第8話 剥がれ落ちる虚飾の鎧
「動かないでください! 国税です!」
静寂に包まれていた都心の高級マンションの高層階。全面ガラス張りで新宿の夜景を一望できる、大河内リョウの広大なリビングルームに、裂帛の気合いが響き渡った。
電子ロックのかかった分厚い防音ドアが物理的な力で乱暴に開け放たれ、黒いウィンドブレーカーを着た男女が次々と靴のまま踏み込んでくる。その数、ざっと10名以上。全員が険しい表情を浮かべ、一糸乱れぬ動きで部屋の各所に散開していく。
「おっ、おい! 何だお前ら!」
ある者は夜景が見渡せる広大なベランダへの窓の施錠を瞬時に確認して外への逃走経路を断ち、ある者は玄関への退路を塞ぐように壁となって立ち塞がる。またある者は複数の大画面モニターやマイク、ミキサーが並ぶ高価な配信ブースのパソコンに飛びつき、証拠隠滅を防ぐために電源ケーブルを即座に引き抜いて押収用の特殊な袋へと放り込んだ。訓練された無駄のない動きが、瞬く間に室内を制圧していく。
「な、なんだお前ら!? 不法侵入だぞ! 警察呼ぶぞ!」
逃亡用の当座の資金として用意した分厚い札束と、かき集めた全財産を変換した暗号資産のウォレットが詰まったショルダーバッグ。それを胸に抱え込んだまま、大河内は後ずさりしながら声を荒らげた。手足が小刻みに震え、額からは嫌な汗が滝のように流れ落ちているが、なんとか虚勢を張って怒鳴り散らす。
しかし、彼を取り囲む捜査官たちは誰一人として動じる気配を見せない。彼らは大河内の威嚇などまるで聞こえていないかのように、ただ淡々と、冷徹に己の任務を遂行する配置についている。
やがて集団の壁が静かに割れ、先陣を切って歩み出てきたのは、宮本マリだった。
パリッとしたタイトなパンツスーツに、清潔感のあるミディアムショートヘア。しかし、その顔に普段の親しみやすい笑顔は一切ない。氷のように冷たく、一切の感情を排した目で大河内を見下ろしている。
「大河内リョウさんね。新宿税務署よ。裁判所の令状に基づき、国税犯則取締法による強制調査を実施するわ」
マリは冷徹な声で告げると、スーツの内ポケットから折りたたまれた書類を取り出し、バサリと広げて大河内の目の前に突きつけた。そこには、赤々とした公印が押されている。
「東京地方裁判所の裁判官が発付した臨検・捜索・差押許可状。被疑事実は所得税法違反よ。令和4年度から現在にかけて、海外のダミー会社を経由した不正な資金操作により、約2億4000万円の所得を意図的に隠匿した疑い」
「ふ、ふざけんな! 何の証拠があってそんなデタラメ言ってんだ! 俺は配信の収益も、魔石の金も、全部ちゃんと……!」
「言い逃れしたいなら弁護士でも何でも呼べばいいわ。ただ、今のあなたの状況は1ミリも変わらないけどね」
マリは令状の文面から視線を外し、大河内を冷たく見据えた。
「あなたの言う『全部』の中に、私設買取業者を通した現金取引は含まれてるのかしら?」
「な……っ」
「さらに言えば、B国に登記されている『ダリア・コンサルティング』名義の口座から、あなたの国内のメインバンクへ毎月不自然な送金が繰り返されている件についても、キッチリ説明してもらうわよ。死と隣り合わせで稼いだ金だから税金は払わない? ふざけんじゃないわ。脱税は国家への反逆よ。取れるところから、1円残らず搾り取ってやるわ」
大河内の喉がヒュッと鳴った。心臓が早鐘のように打ち、嫌な汗が背中を伝う。
なぜその会社名を知っているのか。あのルートは、裏の税理士である鮫島が「絶対に足はつかない」と太鼓判を押していた、完璧な資金洗浄のスキームだったはずだ。どこから情報が漏れたのか、大河内の頭の中で凄まじい勢いで思考が空回りする。
「それから、もう一つ」
大河内の動揺をよそに、マリは手元のタブレット端末をスワイプし、画面を彼に向けた。
そこには、今日の午後の大河内の通話履歴、そして沖縄県金武町のタコライス店『キングターコース』の前で、鮫島が現地の警察と協力した国税の捜査員によって身柄を確保されている写真が鮮明に映し出されていた。かりゆしウェアを着た鮫島が、南国の強い日差しの下で無様に手錠をかけられ、パトカーへと押し込まれようとしている。
「あなたの背後にいる『鮫島』という人物。先ほど、沖縄県内で彼のアジトにも同時にガサ入れが入ったわ。彼のパソコンからは多数の裏帳簿が発見されていて、現在、あなたに関する非常に興味深い証言が色々と得られているところよ」
大河内の顔が、みるみるうちに土気色に染まっていく。
