第9話 法律の壁と定時後の焼肉
午後6時30分。新宿駅東口から少し歩いた裏路地にある、老舗の高級焼肉店。
煙の立ち込める店内の奥、半個室になった落ち着いたテーブル席で、安藤まひるはウーロン茶のグラスを両手で握りしめながら、目の前の光景に胸をときめかせていた。
今日の彼女は、いつもの動きやすいオフィスカジュアルではなく、退勤後に区役所のトイレでこっそり着替えた淡いピンク色のブラウスとフレアスカートという、明らかに気合いを入れた私服姿だ。少しだけメイクも直し、お気に入りの香水もワンプッシュだけつけている。
まひるにとって、これは紛れもなく高木との「初デート」だった。
先日のダンジョン潜入調査の成功を労うという名目で高木から食事に誘われた時、まひるは心の中で小さなガッツポーズをしたものだ。
しかし、肝心の高木はというと、スーツの上着を脱いでワイシャツの袖を捲り上げ、ひたすらに真剣な眼差しで、ジュージューと食欲をそそる音を立てている網の上の牛タンを見つめていた。
「いいかい、安藤さん。牛タンの焼き加減というのは、法律の解釈と同じで非常に繊細なんだよ」
高木はトングを器用に操りながら、静かなトーンで語り始めた。
「表面に肉汁がじんわりと浮き上がってきた瞬間、それが裏返す唯一のタイミングだ。早すぎても旨味が逃げるし、遅すぎれば硬くなる。行政の手続きも同じでね、相手の出方を見極めて、最適なタイミングで書面を突きつける必要がある」
「は、はあ……なるほど……?」
まひるは曖昧な相槌を打ちながら、せっかくのデートなのに話題が肉の焼き方と行政手続きであることに少しだけ肩を落とした。だが、トングを握る高木の太い腕の筋肉の動きや、真剣な横顔を見ているだけで、不思議と心が満たされていくのも事実だった。
「よし、今だ。レモンを軽く絞って、冷めないうちに食べて」
高木が絶妙なタイミングで焼き上げた牛タンを、まひるの小皿に丁寧に載せる。
「ありがとうございます! いただきます!」
まひるが一口食べると、口の中に豊かな旨味が広がった。「すっごく美味しいです!」と顔をほころばせると、高木も満足そうに頷いた。
「君が危険な潜入調査を成功させてくれたおかげで、今日、無事に大河内への国税の強制調査が執行されているはずだ。これはささやかだけど、私からの慰労だから、遠慮せずにどんどん食べてほしい」
その言葉に、まひるは少しだけ胸がチクッとした。高木にとってはやはり、これは単なる「慰労会」であり、仕事の延長なのだ。
「主任……あの、大河内のガサ入れ、今頃どうなってるんでしょうか。あいつ、大人しく差し押さえに応じるようなタマじゃないですよね。逆上して暴れたりしないでしょうか」
まひるがふと不安を口にした時、テーブルの上に置いてあった高木のスマートフォンが短く振動した。
画面に表示されたのは、まさに今、現場で指揮を執っている宮本マリからのメッセージだった。
『対象がかなり不安定よ。最悪、実力行使に出るかもしれない。念のため近くで待機しててくれる?』
現場の張り詰めた空気が、短い文面からひしひしと伝わってくる。大河内が暴走すれば、いかに訓練された国税の捜査官とはいえ無傷では済まないかもしれない。
高木は即座に立ち上がり、近くを通りかかった店員に声を掛けた。
「すまない、お会計を。それと、今焼いている肉はそのままにしておいてほしい。30分以内に必ず戻るから」
高木は財布から現金を出しながら、まひるを振り返った。
「安藤さん。どうやら、彼にはまだ少しだけ『指導』が足りないようだ。一緒に行ってもらえるかな」
「はいっ!」
まひるはデートの中断を惜しむ間もなく、すぐに立ち上がって高木の後を追った。
★★★★★★★★★★★
高木たちが夜の新宿を足早に駆け抜け、大河内のマンションに到着した頃。
自宅兼スタジオの広大なリビングは、異様な緊張感に包まれていた。
「来るな! 近づいたら刺すぞ!!」
大河内は血走った目で周囲の捜査官たちを睨みつけながら、手にした鋭利なペーパーナイフを滅茶苦茶に振り回していた。
すべてを奪われるという絶望と恐怖が、彼の理性を完全に焼き切っていた。自身のステータスであった魔剣さえも、容赦なく段ボールに詰められていく。
それらを力ずくでも取り返さなければ、自分の人生は終わる。その強迫観念だけが、彼を突き動かしていた。
「落ち着きなさい、大河内。これ以上抵抗すれば、あなたの立場はさらに悪くなるわよ」
宮本マリは一歩も引かず、冷徹な声で警告した。彼女の後ろでは、突き飛ばされた捜査官が苦悶の表情で身構えている。
元Bランク冒険者である大河内が本気で暴れれば、一般の捜査官数人がかりでも押さえ込むのは難しい。ましてや刃物を持っているとなれば、一歩間違えれば大惨事になる。
「うるせえ! 知るか! 俺の金だ! 全部俺の金なんだよ! お前らみたいな寄生虫どもに奪われてたまるか!」
大河内は叫びながら、さらにマリへと一歩踏み出した。ペーパーナイフの切っ先が、マリの胸元を狙っている。
周囲の捜査官たちが青ざめ、マリを庇おうと動いたその瞬間だった。
開け放たれた玄関からリビングへと続く廊下から、重く、静かな足音が響いた。
「……そこまでにしておいた方がいいよ」
マイルドだが、腹の底まで響くような低音。
全員の視線が入り口に集中する。そこには、スーツ姿の高木と、その背後から顔を覗かせるまひるが立っていた。
