を貰わなくてはできない程の緊張であった。」
「私は彼に全てを捧げると誓った。同じ志を持つ者達の集団に参加し彼を知り彼に近づこうと思う。灯りに向かう虫のように。」
黒い日記から黒い詩集となったこの本は、どうやら化け物について書かれた物らしい。
ここに書かれた化け物が、一体どんな存在なのかは見当がつかない。
確かアリサと言ったあの子は、この本をいろんな人の日記と言っていた。きっとこの先も化け物と出会った人々の記述が続くのだろう。
私の中に潜む好奇心が、反発する手を制しページを捲った。
「頭が回らずこの文章を書く。日記など書いたことのない私からするとノートに文を書くなど学生振りで懐かしく感じている。
そんなことはどうでもいいのだ。
今日出会ったあの怪物に対する私の記憶が消える前に残しておきたい。この体験を。
もうすでに夢のような不確かさを感じている。
ただの山だと思っていた。子供の時から遊び場だった。まさかあんな怪物がいるとは。
今となってはもう昼なのか夜なのか、なぜあの山に立ち入ったのかも覚えていない。
あの怪物が私の頭に恐怖のみを置いてどこか記憶の隅に隠れようとしている。
怪物は私をまだ見ている。私に対して憤怒を浮かべている。対峙してそう感じた。
どこかで見ている。この私を。
自室に引きこもり、震える手でペンを持つ私を見ている。
体を食われても仕方がない。記憶を消されても仕方がない。きっと私は怪物に目を付けられた。
ああ、目が。心臓を見ている。私の心臓が強く波打つ。
身体の端に痺れを感じる。
吐き気と頭痛が私を襲う。
誰にも信じられぬこの体験を、忘れぬ前に書き残したいのだ。
しかしもう何も思い出せない。あの怪物が。私を。」
やけに荒い字で書かれている。文の下には生き物のスケッチが描かれていた。
四足歩行の生き物だ。足はやけに太く、長い。それに付随する胴体は足よりも細く、太い首を支えている。頭は小さく、形は犬のそれに近い。しかし、口には鋭くて足よりも長い牙を付けている。目は何度も黒く塗り潰されており、紙にペンの跡がぎっしりとついている。
不気味なスケールの身体を持つこれは、私の知る動物では例えようがなかった。
見ているだけで気分が悪くなる絵だ。不安を煽るよう書かれたものに見える。
きっとこの生き物が、この本に記述した三人に恐怖を植え付けたのだ。
そう確信できるほどの存在感を、ページの隅にある簡単なスケッチで感じ取った。じわりと背中に汗が浮くのを感じる。熱さに由来するものではない。なぜなら私は寒さすらも感じていたからだ。
この本は何処の誰の創作物なのだろうか。これら三人の筆跡を見ると、それぞれに共通点が一切無く、中々に現実味があってより一層恐怖を掻き立てる。昔から怖がりなのだから勘弁願いたい。
スケッチと文章を交互に眺めていると、すぐ横に置いていたスマートフォンの着信音が鳴った。静かな部屋の中、唐突な音と振動に少し驚いたが、スマートフォンの画面を見て更に驚いた。
画面は「先生」の二文字を表示していた。私の中で先生と呼ぶ人間は一人しかいない。
おおよそ二十年振りの着信だ。緊張を感じた。
どんな用件なのか、どんな心持ちで電話をすればよいのか、さっぱり分からず固まってしまった。
気付けば着信音が終わろうとしている。
上の空になっていた気持ちを引き戻した。何事もなかったように、二十年前と同じ声の張り方で、昔みたいに話してやろうと思った。
だから、応答ボタンを押し、通話時間が〇秒から一秒になったのを確認して、私は普段より少しだけ大きな声で話し始めた。
「もしもし。お久しぶりですね。」
上手く声を出せた。自然な発声だし、自然な内容だとも思った。
「おう。久しぶりだな。今大丈夫か?」
先生の印象もあの時と変わらなかった。ハキハキとした喋り方、声のトーンはほんの少しだけ高めで聞き取りやすい。
「大丈夫ですよ。どうしました?」
気を強く持った。どんな話がされてもいいように。
「来週末な、そっち帰ろうと思って。だから暇してたら会えねえかなって。」
「え? ほんとですか?」
「ああ。空いてるか?」
手帳を開いて予定が空いていることを確認する。手帳で予定を管理する習慣も、先生から教わったものだ。
「来週末なら土日両方空いてますよ。」
「お。そうか。じゃあ土曜日に十四時だな。」
先生は予定を決めるのが早い。こういうところも変わってないのかと安心した。
「わかりました。楽しみにしときます。」
「おう。急でわりいな。」
「いえ全然。」
先生は何においても急な人だった。懐かしいような気がして、先程までの緊張が無くなり、落ち着きと安心を感じた。
「じゃあ、よろしくな。」
気が付いたら電話は既に切れていた。相変わらず嵐のような人だ。
集合場所の指定を忘れていたが、それは明日にでも連絡しよう。
先生のおかげでリフレッシュができた。暗くなったスマートフォンをもう一度明るくする。表示された時刻は二十時を過ぎていて、気付かぬうちに部屋は暗くなっていた。
私はまた慄いてしまった。これほどこの黒い本を読んでいた実感は無い。実際に読んだ頁数は大したことはなかった。
閉じた本を一瞥し、なんとなく、この黒い本は何処か誰かの創作物ではないと思ってしまった。一切の根拠は無いが、体の倦怠感や私の心に植え付けられた恐怖が、この黒い本に書いてあったほんの数ページを真実だと語っている感覚があった。
たらりと汗が脇の下を落ちていく。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
空気をゆっくりと鼻から吸って口から吐く。一連の動作を三回程繰り返して、ようやくエアコンが冷えた空気を吐き出す音が耳に入った。
緊張からの緩和、そしてその後の欠落感。その実感を伴いため息を吐くと、私の胃がいい加減にしろと言わんばかりに唸り声を上げた。
そういえば今日は朝から何も食べていないなと思って、喉を潤しがてら冷蔵庫を開く。
昼間と変わらぬ空き具合の中身に私ははっとした。
そういえば買い物をするはずだったなと思って、水を取り、冷蔵庫を閉めた。
またため息を吐き、電子ケトルに水道水を入れ、棚から取った即席麺の封を開ける。
昼過ぎから夜にかけての時間を使って、私は最初の数頁しか読むことができなかった。
この黒い本を読むにはどれ程の時間が必要なのか全く見当がつかない。
今回は運が良かったと思う。先生の電話に気づかなかったらと考えると、私は怖くてたまらなくなった。この体験が、この本はただの創作なんかではないと私の座りっぱなしで疲れた体に言い聞かせた。
こんなのは普通じゃない。私の平穏を壊すような異分子だ。この本のせいで時間と心の余裕を失った。
しかし、内容が気になるのも事実だ。アキフミ君は私に、これは私が持っていた方がいいと言って、アリサさんにわざわざこれを持たせた。
そこまでする程のことがこの本には書いてあるのだろうか。
正直なところ、アキフミ君とは特別親しいとかそういう関係ではないと思っている。ただ、彼が私にこの黒い本を託して、今何か行動を起こしているとするならば、託された想いを汲み取り、そして応えたいとも思う。
電子ケトルからカチリと軽い音が鳴った。どうやら湯が沸いたようだ。




