第7話 逃亡のタイムリミットと窓口の絶対防壁
じりじりと肌を焦がすような強烈な日差しが、アスファルトに濃い影を落としていた。
沖縄本島の中部、金武町。米軍キャンプ・ハンセンのゲートの目と鼻の先にある、黄色い看板が目印の老舗『キングターコース』。周囲には異国情緒漂う看板が立ち並び、むせ返るような潮風と、排気ガスの混じった空気が通りを抜けていく。
その店先のベンチで、かりゆしウェアを着た初老の男が、プラスチックの透明な容器からこぼれ落ちんばかりに盛られた『タコライスチーズ野菜』をスプーンで崩していた。
山のように盛られたシャキシャキのレタス。その下で、炊きたての白飯の熱によってとろけ出した濃厚なチェダーチーズと、スパイスの効いた特製のタコミートが絶妙に絡み合っている。男はそこに真っ赤なサルサソースをたっぷりと回しかけ、大きな口を開けて放り込んだ。
ピリッとした辛味と肉の旨味を、結露した紙コップのコーラで一気に流し込む。Sサイズで注文したはずなのに、どう見ても都内のファストフード店のLサイズはある大容量だ。
時折通り過ぎる米兵たちのざわめきや、遠くから聞こえる車の排気音をBGMに、男は黙々と食事を進めている。
「……だから言っただろう。あの動画はやりすぎだと」
男――暴力団のフロント企業を隠れ蓑にし、数々の悪徳冒険者の資金洗浄を請け負ってきた裏の税理士、鮫島は、肩と首の間に挟んだスマートフォンに向かって呆れたように呟いた。
南国ののどかな空気とは裏腹に、電話の向こうからは悲鳴にも似た大声が響いている。
『ふざけんな! 俺の口座が凍結されてるんだぞ! メインバンクも、ネット証券も、全部引き出せねえ! どうなってんだよ!』
「どうもこうも、国税が本格的に動いたってことだ。お前がご丁寧に、1500万のマジックアイテムと新車の外車を全世界に配信してくれたおかげでな。査察の令状が下りたんだろう。今頃、そっちの税務署は完全な臨戦態勢だぞ。それに、あの映像から資金の出どころを追われたら、俺たちのフロント企業まで芋づる式に調べられるリスクがあるんだ」
鮫島はタコライスを咀嚼しながら、冷酷に事実を突きつけた。
『な、ならどうすりゃいいんだよ! 俺の金だぞ! 命を懸けて稼いだ俺の財産だ!』
「落ち着け。まだ家の中の現金や、魔石の現物は押さえられていないはずだ。今すぐそれらを持って、新宿の『ツテ』のところへ行け。手数料は5割もらうが、すぐに足のつかない暗号資産のハードウェアウォレットに替えてやる」
『ご、5割!? ふざけんな、ぼったくり……!』
「じゃあ国税に全部没収されるのを大人しく待つか? 好きな方を選べ」
鮫島の言葉に、電話の向こうの大河内はギリッと歯軋りをして沈黙した。
「いいか。ウォレットを手に入れたら、そのまま羽田か成田へ直行して海外へ飛べ。ドバイでもシンガポールでもいい。ただし、ビザや現地の長期滞在の審査で弾かれないように、区役所で『海外転出届』の提出と『納税証明書』だけは取っておけよ。手続きの履歴さえあれば、後はこっちで現地のエージェントに繋いでやる」
鮫島は一方的にそれだけを言い残すと、通話を切った。
「……馬鹿が。さっさとトカゲの尻尾切りにさせてもらうさ」
残りのタコライスをかき込みながら、鮫島は自身の安全な逃亡ルートの構築に思考を切り替えていた。
★★★★★★★★★★★
同日、午後3時。
新宿区役所、1階フロア。
外の厳しい残暑とは対照的に、冷房がしっかりと効いた庁舎内は、住民票の移動や税務の相談に訪れた多くの市民で混み合っていた。ダンジョン管理課の窓口でも、冒険者たちが魔石の換金やトラブルの相談で列を作っている。
その日常の風景の中を、目深に被ったキャップと黒いマスクで顔を隠した大河内は、息を切らしながら自動ドアを潜り抜けた。
彼の肩には、黒いショルダーバッグが食い込むように掛けられている。鮫島の指示通り、裏の業者で莫大な手数料を引かれながらも、かき集めた全財産を暗号資産のハードウェアウォレットに変換することはできた。今、彼の手元に残されているのは、その小さな端末と当座の逃亡資金の札束だけだ。このバッグだけは、絶対に手放すわけにはいかない。
(クソッ……! なんで俺がこんな目に……! 昨日の夜までは、動画もバズってて、最高の気分だったのに……!)