高木は一切の慌てた素振りを見せず、ゆっくりと、だが確かな足取りでリビングの中央へと歩みを進めた。彼が足を踏み出すたびに、部屋の空気が急速に冷え込み、重みを増していくように感じられる。
「テ、テメェ……区役所のデカブツ……!」
大河内は高木の顔を見るなり、憎悪と恐怖の入り混じった声を上げた。自分の逃走経路を書類の不備で塞ぎ、この絶望的な包囲網へと追い込んだ張本人だ。
「なんでテメェがここにいんだよ! ふざけんな、全員グルになりやがって!」
「ちょうど近くで食事をしていてね。宮本さんから連絡をもらったんだ」
高木は大河内の剣幕をそよ風のように受け流し、マリの前にすっと立ち塞がるように位置を取った。見上げるような巨体と、スーツ越しにもわかる分厚い筋肉が、大河内とマリの間に絶対的な防壁を作った。
「どけ! どかないなら、お前も刺すぞ!」
大河内はペーパーナイフを高木に向け、威嚇するように刃先を震わせた。
背後にいたまひるが、思わず息を呑んで「主任!」と声を上げる。まひるはいつでも大河内に飛びかかれるよう膝を軽く曲げたが、高木は背中で右手を上げてそれを制した。
高木は、自分に向けられた刃先を全く意に介することなく、ただ静かに大河内を見下ろした。
「現在、あなたは国税局の適正な調査を実力で妨害しようとしているね。国税犯則取締法に基づく検査の拒否や妨害は、1年以下の懲役または50万円以下の罰金に処される可能性がある。立派な犯罪行為になるんだよ」
高木の声は、どこまでも淡々としていた。怒りも、焦りもない。ただ事実だけを読み上げるその無機質な響きが、狂乱していた大河内のペースを少しずつ狂わせていく。
「うるせえ! そんなもん知るか!」
「それに加えて、あなたは今、刃物を持って公務員の職務を強要、あるいは妨害しようとしている。これは刑法第95条の公務執行妨害罪だね。さらに、もしその刃先が私や他の捜査官に少しでも触れれば、傷害罪、あるいは殺人未遂罪が適用されることになるよ」
大河内のペーパーナイフを持つ手が、ピタリと止まった。
「殺人未遂……」
「そう。脱税だけなら、莫大な追徴課税と重加算税を支払えば、借金こそ残るが社会の枠組みの中で生きていくことはできる。だが、ここでその刃物を振るえば、あなたの人生は本当に終わるよ」
高木は一歩、大河内へと近づいた。
大河内は無意識のうちに、後ずさりしてしまう。
「刑事事件を起こして実刑判決を受け、刑務所に入ったとしよう。しかし、税金の滞納は自己破産でも免責されないし、あなたが服役している間も時計の針は止まらない。延滞税は年利最高14.6パーセントで、毎日休むことなく確実に加算され続けるんだよ」
「な……っ」
「数年後、あなたが刑期を終えて社会に出た時。そこには、今の数倍、いや数十倍に膨れ上がった絶対に返せない額の借金だけが待っている。社会復帰の道も、冒険者としてやり直す道も、そのペーパーナイフを振り下ろした瞬間に完全に絶たれるんだよ。……それでも刺すというのなら、止めはしない。さあ、どうぞ」
高木は両腕を軽く広げ、無防備な胸を大河内へとさらした。
大河内は息を呑み、目の前にそびえ立つ巨漢を見上げた。
魔法も、物理攻撃も使われていない。だが、高木が静かに積み上げた『法律と現実』という名の見えない壁は、どんな強固な盾よりも分厚く、大河内の心を確実に押し潰していた。
服役中も雪だるま式に増え続ける延滞税。返済不可能な借金。完全な社会的死。
そのリアルすぎる絶望のビジョンが脳裏にフラッシュバックし、大河内はガタガタと震え出した。
「あ……ああ……」
大河内の手から力が抜け、ペーパーナイフが床にカランと音を立てて落ちた。
そのまま膝から崩れ落ち、彼は両手で顔を覆って泣き崩れた。
「俺の……俺の人生……終わった……」
完全に戦意を喪失した大河内に対し、待機していた捜査官たちが一斉に飛びかかり、彼の両腕を後ろ手にして床に押さえ込んだ。
「大河内。公務執行妨害での現行犯逮捕も視野に、警察への引き継ぎを行うわ」
マリが冷静に指示を出し、騒動は完全に終結した。
「助かったわ、乾三くん。あなたが来てくれなかったら、怪我人が出ていたかもしれない」
マリが短く息を吐き、高木に労いの言葉をかける。
「いや。君たちなら彼を制圧できただろうが、不用意に犯罪者を増やしたくなかっただけだよ」
高木は落ちたペーパーナイフを拾い上げ、安全なテーブルの上に置いた。
その背中を見ていたまひるは、改めて高木への尊敬の念を深めていた。
元冒険者の大河内が放つ殺気を前にしても、一歩も引かずに法律の恐ろしさを叩き込み、言葉だけで完全に屈服させたのだ。
「主任……やっぱり凄いです。あの状況で、あんな冷静に法律の話ができるなんて」
まひるが駆け寄って目を輝かせると、高木は少しだけ困ったように微笑んだ。
「ただの事実を伝えただけだよ。さあ、彼らの仕事の邪魔にならないように、私たちは退散しよう。……まだ、網の上の牛タンが待っているからね」
「あ……! そうでした、焼肉!」
まひるの顔がパッと明るくなる。
「急いで戻りましょう! 焼け焦げちゃいます!」
絶望の淵で泣き喚く大河内を後に残し、高木とまひるは、中断された夕食――まひるにとっては大切なデートの続きを楽しむべく、夜の新宿の街へと連れ立って歩き出した。