唯一の頼みの綱であった鮫島が落ちた。それはつまり、自分がどれだけ抵抗しようとも、口座の記録から裏のやり取りまで、すべてが国税の手によって白日の下に晒されることを意味していた。逃げ道は完全に塞がれたのだ。
「嘘だ……嘘だろ……」
膝の力が抜け、大河内はその場にへたり込んだ。
彼が必死に抱えていたショルダーバッグが手から滑り落ち、床に転がる。マリはわずかな目配せで部下に指示を出し、バッグは直ちに回収された。中身が床に広げられると、当座の逃亡資金として用意していた分厚い札束と、全財産が変換された暗号資産のハードウェアウォレットが無惨に転がり出た。
「ウォレットの押収、確認しました。直ちに解析班に回します」
「ええ。パスワードの特定を急がせて」
マリの指示のもと、部屋のあちこちで徹底的な捜索と差し押さえが開始された。
「第1寝室のチェストから、現金300万円とブランド物のバッグ多数、限定品のスニーカー十数足を押収します!」
「クローゼットの隠し金庫、開錠成功。中からロレックス3本、金のインゴット、さらに高級ポーションの未申告在庫が数十本あります!」
捜査官たちが無機質な声を掛け合いながら、大河内が買い集めた高級品を次々と段ボール箱に詰めていく。壁に飾られていた高価な現代アートの絵画、棚に並んでいた限定品のフィギュアやハイブランドの時計。それら一つ一つに、国税の赤い『差押』のシールが無情に、そして機械的に貼られていく。
「や、やめろ……俺の金だ……俺が必死にダンジョンで稼いだ金なんだよ……!」
大河内はうわ言のように呟きながら、床に這いつくばって捜査官に手を伸ばそうとするが、両脇を屈強な職員に抱えられ、身動きすら取れない。彼が己のステータスとして誇示してきた富の象徴が、ただの「換金価値のある物品」として事務的に処理されていく。
「地下の駐車場に、対象の車両を確認しました。ドイツ製の新型SUV、ナンバーも昨日の映像と一致。キーを押収し、車体にも差押の札を貼ります」
インカムからの報告を聞き、マリは短く「了解」と返した。
昨日、大河内自身が配信動画で自慢げに紹介していたあの1500万クラスの高級外車も、もはや彼のものではない。公売にかけられ、滞納している税金と重加算税の支払いに充てられる運命だ。
「さて。一番の大物の回収がまだだったわね」
マリはリビングの中央に鎮座している、仰々しい金属製のケースへと歩み寄った。
幾重にもロックが掛けられたその特殊耐熱ケース。中に入っているのは、大河内が動画で自慢げに見せびらかしていた『紅蓮の魔剣』だ。
「おっ、おい! それに触るな!」
それまでうなだれていた大河内が、突如として激しく暴れ出した。両脇を抱える捜査官の腕を振りほどこうと必死にもがく。床に靴をこすりつけ、唾を飛ばしながら叫ぶ。
「それだけはダメだ! お前らみたいな薄給の公務員が触っていい代物じゃねえ! それがないと俺は……俺はどうやって配信すればいいんだよ! 返せ! 俺の剣を返せ!!」
マリはケースの前に立ち止まり、這いつくばって絶叫する大河内を、ひどく冷たい視線で振り返った。
「あなたには何も残らないわ。残るのは、莫大な借金と、犯罪者という事実だけよ」
マリはケースのロック部分に、容赦なく赤い『差押』のシールをペタリと貼り付けた。
粘着テープが張り付く微かな音が、静まり返ったリビングに響いた。
「あああああぁぁぁっ!!」
大河内は獣のような絶叫を上げた。
「ふざけんな……ふざけんなふざけんなふざけんな!!」
絶望のどん底に叩き落とされた大河内の目から、恐怖が消え、代わりにどす黒い怒りと狂気が浮かび上がった。
すべてを奪われるくらいなら。どうせすべてが終わるのなら。
「俺の金だ!! 俺の剣だ!! 誰にも渡さねえ!!」
大河内は火事場の馬鹿力で、両脇の捜査官を力任せに振り飛ばした。
元はBランクまで到達した冒険者だ。魔力で強化されたその腕力は、一般の捜査官が簡単に押さえ込めるものではない。大人の男二人が、まるで紙くずのように壁際まで吹き飛ばされる。
捜査官たちがバランスを崩して倒れ込む隙を突き、大河内はリビングのテーブルに置いてあった鋭利なペーパーナイフをひったくり、マリに向かって猛然と突進した。
「宮本統括!」
部下の一人が悲鳴のように叫ぶ。
しかし、マリは一歩も引かなかった。彼女の顔には恐怖の色はなく、ただ冷ややかに、自滅への道を選んだ愚かな男の顔を見据えているだけだった。
大河内がペーパーナイフを振りかぶり、マリとの距離が2メートルを切ったその時。
開け放たれた玄関の方から、床板を軋ませるような、ひどく重く、静かな足音がリビングへと近づいてきた。