額に滲む冷や汗を拭いながら、大河内は総合案内の発券機から番号札をもぎ取り、ダンジョン管理課の窓口を睨みつけた。
焦燥感で心臓が嫌な汗をかくほど激しく脈打っている。息をするたびに胸の奥が張り裂けそうだった。あとは区役所で最低限の公的な書類を揃え、今夜の便で日本を脱出するだけだ。海外にさえ逃げてしまえば、日本の国税局といえどもそう簡単には手出しできない。新しい国でまた一からやり直せばいい。資金さえあれば、いくらでもやり直せる。
「番号札105番でお待ちのお客様、3番窓口へどうぞ」
自動音声のアナウンスが響き、大河内はショルダーバッグを抱え直して窓口へと向かった。
そこには、見覚えのある巨体が、分厚いファイルの山を前にして静かに座っていた。
「お待たせいたしました。本日はどのようなご用件でしょうか」
高木は手元の書類からゆっくりと視線を上げ、マスク姿の大河内をまっすぐに見据えた。
「……海外転出届と、納税証明書のその1、その2だ。急いでる。今すぐ出せ」
大河内は声を押し殺し、記入済みの申請用紙とマイナンバーカードを乱暴にトレイに投げ出した。
少し離れたデスクで作業をしていたまひるが、大河内の姿に気づいてハッと顔を上げる。このタイミングで海外への転出書類を求めに来たということは、完全に逃亡を図っている証拠だ。
しかし高木は、微塵も動揺を見せることなく、差し出された書類を手に取った。
「海外への転出ですね。承知いたしました。……ただ、大河内様」
高木は書類をじっくりと、本当にじっくりと目で追いながら、静かな声で言った。
「こちらの転出届ですが、転出先の国名として『アラブ首長国連邦』としか記載されていません。住民基本台帳法施行令第23条の規定により、転出予定年月日、および転出先の具体的な都市名や滞在先の所在地の記載が義務付けられています。これでは受理いたしかねます」
「そんなのまだ決まってねえよ! ホテルを転々とする予定なんだよ! とにかく海外に行くって書いてんだからそれでいいだろ!」
大河内はアクリル板をバンと叩き、苛立ちを露わにした。
「いいえ。行き先が未定のままでは、行政として正確な居住実態の把握ができません。最低でも最初の滞在先のホテル名と住所を正確に記入していただく必要があります」
高木は全く表情を変えず、ボールペンで記載の不備箇所をコンコンと叩いた。
「くそっ、わかったよ! 今スマホで適当なホテル調べるから、ちょっと待ってろ!」
大河内がポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で画面をスクロールし始める。その間に、高木はもう一枚の申請用紙である「納税証明書交付請求書」に視線を移した。
「それから、もう一点。こちらの納税証明書の発行についてですが」
高木が手元の端末でマイナンバーを打ち込み、キーボードを操作する音がフロアに響く。
「……現在、大河内様の国税データおよび地方税の照会システムに、ロックがかかっております」
「は……?」
「所轄の税務署が法定の調査手続きに入っているため、区役所の窓口システムと一時的に連携が切断されている状態です。申し訳ありませんが、当課の窓口では現在、あなたに関するいかなる税務関連の証明書も発行することができません。システム上、窓口担当者の権限でこのロックを解除することは不可能です」
大河内の動きがピタリと止まった。
血走った目が、信じられないものを見るように高木を睨みつける。呼吸が浅くなり、顔の筋肉がひきつっていた。
「ふ、ふざけんな……! 俺の証明書だぞ! なんで出せねえんだよ! 嫌がらせか!?」
「嫌がらせではありません。国税通則法に基づく適正な調査に伴う、システム上の仕様です。どうしても即日発行が必要ということであれば、直接新宿税務署へ赴き、調査担当の職員から口頭で発行許可の稟議を通してもらう必要がありますが……いかがなさいますか。今から税務署へ向かわれますか?」
高木の言葉は、どこまでも丁寧で、事務的だった。
しかし、大河内にはそれが「お前が今税務署に行けば、そのまま差し押さえの包囲網に飛び込むことになるぞ」という、残酷な宣告にしか聞こえなかった。
ビザや現地のエージェントとの契約に必要な公的書類が手に入らなければ、正規のルートでの出国は不可能だ。
「……て、てめぇ……わざとやってるだろ……!」
「私は区役所の窓口担当として、法令と規則に基づき、書類の不備とシステム上の事実をお伝えしているだけです。手続きを完了させたいのであれば、まずは滞在先の正確な住所をご記入ください」
高木は一切の感情を排した目で、大河内を見下ろした。
「……クソッ! クソがぁッ!!」
大河内は申請用紙の控えをひったくるように奪い返すと、カウンターを力任せに蹴りつけ、ショルダーバッグを大事に抱え込んで区役所の自動ドアから血相を変えて飛び出していった。
正規ルートが使えない以上、自宅スタジオに残してある高級時計や現金化しやすいマジックアイテムをかき集め、裏の密航ルートを探すしかない。どんな手を使ってでも、今日中にこの国から抜け出さなければならない。捕まれば、これまでの努力と名声、そして財産がすべて水泡に帰してしまう。
大河内の背中が見えなくなった後、まひるが高木のデスクに駆け寄ってきた。
「主任! あいつ、完全に海外に逃げる気ですよ! 止めなくてよかったんですか!?」
「無理に引き留めれば、それこそ不当な拘束になるからね。だが、手続きに不備がある以上、証明書を出さないのは正当な行政の判断だよ」
高木は手元の端末の画面を閉じながら、小さく息を吐いた。
「それに、彼がここで書類の不備で足止めを食らっている間に、必要な『時間』は十分に稼げたはずだ」
★★★★★★★★★★★
大河内がタクシーを飛ばし、閑静な住宅街にある自身の自宅兼スタジオのマンションに辿り着いたのは、区役所を飛び出してから30分後のことだった。
「急いでくれ! もっと飛ばせねえのかよ!」と運転手を怒鳴りつけながら、何度も後ろを振り返り、追跡者がいないかを確認していた。
「クソッ、クソッ……! なんでこんなことになんだよ……!」
タクシーを乱暴に降り、エレベーターを待ちきれず、階段を駆け上がり、震える手で鍵を開けて部屋に転がり込む。
暗号資産のウォレットは無事だ。あとは、金庫に残っているロレックスと、動画で見せびらかした『紅蓮の魔剣』さえケースごと持ち出せば、最悪の事態は免れる。
しかし、大河内がリビングに足を踏み入れた瞬間、窓の外からけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
「な、なんだ……!?」
驚いてベランダのカーテンを少しだけ開け、下を見下ろす。
マンションのエントランス周辺と、裏口のゴミ捨て場の前に、黒塗りのワンボックスカーが数台、隙間なく停車していた。
車から降りてきたのは、揃いの黒いウィンドブレーカーを着た屈強な男女の集団だった。彼らは無駄口を一切叩くことなく、瞬く間にマンションの出入り口と非常階段を完全に封鎖していく。
「ウソだろ……っ」
大河内の膝が震え、その場に崩れ落ちそうになった。
集団の先頭に立ち、エントランスの自動ドアの前に歩み出たのは、パリッとしたパンツスーツを着こなした一人の女性だった。
新宿税務署の特別国税徴収官、宮本マリ。
彼女は手にした拡声器を口元に当てることはせず、ただ静かに、見上げる大河内の部屋の窓と、バッチリと視線を合わせた。
距離が離れているにもかかわらず、大河内には彼女の冷徹な眼差しが、自分の喉元に真っ直ぐ突き立てられているのがはっきりと見えた気がした。まるで、自分のすべての逃走経路が、最初から彼女の手のひらの上であったかのように。
「突入しなさい。対象は悪質な隠蔽工作を企図しているわ。証拠隠滅の恐れあり。一歩も外に出さないで」
マリの短く鋭い号令と共に、国税局の精鋭部隊が、一斉にマンションの内部へと雪崩れ込んでいった。




